第18話
縁側の障子は閉め切っている。おかげで、昼だというのにその和室は薄暗い。
床の間には茶色い壺が置いてある。この家――大門家の、先代頭首は焼き物を嗜んでいた。趣味はもっぱら陶磁器だった。主に、花や動物が描かれた華やかなもの。物語の描かれたもの。表面が滑らかで、光沢のあるもの。そういうものを、好んでいた。
だからざらざらとした手触りの、この茶色い壺を持って帰って来た時は驚いた。
――まるで縄文土器のようだったもんだから……。こんなものにいくら出したのかと……。
心の中で想い、彼は苦笑する。
それくらいなのだ。先代頭首のことで、あの時は笑ったなと思い出せるのは。
『美とは学術的価値とは関係ない、いくら考古学的に価値があろうが、私が美しくないと思うのだから、美しくないのだ。研究機関が興味を示すものなんか反吐が出る』
先代頭首の口癖だった。だから一体、どんな心変わりだろうかと、不思議に思っていた。
後日、発覚した。
茶色い壺の中には、人間の足の指が入っていた。
気に入らない商売敵を殺し、記念に足の指を切り、趣味ではない壺に入れて床の間に置いたのだった。
先代頭首の罪が発覚してから、家業は全てが終焉へと向かった。
人殺しの美術商から品を買う顧客などいようはずがなかった。一緒に仕事をしていた画家たちもみな、離れていった。美術品への愛はあったから、誰か必要とする人間のもとへ渡ればよいと、在庫の品は全て同業者に売るなり譲るなりした。それにしたって、取引をしてくれる同業者はごくわずかだった。
――終わったのだ。
何千回、いや何万回も思ったことを、彼は反芻する。
――終わったのだ。
自分が人を殺したわけではなかった。だから、償いようがなかった。
会ってくれた人はみな、一様に言った。
『あなたが悪いわけじゃない。けれどもう、関りたくない』
先代頭首は三日前に、牢屋の中で死んだ。死に様を詳しく聞くことは出来なかった。
けれどきっと、周りに迷惑をかけた死であっただろう。想像に難くはない。
まるで疫病神のような人間であった。そして自分はただの被害者であった。呪いを払拭する力なんて持っていなかった。しぶとく生き抜く生命力すら与えられなかった。
――もう辛い。ただ苦しんでいるだけの、恥の塊のような人間になってしまったのだ。こんな私に、もう未来なんてものはない。
彼は畳の上に置いてある小刀を手に取り、鞘から抜いた。
最低限の善を行いたいと思うのなら、せめて蓮華境寺院の人間を呼んでおくべきだ。そうすれば、死んでも他人に迷惑をかけずに済むだろう。
父と全くの同じにはならずに済む。
けれど。
――不思議だな。
彼は喉の奥で笑った。
せめて、他人に迷惑をかけずに。
そんな気持ちが、これっぽっちも湧いてこない。
――すべてが、終わったのだ。
首にあてた小刀の柄に力を込め、そのままゆっくり、刃を肌の下へと沈みこませた。
端から端まで歩くうちに説法の一つは終わるのではないかと思えるほどの長い木造廊下を、一人の男が駆けてゆく。装いは鶯色の着物で、髪の毛が肩まである。僧侶ではないのだろう。
彼の名を、正憲(まさのり)という。
正憲は廊下の端まで行くと、そこにある襖をがばっと開けた。
「小梅一丁目の元美術商の屋敷で餓鬼が発生! 出動できるやつ、いるか?」
叫ぶように言うと、部屋にいた数人が正憲を振り返る。
「えー、今ちょうど、涼んでたところなのになぁ」
扇風機のすぐ前にどんと座り、風の恩恵を一人占めしている少年が気だるげに言った。齢は十五か六あたりだろうか。黒の着物を、胸元を広げ帯はゆるゆる。だらしくなく気崩している。
「緊急出動に駆り出されるのはいつもあたしらなんですね。知ってます? さっきまであたしたち、閻魔堂で夜勤をやっていたのです。へろへろなのに駆り出そうなんて、鬼畜ですか夜叉ですかそれとも馬鹿ですか?」
少女が言った。白衣に緋袴を着ていて、装いだけ見ればどこぞの神社の巫女さんだ。けれど畳の上に寝そべり、綿菓子を手づかみで食しながらもう片方の手で漫画を項をめくるその姿は、とてもじゃないが神に仕える巫女には見えない。
「そんなん言ったって、しゃあないだろ。行くしかない」
言ったのは、壁際で胡坐をしている短髪の少年だ。齢は十八、九あたりだろうか。黒い袴にもんぺを履いていて、下っ端僧侶のようにも見えるが、首には明るい緑色の襟巻をしている。おしゃれのつもりだろうか。
「早くしてくれ」
正憲が苛立って言うと、三人は各々の様相で立ち上がる。扇風機少年は片膝をついてからよっこらしょと立ち上がり、巫女はひょこっと飛び上がるように立ち上がり、襟巻少年はすっと立ち上がる。
「ああ、ちょっと!」
正憲は声を荒げた。
「幹太(かんた)! 扇風機はコンセントを抜いてから畳の上に置きっぱなしはみっともないから押入れの中にしまって! 椋香(りょうか)はお菓子をせめて箪笥の上に置いときな、畳の上だと汚れるだろうが。漫画は箪笥の中だ! この部屋で誰かが娯楽に耽っていたのがばれるとしつけ係が怒られるからな」
幹太は渋々といった様子で、電源からコンセントを抜き線を巻く。椋香も面倒臭いと書いてある表情で、綿菓子のを袋の封をし箪笥の上に置く。畳の上に散らばった漫画をかき集め、箪笥の中の奥の方に押し込むようにして入れた。
「李翔(りしょう)殿、こいつらの教育が思うように進んでいないようで? どうしたもんかな?」
正憲が言うと、襟巻少年――李翔は頭を掻く。
「いや、規則だの礼儀だのなんだのって、締め付けすぎるのも良くないかなって。息抜きは必要だろう?」
「娯楽に耽っていたことはまあ見逃すとしても、扇風機や食べかけのお菓子の一つや二つも片付けられないようじゃ、先が思いやられるな」
「しゃあない。夜勤の後で疲れているんだ」
「疲れていたとしても、このように緊急出動があるのがこの仕事。常に気張っている必要があるんだ」
「許してくれ。僕らはまだ若い」
「しつけ係殿、そのような甘いことばっかり言っていると、私は上にちくりたくなる。嘆願書と言ってな、いくら前途のある若者とはいえ生活態度の悪いクソガキどもを雇い対価を支払う余裕など我が寺院にはないのだと」
「おっとそれは止めてくれ。あとで袖の下を渡すから」
片付けを終えた幹太と椋香が、李翔の横に並び立つ。
ほんのわずかだが、先ほどまでとは違い表情が締まっている。
正憲は彼らを見つめ、それからため息混じりに言った。
「頼んだぞ、おまえら……」
小梅一丁目。
和菓子や漬物の老舗店が並ぶ、古風な町だ。民宿も何軒かあり、その中には最近、建てられたばかりのものもあるのだが、町の雰囲気を壊さぬように大正時代に存在していた民宿の外観を復元したそうだ。
「やけに静かだな」
幹太がぼそりと呟いた。
「まだみんな、起きていないのかもね」
椋香が言うと、李翔は首を横に振る。
「なわけあるか。餓鬼が出たってのに……。もう少し、発生源の屋敷の方に行ってみよう」
道路ぎりぎりまで露店を出している饅頭屋と、看板建築のお茶屋さんの間に、屋敷の門がある。表札には『大門』とある。
李翔は門の前で立ち止まり、左右をきょろきょろと見遣る。
「この屋敷が発生源のはずだ。で、通行人が道路で暴れている餓鬼を目撃し通報をした……餓鬼はどこに行ったんだ?」
「もうここいらにはいないんじゃね?」
「何それ。あたしら無駄足だったってこと?」
その時だった。
道路の向こう、数軒先の方から、人の叫び声がした。
餓鬼だ! 塀を越えられた! こっち来るぞ!
三人は駆け出した。
餓鬼はまさに骨と皮の風貌をしている。腹だけはぽっこりと膨らんでおり、中で人の子でも育っているのかと思うほどで、細い手足との差が異様さを際立たせている。肌は、干からびて死んだ魚のようにくすんでいて薄黒い。窪んだ眼の奥にある瞳は虚ろで、何を見ているのかわからない。
餓鬼が歩いた足跡は黒く焦げて、そこから小さな赤鬼が産まれる。ひょっこりと出現する、と言ったほうが正しいだろうか。犬が立ち上がったのと同じくらいの背丈をした赤鬼が這い出てくるのだ。
――ほう。
その餓鬼は、ただでさえ細い目をさらに細めた。
彼は餓鬼になって間もなかった。死んでから間もない、という意味だ。自分が歩いた跡から、小さな赤鬼が産まれたのを見て驚いたのだった。
「なんだ? おまえは?」
赤鬼に向かって、彼はそう尋ねたつもりだった。けれど餓鬼である自身の口から発せられるのは、しゅうしゅうといった空気の音だけ。
それでも、赤鬼には通じたらしい。
「冥の道より馳せ参じた次第」
赤鬼は高い声で言った。
餓鬼は笑う。
「ようわからんが、まあいい。それより腹が減った」
腹がぐうぐうと音を立てている。それに加え、この辺りにはうまそうな匂いがたくさん漂っている。
餓鬼は匂いへ向かって突進した。足跡をつくるたびに生まれ出てくる赤鬼たちが自分の後をついて来る。それを煩わしく思った。赤鬼どもに食わせるくらいなら、自分が全てを喰らい尽くしたい。
己の歯に欲望の全てをゆだね、獲物に食らいついた。
獲物は苦渋の表情を浮かべる。
餓鬼は獲物の血を吸った。濃厚で芳醇な味がして、人間だった時の記憶が蘇った。幼いころ、父に連れられてとある高名な画家の屋敷へと行った。暖炉のあるリビングで、食卓の上にはチキンドッグとキャビアのスープ。ワインをごちそうされたのだ。あれは、人生で初めてのワインだった。
果汁の甘い香りに鼻をつくアルコール。
――もっとだ、もっと。
餓鬼は歯を獲物に食い込ませ、さらに強く吸った。
さらにもう一口吸った時だった。
「南無阿弥陀仏」
ひどく静かな声がした。
餓鬼は声の主を見た。少年だ。寺の下っぱ坊主のような恰好をして、首には緑色の布を巻いている。
餓鬼は痛みを感じて呻いた。まるで腹の奥に何かの塊を突っ込まれたような痛みだ。
――許さない。
一体、誰だろうか。空腹を満たすのを邪魔する者は。怒りが湧いてくる。
喉で叫ぶと、体の全体が熱くなったのを感じた。視界が赤くなる。
「餓鬼、おまえは醜い」
少年が言う。
「これほどまでに醜い存在になってしまうなんて」
――食事の邪魔をするな!
餓鬼は吠えた。
――腹が減ったのだ。
「罪を背負っているみたいだ」
餓鬼は目を見開いた。
――わたしに、一体なんの罪があると言うのだ!
餓鬼は発火し、炎に包まれた状態で少年に向かって突進した。炎が駆け抜ける。熱で道端の雑草が燃え上がる。
「椋香! そっちに行くぞ!」
「こっちは用意完璧です!」
「幹太は?」
「いつでも」
「よし、誘い込むぞ」
無我夢中で走っていた餓鬼はある地点で突然、動きを止めた。
――なんだ?
体が動かないのである。見れば、地面に円陣のようなものが描かれている。要所要所に翡翠の石が置かれていて、そこから反吐の出るくらい清涼が気が立ち込めている。
何かの術に絡み取られてしまったのだということだけは、わかった。
なんとかして逃れようともがいていると、胸に激烈な痛みが走った。目線を下げると、左胸に矢が刺さっている。
――おのれ……!
もっともっと喰いたいのに、ただそれだけなのに。
痛みは全身に広がって、餓鬼は自身が溶けだしているのを感じた。視界も、輪郭がぼやけだす。
遠くで音が聞こえた。
低い笛の音か、それとも洞窟を吹き抜ける風の音か。
餓鬼の脳裏に風景が浮かぶ。父親が壺を眺めている。西洋の壺は空間の中心になろうとするが日本の壺は場に何かを添えようとする、そこが良いのだと、そのようなことを喋っている。
頭の中が真っ白になり、父の横顔が消えた。腹に溜まっていた感情が、口から抜けてゆく。足の指から膝、太ももから腰、腹と、下から上へ向かって灰になってゆく。
餓鬼は自身が消えゆくのを感じていた。
そして全てが灰になり炎が完全に消滅したころ、餓鬼はもう、無欲となり魂だけを宙に漂わせていた。
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