第19話
楽朴堂と客の日々
序
鳥ノ目市(とりのめし)。
東京都の、山梨県に近い方に位置する。人口三万人ほどの小さな市だ。昔は八王子市の一部であった。かなりの昔だ。もう三十年は経つだろう。
森や川の自然に囲まれた穏やかな市(まち)だ。朝になると鳥のさえずりが耳を和ませ、昼になると太陽の光を反射した川面がきらきらと輝き、夜になると満点の星空が見られる。
鳥ノ目市の片隅に、その店はある。
楽朴堂(らくぼくどう)、という。知る人ぞ知る名店だ。骨董屋やリサイクルショップと同じく、古い物を扱っている。ただ、楽朴堂が収集するのはただの古物ではない。
ハンターが回収した珍品、である。
楽朴堂――外観は江戸時代の木造建築、といったところだろうか。入口の扉から中に入ると、広い室内に、乱雑に積み重なっているガラクタたち。このガラクタこそが商品でもある珍品たちなのだが、店の人間は商品を綺麗に陳列しようなどとは考えないようである。遠くから眺めると、ただのゴミ山にも見える。
店を奥に進むと、座敷がある。椅子と机が置かれ、団らんが出来るような雰囲気だ。
実際、二人の男が椅子に腰かけ何やら談笑をしている。
一人は唐松模様をした藍染の羽織を着て、靴はボロボロ、手にしたカップから漂ってくるのは緑茶の香りだ。もう一人はアロハシャツに短パン、首にはうさぎちゃん模様のスカーフを巻き、手にしたコーヒーカップから漂ってくるのは甘い紅茶の香り。
「麻根(あさね)くん、お客さん来ないね」
緑茶の男は茶を啜りながら、紅茶男に向かって語りかける。
「やはり店というのは客がいてこそ成り立つ。客がいない店はただの倉庫だ。倉庫を店とは呼ばない。なあ? 麻根くん」
「久我(くが)さん、それでうまいことを言ったつもり?」紅茶男はカップの中で溶けずに残ている角砂糖を見つめる。「それより早く新しい湯沸かし器を買ってよ」
角砂糖が溶けないのは明らかにお湯の温度が低いからである。湯気が立っていないことからも、カップが大して熱くなっていないことからも、それがわかる。問題なのは沸騰していないのにも関わらず『ぴこーん』という完了音を発した湯沸かし器と、そんなポンコツな湯沸かし器を信用して熱くないお湯でお茶類を淹れた緑茶男である。
「久我さん、美味しくないんだ」
紅茶男は深刻な口ぶりで言った。
お茶が美味しくない、そのことがどれだけ生活の質に影響を与えるのか。
そのことを緑茶男に伝えるには、短いセリフにありったけの深刻さを込める演技力が必要である。
「美味しく、ないんだ」
紅茶男は、頑張った。見事、『死にたく、ないんだ』を言うみたいに「美味しく、ないんだ」を言ってのけた。
しかし、言葉に込められた感情など知ったことではない緑茶男である。
「やっぱりお客さんがいないとさあ」
自分のしたい話を、続けたのである。
「お客さんがいないと、仕事ってやりがいがない。身に染みて感じるよねえ」
紅茶男はため息をついた。緑茶男との対話を諦めたのだ。
そして――溶けないのならば溶かせばいい。カップの中に箸を突っ込み、角砂糖をがしがしと崩してゆく。
紅茶男は角砂糖崩しに夢中になり、そして、暴虐の限りを尽くす箸によって角砂糖が見事に粉砂糖に変わりつつあった、まさにその時。
ガラガラと、店の扉は開いた。
緑茶男は椅子から飛び上がり、声を張り上げて叫んだ。
「いらっしゃいませー!」
一章 うるさい天狗
上下黒の運動服に身を包んだ中肉中背の彼は、川辺を散歩している。彼の名を周防依斗(すおうよりと)という。
散歩は休日ルーティンの一つだ。川沿いを歩くのは気持ちが良いし、良い運動にもなるし、なにより時間を潰すことが出来る。歩くだけで時間が過ぎてゆくのがありがたい。
依斗は川辺に生えている雑草の中に一輪の花が混ざっていないかどうか探しながら、ゆっくりゆっくりと歩く。
花を、見つけた。白くて小さな花だ。緑の雑草の中で、控えめに咲いている。その遠慮がちな雰囲気になぜが胸のざわめきを覚える。依斗は不安になり、あたりを見回した。
「……なんだ?」
誰もいないし、何もない。目の前には、川沿いの歩道が続いているだけだ。
今の不安感は、何だったのだろうか。
ふと目線を逸らすと、民家の生垣と塀の間に砂利道がある。人が一人通れるかどうかというくらいの、狭い道だ。今までの散歩では特に目をとめなかった。
けれど、不安感の正体はその道の先から来ているような気がするのだ。
依斗は川沿いの歩道から外れ、その細い砂利道へと進んで行った。
道は思った通りに狭く、塀に服を擦りつけながら進む。しばらく行くと、開けた場所に出た。雑草がぼうぼうの空き地だ。
依斗は額に手をかざして太陽の明かりを遮った。そうして向こうの方をよく見てみると、雑木林の中に木造の建物がある。ボロボロで古臭いが、廃墟と呼ぶには綺麗すぎる。雑草がぼうぼうでもないし、屋根が崩れたりもしていない。きっと住んでいる人間がいるのだろう。
看板が、立てかかっている。
珍品店 楽朴堂
興味をそそられて、依斗は建物へと近づいて行った。
扉を開けて中に入り、さっそく圧倒された。そこにあるのはゴミの山だ。
人形、機械の部品のようなもの、布のつぎはぎ、ミニチュアの模型、落書き帳、古本、使い古した文房具、などが乱暴に積まれて山になっている。
「うわあ。不法投棄現場か?」
思わず呟くと、
「いらっしゃいませー!」。
山の向こうから声がした。
「いらっしゃいませ! いやあっ! 久しぶりのお客さまですなあ!」
姿を現したのは、藍色の羽織を着た、年は三十半ばくらいだろうか。ぼさぼさに跳ねた黒髪と履き潰したようなよれよれの靴から、依斗は男を察する。
(不法居住民か⁉)
どうせならもっと良い物件に住み込めばいいのだ。
ここ五十年ほど、少子化をたどる一方の日本国。かつては栄えていた村も廃村となるありさまだ。人間よりも建造物の方が圧倒的に多い。あちらこちらに空き家だらけ。持ち主のわからない、もっと豪華な廃墟物件は、探せば他にもあるだろう。わざわざ不法投棄現場に住まなくたって。
「気になった商品があったら言ってくださいな! 手取り足取り、商品説明ならいくらでもしますので。それとも何かお目当ての物がおありですかな?」
依斗はじっと男を見つめる。
「商品?」
男は頷く。
「はい。こちら全て、我ら楽朴堂が集めた珍品でございます。お値引きいくらでも応じますよ。気前の良さくらいしか取り柄がないもんで。そうだ、申し上げ忘れておりました。僕は店主の久我亨哉(くがきょうや)、と申します。どうぞよろしく」
「これらが商品? 不法投棄現場に見える」
「さてはお客さま、この筋の方ではありませんね?」
「この筋?」
「珍品業界では、我々はそこそこ有名なんですよ」
「そんな業界があるんだ? まあ、でも……」
依斗は天井の梁を見上げた。太く長い板が立体的に組まれてる。厳かな気配、というものを醸し出しているのだ。
建物に入る前も感じたのだ。ただの木造建築だが、そこから滲む、厳かな気配。
「店、と言われれば確かに……。この空間には何か、特別な物があるような気がしなくもないけれど」
「さすがお客さま、お目が高い!」
久我はパン、と手を叩く。
「楽朴堂はこの世にある異域、珍品を保護しその効果を失わせないために存在するオアシスなのです。ここにある珍品は本物ですよ」
「へえ……」
依斗は思い立つ。
「人生を楽しくさせてくれるような商品はないか? 俺、毎日がつまらないんだ」
「そういうことなら……」
久我は商品の山の中に腕を突っ込み、何かを引っ張り出す。
拳サイズの人形だ。といっても、鼻が長く顔が赤い。眉毛は太いし、和服姿で、背中から羽が生えている。人というより――。
「天狗です」
久我は言い、天狗の鼻先をすっと撫でる。
「あなたのような人ならば、この人形と過ごすことで真の人生が手に入ることでしょう。楽しくなりますよ、きっと」
たかが天狗の人形が、自分の人生を楽しくさせてくれるものか。陳腐なセールストークにはのらないよ。
いつもの依斗ならばそう、言ってのけただろう。
けれど今日は、違った。
「いくら?」
依斗は財布の中身を数えながら尋ねる。
毎日が楽しくなるというのならば。
「お金ならある。その天狗、くれ」
目覚めたらまず、髭を剃る。そのあとトースターにパンを放り込み、五分間焼いている間にパパっとシャワーを浴びる。パンにはバターを塗る。ジャムは不要だ。
パンを食べ、牛乳を飲み、スーツに着替える。
出勤だ。
依斗の仕事は、派遣会社の社員。派遣される方ではなくする方だ。登録してくれている派遣さんと紹介先の会社とを繋ぐ。
家を出るのは七時四十三分。最寄りの駅のホームまで徒歩で、体調の良い日ならば五分で着く。遅い日は六分かかる。駅のホームまで何分かかったのか、それはその日の体調のバロメーターだ。五分の日は残業をしてもいいが、六分の日は嫌味を言われてでも定時で帰る。
今日は五分で駅のホームに着いた。
(今日は残業をしてあげよう……)
思いつつ、依斗はカバンの中をちらりと覗き見る。
天狗の人形と、目が合った。
会社に着くと、同僚の前田だ。「周防、お疲れ!」。手を振りながら笑いかけてくる。
「こないだの金曜は楽しかったよ! あ、おまえはいなかったっけ?」
飲み会のことだろう。『共に落ちぶれる華の金曜日夜の会』、というらしい。年の近い同期で集まっているのだ。依斗はその手の会に参加したことがない。
「俺はいなかったでしょ。わざと言ってるよな?」
前田は「そうだったか?」と、とぼける。「あ、そうか。周防は彼女とデートだったんだよな? だからばっくれたんだ」
「彼女いないし」
「そうだったっけ? あ、そうか、あれは猫の話か。くすぐっただけで鳴き声を出しちゃうエッチな猫」
「猫、飼ってない」
「誰だったっけ? 寝室の間接照明が盆踊りの提灯(ちょうちん)な奴(やつ)」
「俺じゃないな」
「自分の膀胱がどれだけ耐えられるのかを知りたくてトイレを我慢してたら膀胱炎になったんだよな?」
「それも俺じゃない」
「寝る前にベランダに出て告白ソング熱唱するんだったよな?」
「それも俺の話じゃないな。てかそんな奴いんの? かなりの近所迷惑だな」
「おまえじゃなかったっけ?」
「違うし」
前田はふう、とため息をつく。
「やっぱり飲みに来てくれないといじれないよ。おまえがどんな奴がわかんねえもん」
「いじんなくていいし」
「感じわりぃなあ。あ、そうだそうだ」
前田は胸ポケットからメモ用紙を取り出す。
「おまえが担当してる派遣さんから電話があって。契約更新のことで聞きたいことがあるって。折り返すって伝えておいた」
依斗はメモを受け取り、
「どうも。他に何か俺の管轄でなんかあった?」。
「おまえが担当してる紹介先からも会社に電話があったよ。おまえ担当の派遣さんが問題行動を起こしたって。契約切るかどうかで相談したいから連絡くれって。他の連絡は、おまえの机に付箋貼ってあるから」
「ありがとう。昨日は急に休んで迷惑かけたな」
「サッカー見に行ってたな? 夕方のキックオフだったからな。定時にあがっても微妙に間に合わない」
「俺、サッカー見ないし」
「え? 違ったっけ? FC鳥ノ目のサポーター」
「だから俺じゃないって」
「スポーツとか見る?」
「見ない。興味ないから」
「ほんとおまえってわかんねえな。ま、いっか」
家から駅のホームまで六分かかった日、断固として残業をしない。そしてすぐに家に帰り早寝をする。それくらい徹底しても、月に一度は謎の体調不良がやって来る。体が重く、頭が働かず、何も出来ない。何も感じないし、ただひたすら気持ちが悪い。
昨日がその日だった。一昨日は体調良好で、散歩にも行ったし珍品店楽朴堂とかいうお店で人形を買ったりする意欲もあったのに、突然そういう日がやって来る。仕方なく休みを取った。
前田のように、何事もなかったかのように連絡を繋いでくれる存在がいるのはありがたい。
前田に礼を言い、依斗は自分の仕事に取り掛かった。
こまごまとした連絡を終わらせ、それからは担当している派遣さんから送られてくる勤怠表をチェックしたり交通費や資格手当昇給をパソコンに記入したりの事務仕事。
そこまでやって、お昼になった。
午後からは新人の派遣さんとの打ち合わせが入っている。その前に昼食を食べ終えないといけない。
依斗は会社から出た。
いつも通っている牛丼チェーン店に入ると、人が並んでいる。とはいえ二、三人なので、待つことにした。財布を用意しておこうとカバンを開き、ぎょっとなった。
天狗の目が、光っている。そして、口が動いた。
「ったく、早く食べたいのに並ばないといけないなんて。やっぱりこの世の中には人間が多すぎる」
(……え?)
依斗は反射的に店から出て走り出した。人気のない、遊具のない公園まで来てやっと、足を止めて息をついた。
そして再び、カバンの中を覗き込む。
「世の中、こんなにたくさんの人間がいて、みんな生きていかないといけないのに、なぜおまえは牛丼なんか食おうとするんだ? おまえも生きたいのか?」
低く枯れた、小さいがよく響く、奥行きのある声。
明らかに天狗の人形が喋っている。
「なんだよ。ただの人形じゃなかったのか。ロボットかなんかなのか? 突然、音を出されたらびっくりするだろ」
天狗の人形は口の端をにぃと伸ばした。くっく、と、喉の奥から笑う。
そして、
「あの前田ってやつ、存在がうざいな」。
言った。
依斗は目を見開く。
「は?」
天狗はくっくっくっ、と笑う。
「あの前田ってやつ。同期とつるんで飲み会を主催したり、先輩をいじってかわいがられたり、仕事も要領がいい。ああいう存在がいるせいで、毎日、牛丼がまずいなあ」
「……人形のくせに卑屈なこと言うんだな。誰だよ、こんな可愛くないの作ったの」
「前田のような人間は毒だ。早く消さないと、おまえが毒にやられてしまう」
「喋らないモードに出来ないのか?」
「やるかやられるかだ。つまり、前田を殺すか、おまえが死ぬかだ」
「音声スイッチどこ? オフに出来ないの?」
天狗の人形をまさぐりスイッチを探しながら、依斗は思った。
この天狗の人形が喋る仕様だとして、音声プログラムが仕込まれているとして。
――なぜ、前田の名前を知っている?
手に汗がにじむ。
「……ないな。スイッチなんてどこにも」
「もうすぐで昼休憩が終わるぞ」
天狗はまた喋る。
「つまらない仕事だ。人と会い、事務作業をし、同僚や上司とのどうでもよい会話をこなして家に帰る。そして帰って寝たらあとは起きるしかない。その繰り返しだ」
「……誰だよこんな人形作ったやつ。気持ち悪いな……」
「こんな毎日のために生きるのか?」
「仕事しないとお金が手に入らないんだよ。仕事があるだけありがたいんだし。おまえ、少し黙ってろ」
すると、天狗の人形はしゅんとした顔をする。人形にしては生々しい表情だ。
けれどそれっきり、天狗の人形は喋らない。
依斗はホッと息を吐き、時計を見てギョッとする。
「やべ。時間だ」
牛丼をまだ食べていないのに、仕事開始時間である。
昼下がりのカフェだ。店内はトーストやらサンドウィッチやらを頬張る客がたくさんいる。依斗のテーブルの上にあるのは、二つのブラックコーヒー。
「では登録内容の確認はこれで。今回ご案内するお仕事はラベルを貼ったり欠品確認をするなどの単純作業ですので、真面目に就業して頂ければそれで充分です。ご希望であれば長期就業も可能な案件となっております。無断での遅刻欠席には気をつけてください」
依斗は淡々と説明を終えた。
目の前には新しい派遣さんが座っている。年齢は二十。男性だ。今までは実家で引きこもっていたが、お金が必要になり派遣登録をしたという。仕事に対して前向きではないのだろう。自信なさげな暗い表情で、説明に対する反応も薄い。
「あの、聞いてます?」
少し強めの口調で尋ねると、派遣さんは「あ、はい」とぎこちなく頷く。「聞こえてます」
「返事と挨拶はちゃんとした方がいいですよ。あとは真面目に黙々と、言われた通りに働くこと。人の話はきちんと聞くこと。それさえやれば、面倒でも嫌でもなんでも、口座にお給料は入ってくるんだから」
「……苦手なんすよね……」
派遣さんはぼそりと言う。
「挨拶とか返事とか、やる気ないわけじゃないんすけど、なんか……」
「やる気があるのになぜ出来ない?」
「それは……なんでって言われても……」
「ただやればいいんですよ。そうすれば生きていけるし、お金だって手に入る」
「人の話を聞くのが苦手で」
「ただ聞けばいいんですよ」
「俺、馬鹿だから。だからバイトも続かなかったんすよね」
「でもこうしてまた働くことにしたんでしょう? 甘ったれていると、ハードルの低い職場でもすぐに契約切られちゃいますよ」
「……なんか自信がなくなってきたなあ」
「君ねえ」依斗はため息をつく。「せっかくこうして案件を繋ごうとしてるんだよ? 僕だって頑張って働いてるんです。君も頑張りなさいよ」
「俺、人間関係も苦手で」
「僕だって苦手ですよ? けどそんなの気にしなくていい。適当に聞き流していればいいんです。仕事っていうのは、やれって言われたことやっていれば給料くれるんです。それ以上のことを求めてくる職場は間違っている」
「でも怒られたりすると仕事行きたくなくなるし。会話の輪に入れないと気まずいし」
「気にすんじゃないよ」
「ええ……?」
「心を無にして、集中するんですよ」
「……そんなこと……」
「お金が必要なんでしょう?」
「まあ、それは……まあ……そうだけど……」
派遣さんは打ちのめされたような顔になり、黙り込んでしまう。
依斗は無言で書類をまとめ、封筒に入れて、派遣さんの前に差し出した。
「これで打ち合わせは終わり。就業開始日は連絡するから、きちんと返事して下さいよ? でないと紹介先に迷惑が掛かりますからね」
派遣さんの顔を見ずに、依斗は席を立った。
そのまま、カフェを後にした。
打ち合わせ場所のカフェから会社まで、徒歩で戻る。
依斗はちらりとカバンの中をのぞいた。天狗の人形が、パッチリと目を開いてそこにいる。
人形の口元が動く。
「あんなガキの相手をしないといけないなんて。この世の終わりだな」
嘆くというよりかは皮肉を言うみたいなユーモラスな口調に、依斗は思わず笑みを漏らす。
「まだ二十歳だとさ。若いねえ」
依斗は今年二十八歳になる。二十歳は遥か昔に思える。
「問題行動を起こしそうなガキだ。ろくな人材を連れてきやしないと、おまえの評価が下がる」
「いいさ別に。仕事にそこまでの思い入れはないし。……おまえ、なんだかちょっと面白いな」
すると、天狗の人形はにやりと笑った。
「面白いか? そうかそうか。それは良かった」
会社のオフィスはビルの三階にある。三、というのは好ましい数字だと、依斗は常日頃から思っている。バランスを取るための必要最低限だからだ。
衣食住、朝昼夜、赤黄色青、司法立法行政。御三家といったりもする。御四家や御五家というのはあまり聞かない。
エレベーターで三階まで行き、「お疲れ様です」と言いながらオフィスの扉を押した。
「お、いいところに来たねえ、周防さん」
上司が手招きをしている。
「話があるんだ。来なさい」
ついて行くと、壁で仕切られた小会議室に通された。
上司は依斗に向き直ると、「で、話なんだが」と切り出す。
「ひのきリハビリステーションから連絡が相談があってね。君が連れてくる派遣さんの質があまりよくない、と」
ひのきリハビリステーションは依斗が担当している紹介先だ。これまでに十数人、派遣さんを紹介してきた。
「頭を悩ませている主な派遣さんは、無断欠勤ばかりの田中さんと無断ではないけれど欠勤ばかりの林さんと仕事をなかなか覚えない大川さんと少し注意をしただけでキレて壁を蹴る江川さんと施設の利用者に暴言を吐く飯塚さん、だそうだ。この五人は、契約更新はなしだ。そしてこう聞かれた。そう、この話をするために、俺に直接連絡が来たんだろうが――派遣さんの質が良くないのは会社のカラーなのか、それとも担当者の腕なのか?」
依斗は上司の言わんとしていることを予想し、先に頷いた。
「いいですよ、僕、ひのきリハビリステーション外れますよ」
バン、と音がした。上司が机を叩いた。
「いいですよ、じゃないだろ! ひのきリハビリステーションは福祉分野だ。人材紹介の際には派遣さんの人柄にも留意するよう、言っておいたはずだ」
依斗は平然と頷く。
「はい、その通りにしましたよ」
「その通りとは?」
「身だしなみが地味で、言葉遣いがきちんとしている人」
「でもひのきリハビリステーションが言うには、問題児ばかりだそうだが?」
「そりゃあ、身だしなみが地味で言葉遣いがきちんとしていても、欠勤する人はするだろうし、キレやすい人はキレやすいでしょう」
「開き直るんじゃない。俺はきちんと人材を選考しなさいと言ったはずだ」
「はい、ですから言う通りに」
「君の担当だろう⁉ 責任を持ちなさいと言っているんだよ!」
上司はすっかり怒り心頭だ。これでは冷静な話は出来ない。依斗が思わずため息をつくと、上司は再び、バンと机を叩く。
「ため息つくなんて君! 論外だな! 話にならないよ! ……ちなみに、田中さんと林さんが欠勤ばかりなのは知っていたのか?」
「そりゃあ、わかりますよ。勤怠の記録を見れば」
「本人たちにフォローをいれたのか?」
「……フォロー?」
「電話をするなりメールを送るなりして、注意を促すなり、話を聞くなり」
「他の業務で手一杯で、中々そこまでは」
「ああ! もういいよ君!」上司は大げさに手を横に振る。「ひのきリハビリステーションからは降ろす! あとは頭を少し冷やして、もっと熱心に業務に取り組ん欲しいものだね! ったく!」
「……すみませんでした」
「はあ?」
依斗は真心を込めて謝ったつもりだが、その一言も、上司の癪に障ったようだ。
「よくもそんな心のないすみませんを言えるもんだな! 社会人何年目だよああ? 滝行
でもして身を引き締めたらどうなんだ?」
「はい」
上司なあんぐりと口を開ける。
「馬鹿みたいな返事すんじゃないよ! ふざけてるよな、本当に」
「あの」
「もういいよ。出て出て!」
依斗は追い出されるようにして小会議室から出た。
その二十分後、再び上司から呼び出され、ひのきリハビリステーションを引き続き担当するように言われたのだった。
ひのきリハビリステーションへ、謝罪と引き続き取引してもらえるようにお願いする連絡。それから、素行の良くない派遣さんたちに契約切りの連絡。事情を詳しく聞き、次の案件を紹介するか会社を辞めるかの相談。
これらをしているとあっという間に定時を過ぎ、がっつり三時間の残業をした。
家に帰ると体はすっかりへとへとで、依斗はベッドに倒れ込んだ。
カバンから、天狗の人形がこぼれ出る。
「今日もごみのような一日だったな!」天狗は憎々し気に言う。「こうしてごみのように生きていくんだろうな! おまえは!」
依斗は軽く笑いながら、
「そんなこと言うなよ。働けてるだけありがたいんだ。感謝するべき毎日だ」。
天狗の人形は手足をバタバタさせながら、
「だいたいあの石頭はなんだ? 身だしなみが地味で言葉遣いがきちんとしている人、という基準を設けたのは自分だろう? その時点で裁量権を認めていないのに、責任だのなんだのって」。
依斗は天狗の人形を抱き上げる。
「あの人がああやって具体的に指示してくれるから、俺は言われたことをやるだけでいいんだよ。文句を言うもんじゃない」
依斗に抱かれた天狗は、鼻をひくひくさせる。
「嘘つきだな、おまえは」
「本音だよ。ああいう人が必要なんだろ、会社には」
「派遣さんがどんな人か、紹介先でまっとうに働ける人なのか、一目見ただけで分かるわけがないだろうが」
「人を見る目を磨くのも仕事なんだろうな。俺、そういうの苦手だから」
「おまえは白々しいことばかり言う。謙虚な振り、わからない振りだ」
依斗は笑う。
「天狗。おまえと話すの楽しいよ。買って良かった。気分がスッとする」
すると天狗は、目を細め、言った。
「そうであろう。そうであろうとも」
あくる日のお昼休憩時間。依斗が職場近くの公園で缶コーヒーを片手に天狗とおしゃべりをしていると、携帯電話が鳴った。
一度も見たことのない番号からだ。
「誰だよ」
警戒しながら通話ボタンを押すと、
『いきなりすみませーん! ご無沙汰しておりますー!』。
やたらと上機嫌な声が出る。
「どなたですか?」
『あ、これはこれは失礼いたしました。最初に名乗るべきでしたね。楽朴堂の久我です』
「ああ……」
天狗を買った店だ。
『さて、周防依斗さま。その後、珍品の調子はいかがでしょうか?』
「聞きたいことがあるんだけど」
『なんなりと』
「これってロボットかなんかなの? ぺらぺらとよく喋るけれど」
『珍品です』
「……喋るモードをオフにしたりは出来ないんだ?」
『珍品ですので』
「あ、そう……」
『何かお困りのことがございますか?』
「いや。さすがに人には見せれないなってだけ。人形にしては生々しいんだよ。気味が悪い」
『珍品ですので。それで、どうです? 天狗は周防さまのお役に立っておりますでしょうか?』
「相棒が出来たみたいで楽しいよ。少し口が悪いけどな」
『それはよかった。人生がつまらないと仰っていましたね。その後、いかがですか?』
「そうだね、天狗と喋っていると少しは退屈も紛れるかな」
『そうでしたか。そのお言葉を聞くことが出来て、安心しました。何か不都合が置きましたらご連絡ください。我々は、珍品をお売りした後のサポートも徹底しておりますので』
「わかった。何かあったら連絡する」
『それではこれで』
「わざわざ電話くれてどうも」
『はい。失礼いたします』
電話を切り、依斗はカバンの中を見る。天狗はその中で胡坐をかいて座っている。
「で、天狗。話の続きをしよう。世の中には二種類の人間がいるんだろ?」
天狗はくっくと笑う。
「そうさ。世の人間ははっきりと二種類に分かれている」
「勝ち組と負け組?」
「違う。覚えている人間と忘れた人間だ」
依斗は「なるほど!」と目を見開く。
「確かに! それは良い分け方だな」
「おまえの周りは忘れた人間が多いだろう? 前田やあの上司、周りの同僚たちも。嫌なことがあってもすぐに忘れ、翌日になると元気に出勤してくる」
「そうだね。逆に、こないだ面接した二十歳の男の子なんかは覚えている人間なんだろうな。怒られたことや嫌な目に遭ったことをずっと覚えているから、もうあんな思いをしたくないと願う」
「忘れた人間はそんなこと思わない。忘れて全て、リセットされるからだ」
「俺もそっちだ。あったことなんてすぐに忘れる。昔のことなんて何も覚えていない」
「ほう?」天狗は目を細める。「忘れたのか?」
依斗は瞬く。
「どういう意味だ?」
「……ほう?」
「なんだよ天狗。はっきり言えって」
「忘れたんだな?」
「だから何の話?」
「……もうすぐ、仕事開始時間だ」
天狗はそれきり、ぱったりと口を閉ざす。
依斗はスッキリしない気分のまま、天狗をカバンの奥底へと押し込んだ。
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