第17話







楽(らく)朴堂(ぼくどう)は目覚めの季節



「何が言いたいかというと、問題は私の心なわけですよ」

 白いシャツにズボンという恰好をしたすらっとした女性だ。清潔な身なりで、椅子の横に立てかけてある黒くて平べったいシンプルなビジネスバッグが人となりをよく表している。

「養育費は払ってもらっているし、彼との思い出にはさよならを言えたんです。子どもは少し可哀そうだったけど、月に一度、彼のところにも連れて行ってやってるし、義父母との関係も絶ったわけじゃないし、学校も楽しそうに行ってるし。原因は彼の不倫だけど、納得をしたうえでの離婚でした。何も、問題はないんです。――私の心を除いては」

 うんうんと相槌を打っているのは、羽織を着た男と黒いパーカーを着た青年。

「ふとした瞬間に思うんです。なんで私だったんだろう。なんで私が不倫されたんだろうって。胸が苦しくなって、体が言うことを聞かなくなるんです。……友達に相談したら、紙に書き出すといいよって、言われて……苦しい気持ちを書き綴るようになりました」

「それはよい方法ですよ」男はほがらかに言う。「頭の中に溜まっているものを出すと、とてもすっきりしますからね」

 女性は深く頷く。

「そうなんです。すっきりするんです。それで、苦しくなるたびに、紙に吐き出して……ノートはもう十冊になります」

 男は驚いたようにわずか目を見開く。

「そんなにも苦しさをお持ちで……」

「いえ、いいんです。出せばすっきりするんで。けど、最近なんだか不安なんです。ノートが増えていくたびに、自分が情けない人間になった気がして……。それで、書き出すのはやめました」

「やめてしまったのですか」

「ええ。でもそうするとやっぱり、苦しさで頭がいっぱいになっちゃって……その時に偶然、ここのホームページを見つけたんです」

 楽朴堂――神さま、売ってます。

「私、神さま、欲しいなって。きっと神さまがいたら大丈夫なんだろうなって。思ったんです」

「なるほど。事情はよくわかりました」

「神さまください」

「ええ、そのご要望にお応えできますよ。なんといっても、うちはたくさんの神さまを取り揃えておりますから……」男はリストのようなものをペラペラとめくる。「どのような神さまがいいですか? 古事記に出てくる神さま? それともインド由来の神さま? ヨーロッパ由来も……数は少ないのですが何人か……」

 女性は首を横に振る。

「いいえ、そういうのは気にしません。私のそばにいて、私のためになってくれる神さまがいいです。そうですね……あんまりにこにこしてるのも癪に障るし、ずっと怒り顔なのもムカつくし、世界を壊されても困るしお説法されてもうるさいだけだし……そこらへん、気のきく神さまがいいです」

「承知いたしました。しばしお時間を頂戴いたしますね……。ほら、周防(すおう)くん」

 男は隣の青年をつつく。

「今回は君が選定して差し上げなさい。得意分野だろう?」

 周防、と呼ばれた彼――黒パーカーの青年はしぶしぶ、といった様子で、男の手からリストを受け取ると真剣な眼差しで、ページめくったり戻したりし始めた。

 待つこと、五分ほど。

 青年はあるページを指さし、女性に見せる。

「……この神さまはいかがでしょう? ――鬼子母神(きしぼじん)です」

 女性はリストに載っている写真をのぞき込む。

 女の仏像が、そこには写っている。

「鬼子母神……これが、神さま……?」

「人間を食べては恐れられていましたが、釈迦に我が子を隠されて半狂乱になるという経験を経て、三宝に帰依しこのような立派な守護神となられた女神さまです」青年は淀みない口調で説明をする。「忿怒相(ふんぬそう)の鬼子母神もいますが、うちが用意しているのはこの、無表情と微笑(ほほえ)みの間をとったような微妙な表情をしている鬼子母神です。時々、口を大きく開けて笑うこともあるそうですが、基本的にはこの微妙な表情をしています。わたくしの経験上ですね、この表情をする奴はたいてい、気をつかって緊張しているんです。断言します。この鬼子母神、なかなか気がききます」

 女性はパッと顔を輝かせる。

「なんて素敵な神さま」

「いかがですか?」

「気に入りました。この鬼子母神、買います」

 青年はしっかりと頷き、頭を下げる。

「ありがとうございます。では、わたくしは準備に行ってきますので……あとはお願いします」

男は「あいよ」と返事をし、テーブルの下から紙のようなものを取り出した。

「では、こちらが契約書になります」


 お客様氏名――小野崎優菜(おのさきゆうな)。

 神さまを購入するにあたり、次の事項に同意する。

一、 神さまと共生するあたり、楽朴堂の半永久的なサポートを受け入れる。

それにあたり、次のことを厳守する。

二、 楽朴堂からの連絡を無視しない。

三、 楽朴堂からの質問に対し嘘をつかない。

四、 神さまに関して不具合があった場合、ただちに楽朴堂に連絡をする。

五、 勝手に神さまを第三者に贈与しない。

六、 勝手に神さまを放棄しない。

七、 神さまの存在を関係のない第三者に広めない。

八、 神さまを関係のない第三者に見せない。


「ご了承いただけましたら、こちらに親指で指紋を」

 女性――小野崎優菜は迷う様子もなく親指を朱肉につけると、紙に押し付けた。

「まいど」

 契約成立。

 鬼子母神、お買い上げ。

 販売価格、百万円。



弌 七十七人目のお客様


 


 楽朴堂のメンバーは四人だ。

 年がら年中、唐草模様の羽織を着ているのはボスの久我亨哉(くがきょうや)。羽織の下にはTシャツにズボンというふつーの服を着ている。年齢を尋ねると二十八と答えるが、実際は三十半ばくらいだろうと考えられる。

 従業員その一である周防依斗(すおうよりと)は来月、つまり九月の十日に二十四歳を迎える侘(わび)しい男だ。なぜ侘しいのかというと、これは「休みの日になにしてんの?」という亨哉の質問に「とりあえず抹茶溶(と)いてますね」と答えたのが由来だ。

 従業員その二、宮之照葉(みやのてるは)は二十一歳の紅一点。スカートを履く日もあればズボンの日もあるし、ショートカットの時期もあればロングヘアの時期もある。つまりかなりの気まぐれ屋。

 従業員その三、最年少の十六歳、麻根麟太郎(あさねりんたろう)。彼は常に制服を着ている。一時期、引きこもりを疑われていたが、依斗と照葉が尾行をした際にきちんと校舎へと入って行く姿が目撃されている。

 四人は今夜、令成二十一年八月十日午後十九時、楽朴堂の本店であるこの古民家に集っている。裏高尾にあるこの店は、ホームページから問い合わせがあった人間にしか場所を公開していない。

 四人がここで一堂に会するのは珍しい。神さまのお買い上げがあった時くらいだ。

 神さまの封印解除と依頼場所への設置は全員で協力して行う仕事で、そのほかは個別での業務が大半だからだ。

「鬼子母神が封印されてるのって、まじめにこれで合ってる?」

照葉は不安そうに、その手の平にのせた小箱を見つめた。

小箱は塗装が剥げて表面はぼさぼさ。金具はゆるゆるで蓋がぱかんぱかんしている。

神さまを封印する場所としては雑さがあるが、張り付けられたラベルにはきちんと鬼子母神と書いてある。

「鬼子母神、よかったね買ってもらえて。こんなぼろい箱から出られるよ」

 照葉はよしよしと、小箱を撫でた。

今夜の照葉は上下緑のスウェット姿だ。いつでもベッドにもぐりますスタイル。お客様に無礼な印象を与えるので、亨哉が頭を抱えるやつである。

「おい照葉!」

 ちょうど二階から降りてきた亨哉は案の定、照葉を見るなりアッと口を開いた。

「そんな深夜にコンビニ行くニートみたいな恰好して! これから行くのは客んちなんだぞ!」額を手でおさえ、ため息をつく。「これだからうちの従業員は……」

「これはセットアップっていうの」

 照葉は開き直ったように言う。

「上下を同じ色で揃えるんだよね。ほら、見てよ。胸元のアクセサリーがいい感じのアクセントになってるでしょ? 今時のイケてるスタイルなんだよ」

 確かに、金色の鎖みたいなアクセサリーはアクセントにはなっているが。

「どっからどう見たって田舎にいるださい姉ちゃんのコンビニに行くスタイルだぞ。やめてくれ」

 照葉はむっとした表情で、亨哉の頭からつま先までを眺め見た。

「久我さんこそさ、そのださい羽織やめたら?」

 亨哉は表情を凍りつかせる。

「……は?」

「なにその模様? くせっ毛をばらして散りばめました、みたいなさ。ださい選手権出場でも狙ってるわけ?」

 楽朴堂のボスは唐草模様の羽織を着るという伝統なのだ。歴史ある唐草模様をけなされ、亨哉はぽかんと顎を落とす。

「……言ってくれたな……! この小娘……!」

「事実だから」

「なにがどう事実なのか、僕が納得できるように説明してもらおうか?」

「ださいものに理由なんかないの。ださいからださい。ただそれだけ」

「言ってくれるじゃないか。この文様は江戸時代に大人気だったんだぞ」

「だからなにってかんじ」

「江戸の風流が詰め込まれているのだよ!」

「あっそ」

「あっそって……」

「あっそはあっそ」

「うるさいな」その一言はひどく冷たい声で、誰かと振り返ってみればトイレから戻って来た麟太郎だ。

「服装なんてどうだっていいだろ」麟太郎は詰襟制服の第一ボタンを開けながら、「神さまが欲しいなんて、うちに来る客はいかれてる。いかれた人間のところに行くんだから、いかれた格好して行けばいい」。

 照葉は目をぱちくりさせる。第一ボタンを外す仕草が妙に面白かったのである。こみ上げる笑いをごまかすために、咳ばらいを二回した。

「そんな言い方はよくないなあ」

亨哉は困ったような表情を浮かべ、「うちに来るお客様はみな、切実だ。まさに、神を得るにふさわしいといえる。そうは思わないか?」。

「それは」

 麟太郎が言いかけたと同時に、ガラガラと縁側の襖が開き、庭から依斗があがって来た。手には白縄の束を持っている。それを、亨哉に見せる。

「縄の清めは終わりました。杖も祓いました」

「札は?」

 依斗はハッとなる。

「まだです。今、書いて来ます」

「水晶も準備しといてよ。念のためな」

「はい」

 慌てたように身をひるがえす依斗の背中に、亨哉は息を吐く。

「……こういうの、慶太はパパっと用意したんだけどなあ。ま、いいけど」

 背中は一瞬だけ固まって、そのあと、何もなかったように襖の奥へと消えて行った。

「……使えねえ……」

 ぼそっと呟いたのは、亨哉ではなく麟太郎だ。照葉は麟太郎を横目で見る。

「あいかわらず感じ悪いねえ。友だちまだ出来てないでしょ?」

「もっちゃん」

「……いるんだ」

「保健室に行ったら会える」

 照葉は一瞬、固まった。

「……やめない? 保健室の先生を友達って勘違いするの」

「教室にいるやつらとは話が合わない」

 返す言葉が見つからず、照葉は無言で天井を仰いだ。

 数分して縁側の襖が開き、依斗が戻って来る。

「終わりました」

 依斗が持ってきたのは、鳥、花、人をそれぞれ象った文字が書かれた札を数枚と、庭の池で清めた野球ボールほどの水晶玉。

 亨哉は頷く。

「さて。出発しようか」


 古民家のある裏高尾の集落から、最寄りの高尾駅までは亨哉の運転する車で向かった。ボロボロのミニワゴン車は山道をたどたどしく走った。亨哉は運転が下手なのだ。

 駅から、四人は電車に乗った。向かうは小野崎優菜の自宅だ。最寄りは立川駅。

「僕ってたぶん、コルチゾール値が高めだと思うんだよね」

 車両に入り込むなり、亨哉はおもむろに言った。「コルチゾールってわかる? ストレスを感じると分泌されるらしい」

「それで?」

 照葉が尋ねると、苦笑する。

「僕はコルチゾールが高くて、ストレスで死ぬかもしれないだろう? どうしようかなって、ふと思っただけさ」

「……へえ」

 麟太郎は何も聞こえなかったような顔であくびをし、依斗は何も言わずに下を向いた。

 電車は郊外から街中へと進んでゆく。地平線に横たわる山脈と大きな空の下に広がる平らな街並みは、川を越えるにつれて密度の高いものへと変化してゆく。

 風景は建物で混み入ってきて、立川駅に着いたころには、周りはビルと商業施設がわんさかしている。

「えっとね……。こっちだ」

 亨哉はスマートフォンでマップを見ながら歩き出した。三人は後を続く。

 新築の戸建てに挟まれて、そこそこ高そうなマンションがある。エントランスに入り、オートロック式の扉の前で602を押すと、「どちらさまでしょう?」。優菜が出た。

「楽朴堂です」

 扉の鍵が瞬時に開かれる。

 エレベーターで、六階にあがった。

「神さまいらっしゃい!」

 優菜はすでに玄関の戸を開けて待ち構えていて、四人を見るなり満面の笑顔で言った。

 亨哉は反射神経的に頭を下げる。

「本日、神さまの設置をさせていただきに参りました! よろしくお願いします!」

「心待ちにしていました!」

「無作法者も混じっておりますがこの四人で作業させていただきます」

「無礼講にしますからどうぞお気にせず。さ、お入りになって」

 四人は、優菜の家の中へと足を踏み入れた。

 玄関に入ると、まず目につくのは棚の上に飾ってあるバラの花束だ。

「わあ! 私、お花が飾ってある家って憧れるんだよね」

 照葉がはしゃいだように言う。依斗も感服した表情で、

「こんな花束、わたくしも一度はもらってみたいものです」。

 優菜は気まずい顔で首を横に振る。

「自分で買ったんですよ」

「え?」依斗が声に出して言うと優菜は顔を顰め、

「だから、自分で買ったんです。もういいでしょう。さ、奥がリビングです。早く進んでください」。

 亨哉は苦笑いをする。

「なんだかすいませんね、うちの無作法者たちが」

 すると優菜は呆れた表情で、

「とりあえず、早く神さまをください」。

 リビングルームは一般的な広さで、テレビ、テーブルとソファがある。キッチンがありその傍に食卓があり、壁棚にはドライフラワーが飾ってある。木目調の家具とシンプルな北欧風の調度品で統一されていて、心が落ち着く空間に仕上がっている。

「どこに神さまを設置するのが最適か、しっかりと吟味したいので、全てのお部屋を見せていただいてもよろしいですか?」

 優菜は一瞬、怪訝そうにする。

「全部?」

「はい。なるべく、条件の良いところに宿らせたいのです」

「……わかりました」

 寝室に行くと、大きなシングルベッドが二つ、並んで置いてある。一つはパジャマとバスタオルが乱雑に放られていて、もう一つは家具屋のモデルベッドみたいにおそろしく綺麗に整えられている。

 白いクローゼットが二つ。壁には額縁がある。写真や絵画が何も入っていない、ただの額縁だ。

 和室には、学習机とおもちゃのはみ出した箪笥、それから子ども用の小さなベッドがある。赤いランドセルが、空いた状態で畳の上に横たわっている。

「お子さんはどこか遊びに行ってるんですか?」

 亨哉の問いに、優菜は頷く。

「クラブ活動です。バスケ同好会なんですよね。運動が好きみたいで……。やっぱりそういうのがあると助かりますよ。子どもは家にいない方がいいです」

 トイレは丁寧に掃除されていて、浴槽もピカピカだ。英語が羅列してあるだけのシンプルなパッケージのボディソープが置いてあり、どこかの自然派高級ホテルみたいだ。優菜の好みがうかがい知れる。唯一、洗濯機の上にぐちゃぐちゃの衣服が積み重なっていて、そこだけ生活感が出ている。

「さて、どこの何に鬼子母神を宿らせようか?」

 亨哉は楽朴堂の従業員たちをぐるりと見渡す。

「意見をどうぞ」

「あたしはそこの扉の上の方がいいと思う」

照葉は、玄関通路とリビングルームを繋ぐ扉の上の方を指さす。

「その扉の玄関側の上の方。小さな飾り物かなんかを吊るしてさ。高いところにした方が周りの物の影響を受けないし、玄関通路は外の世界と中の世界を繋ぐ中間地点みたいなものだから、そこに宿らせることで家の外でも中でも鬼子母神の守護を得られると思う」

「なるほどね」

「……テレビの上とかは……?」依斗はやや自信なさげに言った。「鬼子母神は存在感のある神さまだと思う。家のど真ん中に置くことで、その影響力を抑圧せずにすむ。テレビの上が、この家の中で一番、スペースがあるからそこがいいと思う。ちょうど額縁を吊るす用のレールがあるし、それを利用したらいいんじゃないかな」

「エアコンがあるだろ」

 麟太郎が批難げに言う。確かに、テレビの上には大きなエアコンがついている。

「鬼子母神に空気があたるうえ、せっかくの空気の流れを阻害させることになる。周防さんってほんとセンスない」

亨哉は咎めるように「麟太郎」と呼ぶ。「おまえの意見を聞いてみようか?」

「寝室」

「え? 寝室に神さまを呼ぶの?」

 戸惑うように言ったのは、優菜だ。

「それはちょっと……。他のところにしてもらえません?」

「いや、寝室がいい」麟太郎は断固とした口調で言う。

「でも寝室は……」

「嫌な気分になる場所だから? だからこそ、寝室がいい。俺はそう思う」

 優菜は半笑いを浮かべる。

「確かにそうですけど、なんというか……寝室はあのままでいいんです。あれはあれで……。そうだ。ほらあそこ、花瓶があるでしょう?」

食卓の背後の壁、おそらく二メートルほどの高さのところに壁棚がある。花瓶が三つで、それぞれに違うドライフラワーが挿してある。

「あそこに石を置きますよ。神さまって石に宿ったりするんでしょう? ご飯を食べながら神さまを拝むんです。きっとご利益がありますよね」

 麟太郎は首を横に振る。

「寝室が一番、淀んでいた。鬼子母神にあの溜まったものたちから守ってもらえばいい。だから寝室がいい」

「淀んでいる? スピリチュアル詐欺師みたいな胡散臭いこと言いますね。もっと現実的な店かと思ったのに」

「すみませんね」

 亨哉が口を挟む。

「うちの無作法者は言葉が下手なんです。……僕は思ったのですが、寝室だけ少し空気が淀んでいました。あまり換気をしていませんね? よく、精神的にダメージを受けた人が住む部屋は空気が淀むといいます。精神的ダメージは、部屋の窓を開けたり換気扇をつけたり、埃を払ったりそういうことを出来なくさせる」

「あたしは精神的ダメージなんてないけど部屋の換気なんかしないよ?」

 言った照葉を、亨哉は睨みつける。

「僕が喋ってるでしょうが僕が! ……すみませんね小野崎さん、うちの無作法者が」

「いいえ気にしません。それより、寝室で気分が悪くなることが多いのは事実です。なんだろう……今、すごく核心をつかれた気分……」

「どうしても寝室はお嫌ですか?」

「うーん……。そうですね。神さまを置くのに一番の場所だとは思いません」

「わかりました。では、そのマグカップにします。あれに神を降ろします」

 亨哉は唐突に決定し、キッチンの、まな板を置いて野菜を切ったりするのであろうスペースにちょこんと置いてある茶色いマグカップを指さした。

 優菜はぽかんとする。

「あれ? あれに? 薄汚いただのカップですけど」

 亨哉は頷く。

「ええ、汚いです。よく使ってらっしゃるのでしょう?」

「私、結構コーヒー飲むんですよ」

「お好きなんですね? 飲んでる瞬間はホッとするでしょう?」

「それはそうですけど」

「いいじゃないですか。あのマグカップに、鬼子母神を降ろします」

「……それは……」

「信じてください」

「随分と強引なんですね」

「ただの自信です」

「言葉の綾(あや)ですね。おいくつですか?」

「二十八です」

「二十八? 本当に? 老けて見えますよ」

「僕は昔から貫禄あるんです。……マグカップに降ろせば、他の場所よりも効果が期待できます。僕の目が言うのですから間違いありません」

 ややあって、優菜は納得したように頷く。

「……わかりました。マグカップにどうぞ」

 こうして、鬼子母神は優菜の愛用マグカップに宿らせることとなった。

 照葉は食卓の上に白い半紙を広げ、依斗が本店の庭で清めた杖――ただの細い木の棒だが――の先に墨をつけて陣を書く。糸と指を使いコンパスみたいにして円を書き、定規を使ってその内側に正方形を書く。

 四隅にそれぞれ、丸、なだらかな山形、Sを逆にしたような形、ひし形、の記号を書き入れる。

 照葉がその作業をしている間、麟太郎は札を貼ってゆく。椅子の上にのぼって、食卓の真上の天井に一枚をぺたり。食卓周りの床に四枚をぺたぺたぺたぺた。五枚を繋ぐと、食卓を囲んだ四角錘になる。

 依斗はマグカップに縄を括り付けてゆく。三つ編みをしたり巻いたりひねったりして、マグカップをぐるりと囲うように縄を張り巡らせる。

 分担作業のおかげで、五分で準備が整った。

 亨哉は鬼子母神が封印されている小箱を、陣の上に置いた。そして、パン、と両手を合わせる。

「あかはまな いきひにみうく ふむぬえけ へねめおこほの もとろそよ をてれせゑつる すゆんちり しゐたらさやわ」

 小さな声で唱えた。

 縄文の時代。四匹の蛇神があらわれて、人々にこの唄を授けたのだという。

 次の瞬間、小箱がポンっと開いた。

 のぼりたつ煙の中から、その神が姿をあらわにした。

 長い髪を結い金の冠で飾り、長い袈裟をまとい両手を合わせ、無表情と微笑みの間をとったような微妙な顔をして佇んでいる。

 亨哉は鬼子母神をまっすぐに見つめる。

「長い封印から解き放たれし鬼子母神。あなたは小野崎優菜さんの神としてこのマグカップに宿ることになります。蛇神の力を以ってしてあなたを一つの場所に繋ぎ置くこと、お許しいただけますか?」

 鬼子母神は、その口もとをゆっくりと動かした。

「許すも……何も……我が身は……そちらの……もの。好きに……なさい」

「ありがとうございます。……どうです? 久しぶりに、シャバの空気は?」

「まずい」

 亨哉は苦笑いをし、それからメンバーに目配せをする。

 麟太郎が、陣の上から小箱を除いてマグカップを置き、照葉がマグカップのふちを指で弾いた。その瞬間、鬼子母神はマグカップの中に吸い込まれてゆく。

 青い炎が立った。

 その時だった。

「あ!」

 麟太郎は声をあげてしゃがみこみ、床の札を手で押さえた。今にもめくれそうになっている札だ。「依斗さんが適当に書くから……」。まるで風にあおられているみたいに、麟太郎の髪の毛が跳ね上がる。

 数秒して、炎が消えた。

 その場はしんと静かになり、陣の上には縄が編まれたマグカップだけが置いてある。

 亨哉は優菜に向かって頷いた。

「今、宿りました」

 優菜はわずか、目元を緩めた。

「私、神さまが手に入ったんですね」

 満足そうに、言った。


 優菜のマンションを出て立川駅。そこから電車に乗り、高尾駅に到着、出てすぐのところに停めておいたミニワゴン車に四人は乗り込んだ。

「あーあ、立川でお買い物したかったなあ」照葉はぼやく。「まだ仕事中だからダメってなに? 家に帰るまでが遠足です的な? うちら小学生かよ。てかさ、今ちょうどサマーセールが」

「依斗さん」

 麟太郎が照葉を遮って言った。

「依斗さん、札がヘタクソ。花文字の線が切れてた。もし飛んでたら大変なことになってた」

 結界の起点である札は、めくれて飛んでしまったら結界が破れてしまう。封印されている神々は、実際に解き放ってみるまで状態がわからない。悪影響を及ぼす状態になっていることもあるかもしれない。その時のために、封印解除は結界の中で行うのだ。

 依斗は俯く。札を書く時、手を抜いたつもりはなかった。ただ少し。

「……疲れてはいたよ。申し訳ない」

 札は、繋げないといけない文字の線が切れていたりすると威力が下がってしまう。

「いつも申し訳ないって言うけど……ほんとに思ってんのか?」

 依斗は苦笑する。

「思ってなかったら言わない。そこまで出来た人間じゃないんだ」

「意味わかんね」

「おまえはまだ高校生だから」

「はあ?」

亨哉はおぼつかない手つきでハンドルを切りながら、「ほれほれ、低級同士で喧嘩するのはそこらへんにしときなさい」。無事に角を曲がり終えるとふう、と盛大に息を吐いた。

「……いまのコーナーいつも事故りそうになるんだよな……。さて、総括しようか。まずは照葉。小野崎さんの購入理由を考えるに、神は部屋の外に置くより中に置く方がいいだろう。神に求めることが家を守って欲しい、などの場合は扉やその上部に宿らせると力強い守護神となるのだろうが、小野崎さんは神に対してもっと内的な救いを求めているようだからね。宿らせる場所を決める時は、お客さまの願い事に沿うように」

「ふぁーい」あくびのような返事だ。

「それから、封印解除の時の基本的な陣は上達してきたから、他にも書けるようになるともっと色んな仕事を任せられる。練習してくれ」

「……気が向いたら」

「いつ気が向くんだ?」

「それは……神のみぞ知るところ」

「うまいこと言ったつもりか? まあいいや。次、麟太郎」

「なに?」

 生意気な返事だ。亨哉は呆れた笑いを浮かべる。

「反抗期はいつ終わるのかねえ?」

「さあね。二十五歳くらいには終わってんじゃね? それより、なに?」

「……まず、お客さまに対しては丁重(ていちょう)に!」

「低調(ていちょう)でいいの? ますます敬語なんて使わないけど。そもそも喋らんくなるけど」

「丁寧にってことだ」

「じゃあ俺も宮之さんと同じく、気が向いたらで」

「気が向かなくてもやってくれ。それと、寝室に宿らせるのは論外だ」

「なんで? 不倫した旦那と一緒に過ごした部屋だろ? きっと色んな感情が溜まってる。悲しみ、怒り、失望、憎しみ、葛藤……」

「そんな場所に神を宿したら、どうなるかわからない。負の感情に神さまが触発されてしまうかもしれない。神を宿す場所はなるべく清潔な場所を選ぶこと! いいか?」

 麟太郎は返事をしない。

「麟太郎? 返事は?」

「マグカップが清潔?」

「好きなコーヒーを飲むときの道具だよ。安穏の全てが詰まっているだろう? とても清潔だ。僕の経験上、そういう物に宿らせると、神のご加護がよく効く」

「唾液まみれだろ」

「清潔、というのは、清浄、ということだよ。人がご神体として崇めやすい、ということ。わかるかな?」

「……うっす」

 亨哉はため息をつく。

「……まあ、いいか。あとは周防くん……君はさあ」

 途端、依斗の表情が曇った。亨哉は慌てたように、「わかったわかった」。

「君は、今日はゆっくり休むんだぞ」

 依斗は俯く。

「……これから数件、訪問案件が……」

「それが終わったらたくさん寝なさい」

「ヘタクソな札を書いてしまって申し訳ないので、文字の練習もしようと思って」

「ならそれが終わったあとに爆睡だな」

「神さまの勉強もしないと」

「ならばそのあとにベッドにダイブするんだ」

「俺は慶太ではないので」

 亨哉は何かを言う代わりに少しずつブレーキを踏む。車は緩やかに減速してゆき、古民家の前で止まった。着いたのだ。

 照葉と麟太郎は我先にと車から降りる。彼らの後姿は、光の速さで遠ざかって行った。

 二人きりになった車内で、亨哉は後ろを振り返る。

「君が慶太じゃないってのは知ってるんだ。穴埋めにすらならない。わかってる」

 依斗は疲労の浮かぶ表情で、亨哉を見つめ返した。

「俺は器用じゃないんですよ」

「だから適当な札を書いても許されると?」

「すみません」

「引き継ぎますって、君が言ったんだよ」

 慶太が楽朴堂を辞めたあと、依斗は彼の抱えていた仕事の大半を引き継いだ。

「自分で言ったことだろう? 大変なのはわかっていたはずだよ」

 依斗はそれには答えず、無言で車内から出た。道具をしまうためだろう。古民家の中へと入ってゆく。

 一人残された車内で、亨哉は息を吐いた。

「……あーあ、牛が食いたいなあ」

 どうでもいい願望だ。こういうのが沸き上がって来る時はだいたい、血圧が落ちている。

 楽朴堂が発足したころ、倉庫には封印された神が五百四十三いた。神の力を世のため人のために解き放つことを目的とし、楽朴堂はこの二十年間、ひそかに神さまを売り続けてきた。

 その数、今回の優菜の鬼子母神を含めて七十七だ。

 二十年間でやっと七十七。五百四十三のうちの。

 神さまは売って終わりではない。そのあとも半永久的に様子を観察し続けて。何か事があった際には対処しなければならない。

 楽朴堂の仕事に、終わりはない。

「あいつらでいいんかな……?」

 慶太は陣も札も上手で、宗教関連の知識も豊富、さらに外面がよく客とも仲良くやっていて、あとは術をいくつかマスターすれば楽朴堂の従業員としては及第以上でとても期待していたのに、一年前に失踪した。

重大な役目を受け継がせても良いとすら思っていたのに、いなくなってしまった。

何が不満だったのだろう。人間というのは、外面を見ているだけではわからないことがたくさんある。

 牛肉ステーキにかぶりつく妄想を三分ほど続けて、気分が落ち着いてきたので車から降りると、ちょうど依斗が古民家から出て来た。道具の片付けが終わったのだろう。

「周防くん! ご苦労!」

 依斗はほんの少しだけ頭を下げて、そのまま亨哉の横をすっと通り過ぎ、とぼとぼと去って行った。


弐 雨の夜は蜜の匂い




 九月の雨は、寒い。

 新しく買ったばかりのスニーカーの中に、水が入り込んできてはあっという間に靴下を濡らす。こういう日は億劫だ。

 依斗は傘の中から空を仰いだ。

 圧迫感のある分厚い雲。際限なく落ちてくる水滴。

 今日の訪問は四件。

「しんどいな……」

 けれど仕事だ。やらねばならない。

 八王子駅から十五分歩き、昭和を感じさせるタバコ屋に着いた。靴の中はびしゃびしゃだ。

「ごめんください」

 入ると、店主のおばあちゃんが朗らかな顔で迎えてくれる。

「やっぱり馬頭さんのおかげかしらねえ? お客さんが絶えなくって……最近は若い子も吸うのねえ? なんだか嬉しいわぁ」

 彼女が馬頭観音を買ったのは令成十五年――つまり六年前だという。そのころの楽朴堂のメンバーは、もう亨哉しか残っていない。なので、依斗は当時の状況を想像するしかないがおそらく、夫を亡くし店が斜陽に差し掛かっていた状況で神に救いを求めたのだろう。馬頭観音のために払った百万円。よくこのおばあちゃんが払えたもんだな、と不思議に思う。

それとも、年寄りというのは案外お金を持っているものなのだろうか。

「さっさ、上がって。馬頭さんは今日も元気よ」

 店の奥の暖簾をくぐり抜けると居間がある。おばあちゃんの住む場所だ。神棚の隣に壁棚が増設してあり、そこに猿の人形が置いてある。そして人形から立ち昇るようにうっすらと、眉間にしわの寄ったいかつい顔が浮かんでいる。頭に馬が乗っているのですぐにわかる。彼が馬頭観音だ。

 依斗は椅子にあがり、猿の人形を手に取って触ってみる。埃が舞い上がり、むせ込む。

「……っほん……こふん……。馬頭観音……力が弱くなっているなと思ったら、この埃のせいでしたね」

 埃が落ちると、馬頭観音の輪郭がはっきりとしてきた。

 おばあちゃんが心配そうに見上げてくる。

「ねえ楽朴堂さん? もしかして馬頭さん、具合が悪いのかしら? だとしたらきっと私のせいねえ」

「どうしてですか?」

「無理を言っているもの」

「無理、とは?」

「どうかこれからも商売繁盛しますように。どうかこれからもみんなが健康でありますように。どうかみんなが長生きしますように。どうか夫が、あの世で幸せにくらしていますように」

「なんだ……願って当たり前のことばかりじゃないですか」

「そうかしら? 私って我がままなの」

「わたくしが思うに……それを我がままと呼ぶなら、世の中の人間の大半は強欲の悪魔ってことになりますよ」

「そうかしらねえ? 楽朴堂さん、面白いこと言うのねえ」

「面白かったですか?」

「ええ。とても」

「そうですか……」

 壁棚の周りを飾るように張ってあるしめ縄を交換する。この縄には楽朴堂独自の縄文の力を利用した清めがなされていて、神さまたちに、あなたは楽朴堂の傘下にあると伝える役目がある。他にも、神さまの領域とその外の領域をはっきりと分けることによって神さまの力が安定しやすい、などのメリットもある。

 新しいしめ縄を棚につけ始めたところで、鈴の音が聞こえた。

「あ、お客さんね」

 おばあちゃんは居間から出て行った。

 依斗は息を吐く。誰かに見られながら作業をするのは苦手なのだ。

 一人になり、ほっとした状態で縄を結んでいると、馬頭観音がにいっと笑った。

「楽朴堂の小僧」

 依斗は首を傾げる。

「なんです? 不満でもあるんですか?」

「否(いな)」

「いい家じゃないですか。あんな一生懸命なおばあちゃんが一人で、亡くなった旦那さんを偲びながら生きてるんですよ」

「あの小僧はどうした?」

「久我さんのことですか?」

「髪の茶色い、あの小僧だ」

「……慶太ですか? ……この家は俺の案件になったので。前にも言いましたよね?」

 このタバコ屋には二か月に一回ほど訪問している。慶太から引き継いで、もう四、五回はこの馬頭観音と顔を合わせている。

「貴様、旅をしないのか?」

 唐突な問いに、依斗はポカンとなる。

「旅?」

「旅をしないのかと聞いたのだ」

「旅行はあんまり……」

「つまらんやつだ。あの小僧は旅の話ばかりだったのに。旅先で見つけた庚申塚や六地蔵の話などしておった」

 馬頭観音はそれきり喋らなくなり、依斗はしめ縄の張替え作業に集中することが出来た。

 おばあちゃんに挨拶をしてタバコ屋を出た。

 次に向かうは西国分寺だ。

 列車に乗って西国分井駅まで行き、そこから徒歩で客の住むアパートへ向かった。

 二階建て、白い外見の建物だ。黄色のらせん階段で二階に上がり、その突き当たりが、客の住む部屋。

 インターホンを押して、待つこと数分。

 ガチャリと扉が開き、眼鏡を掛けた男が出て来た。訝し気な顔をしている。

「楽朴堂? 今日、来るなんて聞いてないけどね」

「ご連絡を差し上げましたよ。お家にいらっしゃるとのことだったので、こうしてお邪魔しました」

「だから聞いてないって」

「神さまの様子はいかがですか? お変わりなどございませんでしょうか?」

「さあねえ。それよりさあ、最近、全然休みをとれてないんだよね。頭の悪い後輩のやり残しを手伝ってあげてるせいでさあ、寝れてないわけよ。おかげで胃炎になっちゃったし」

「神さまを見せていただけませんか?」

「胃炎になったって言ったよね?」

「失礼します」

 強引に玄関に入ると、男は呆れた顔をした。

「最低なやつ」

 この男が神さまを買ったのは一年半前だ。人生の全てが不幸で包まれているから、厄払いをしてくれる神さまが欲しいとのことだった。そこで、須佐之男命(すさのおのみこと)を購入してもらい、アンモナイトの化石に降ろした。

 楽朴堂は基本的に、購入者にとって身近な物体をご神体にする。どこぞの神社のように、崇高な巨石や巨木に降ろしたりはしないのだ。

 須佐之男命は古事記にも出てくる有名な神さまだ。腕っぷしの強い乱暴な男だったらしく、なんでも天照大神(あまてらすおおみかみ)の田んぼを荒らしたり祭殿で糞をしたり八つ頭の蛇を倒したりしたらしい。

 アンモナイトの化石は男が中学生の時に地元の川で見つけた宝物とのこと。本物かどうかはわからない。ガラスケースの中に高級アクセサリーみたいに飾られていたし、本人のお気に入りの品であるということで、神を宿すのにふさわしいとなったのだ。

 部屋の中に入ると、生ごみの匂いがする。隅のところに、中身の詰まったゴミ袋が積み重なっている。これでも、前ほどの汚部屋ではない。

「確かに神さま買ってから上司からのいじめはなくなったよ? だけど代わりに後輩指導をやらされてるからね? 俺? しかも聞いてよ。こないだまで付き合ってた彼女、前の男と五年間も付き合ってたんだってさ。俺は五年男の次ってわけ。勝てるわけねえじゃん? 負ける恋愛なんてしたくないから、フッてやった」

 依斗は男の言葉を適当に聞き流しながら、ガラスケースの中を観察する。

 アンモナイトを置いているシルク風クッションの下には、陣を書いた紙を敷いてある。ガラスケースの四隅には小さな札も貼ってある。須佐之男命は力が不安定な神さまだ。アンモナイトにしめ縄を結んでいたのだが、須佐之男命の力が暴走した夜に焼き切れてしまった。それが一年前のことだ。その時に、陣で力を抑制することにしたのだ。

 陣は、五芒星にそれぞれ木、火、土、金、水と書き、四角には甲骨文字風に蛇と書く。陰陽五行の息吹と、古代縄文の蛇神のご加護を感じることによって、須佐之男命に落ち着いてもらおうというわけだ。

 ガラスケースの四隅の札はそれぞれ、竜が描かれたもの、描かれたもの、角の生えた鬼顔の獣が描かれたもの、亀が描かれたものだ。それぞれ、応竜(おうりゅう)、鳳凰(ほうおう)、麒麟(きりん)、霊亀(れいき)という。古代中国の霊獣だ。これら四枚はただの絵札で術力もないが、神さまに威圧感を与えるために貼ってある。亨哉の案だ。さすがの須佐之男命も、古代中国の霊獣を見ると気分が鎮まるらしい。古代中国の霊獣は高天原が産みし神々よりは格上、というわけだ。実際のところどうなのか、依斗にはよくわからない。

 須佐之男命は機嫌が悪くなるとアンモナイトの化石から出てきてはっきりとした姿を顕現させるのだが――日本史の教科書に載っている飛鳥時代の男性、みたいな容姿をしている――今日は気分が良いようで、ガラスケースの中にはただのアンモナイトの化石があるだけだ。

 依斗は安心し、ガラスケースから目線を離した。男に最後の確認をする。

「前回の訪問から一か月が空きましたが、神さまに関することで不安な点はありますか?」

 男は首を横に振る。

「別に。それより胃炎の方が大問題だよ」

「神さまに関することで何かありましたら、些細なことでも良いのでご連絡ください」

「すさの何とかさん? 厄払いの神さまなんだよね? でも俺は胃炎になってるんだけど?」

「神さまは万能ではありません。そういえば先ほど、上司のいじめがなくなったとおっしゃいましたね?」

「それはそうだよ。神さま買ってから、昇給したし、嫌いだった祖父は死んで、パパの癌が良くなった。ママは相変わらず辛気臭いけどね。恋人だって出来たんだ。フッてやったけど」

「良かったです。どうかこれからも、神さまと楽朴堂をよろしくお願いしますね」

 男は眉根を寄せ、

「あのさ、胃炎って胃薬で良くなる? それって薬局に売ってるもんなの? そもそも薬局ってどこ? 胃薬ってネットで買える?」。


 胃薬をネット通販で注文してあげるという親切をこなしたあと――まあ、届くのは明日になるだろうが――、男のアパートから出ると三件目の訪問へ向かうために駅へと向かった。

 ちょうど駅のホームをあがったところで、携帯電話が鳴った。亨哉からだ。

『あ? 周防くん? 今どこ?』

「西国分寺です」

『次に国立(くにたち)の豪邸行こうとしてた?』

「はい」

『お稽古が入っちゃったんだって。訪問はキャンセルで』

 依斗は「わかりました」と返事をする。訪問がキャンセルになるのはよくあることだ。

「じゃあ、国立を飛ばして吉祥寺の方行きますね」

『よろぴく』

 通話は、よろぴくの『く』の音の半分ほどのところでブツリと切れた。

 雨空に感化されたどんよりとした気分で、吉祥寺駅へと向かった。電車の中は湿気でむしむしとしている。

 吉祥寺駅に着き、大きな池のある公園を横切って住宅街へと足を踏み入れた。

 しばらく歩くと、こじんまりとしたヨーロッパの小屋のような外観のカフェがある。

 【酵母パンの店 アラトリア】

 依斗はわずかに興奮を感じた。

 このカフェの厨房に、いるのだ。月読命(つくよみのみこと)という、美しい神が。

「あれ?」

 店の前まで来て、おかしなことに気づく。

 カフェの内部は真っ暗だ。

 張り紙がしてある。

 ――本日、臨時休業。店主が急病のため。

 急いで店主の電話番号にかけるも、不在音声が流れる。

 今日の訪問はキャンセル、ということだろう。

 依斗はがっくりと肩を落とした。

 訪問が無断キャンセルになるのも、よくあることだ。


 楽朴堂に戻ると、すでに夕方の五時だ。出発したのが午前十時。たった二件の訪問に一日を使ってしまった。

 依斗は古民家の扉を押す前に、傘を畳んで深呼吸をした。

 雨の降る山奥はとても静謐な薫りがする。都心から離れた場所だからなおさらだ。

 空気を吸い込むだけで、体の芯が浄化される。

 高尾の良いところだ。

 傘立てに傘を置き、扉を押して中に入った。

 誰もいないみたいだ。

 灯りを点け、書類を用意して机に座る。

 訪問記録というのを、書かなければならない。

 さっそくタバコ屋の記録に取り掛かり、依斗はアッと声を上げた。

「……忘れてた」

「何を忘れてたって?」

 誰もいなかったはずなのに声がして、依斗は後ろを振り返る。濡れた感じの亨哉が立っている。

「久我さん……まさか傘を持たずに……?」

「そんなことより、何を忘れたって?」

 亨哉はソファにドカッと腰を下ろした。ふかふかの生地には落ちた水が浸みる。

「さつまいもチップスです。タバコ屋の馬頭観音に。あげ忘れました」

 馬頭観音には訪問した際にさつまいもチップスを与えなければならない。なんでも悟りの味がするらしい。そんなはずはないのだが、与えなければ機嫌が悪くなり、孔雀明王の呪文などを口走る。呪おうとしだすのだ。

 亨哉は足組をしてため息をつく。

「君ってちょくちょくやらかすよねえ」

「すみません」

「そういえば先週のはどうなった?」

 先週は訪問先の神さまへの祝詞奏上を忘れた。今週中に再度訪問したかったのだが、スケジュールの調整がつかなかった。

「また来週にでも……」

「些細なことだからミスしても仕方がないとか思ってるのかな?」

「まさか」依斗は首を横に振る。「申し訳ないと思って」

「ならしっかりしてもらわないと」

「はい」

「忙しいっていうのは言い訳にならない。自分でやるって言ったんだから」

「はい」

「……返事しとけばいいやって思ってるだろ?」

「細かいミスばかりで申し訳ないと思ってますよ」

「やれないならやれないって言えば? 自分には重荷だって、言えばいいだろ」

 その時だった。

チリリリリリンと甲高い金の音が鳴り響いた。

 箪笥の横にある、昔風なダイヤル式電話が鳴っている。

 亨哉は歩いて行って受話器を取った。

「楽朴堂です。……小野崎さん! どうしました? ……ええ、ええ……」

 依斗は耳をそばだてる。

 小野崎優菜。ついこないだ神さまを購入したばかりの彼女。

神さま購入後三か月は、様子を見るために週一の頻度で訪問する。その担当は麟太郎になっている。けれど急ぎの用事ならば、今、手の空いている人間が行かないといけない。

 受話器を置いた亨哉は、依斗の方を向く。

「小野崎さんが、神さまの表情が不穏で心配なんだって。見に来て欲しいだとさ。麟太郎はまだ他のところの訪問が終わってないし、照葉は休日だし。周防くんも記録で忙しいでしょ? 僕が行ってくるから」

「いいえ」

 依斗は書類を閉じて立ち上がる。

「俺が行きます」

「いやでも、忙しいでしょ? いいよ、僕が行くから」

「俺が行きますよ」

「なんで?」

「出来るんで」

「出来るんだ?」

 依斗はそれには答えず、重々しい歩き方で、玄関へと向かった。


 依斗は来た道を再び行く。

 もう日は落ちて、灰色の雨雲は黒くなっている。雨はまだ止まない。

 楽朴堂の近くにあるバス停からバスに乗り、高尾駅まで行った。駅は都心方向から帰って来た人々で賑わっている。スーツの人々とすれ違いながら、依斗は思う。

 一体この中の何人が、定時間際に営業先に呼び出されるという嫌がらせを受けたことがあるだろうか。そう、多くはないような気がする。

 最も、楽朴堂に定時なんてものは存在しないが。

 休日だって存在しない。休日なるものは照葉の専売特権だ。照葉は休日を決めると、その日は絶対に誰の連絡にも返事しない。依斗や麟太郎はもちろん、亨哉のにも。

 電車に乗って立川駅に着き、改札を出るとラーメン屋の良い匂いがした。

「……夕飯なんにしようか」

 それを密かな楽しみにして、優菜のマンションへ向かった。

 

「ごめんなさい、雨が降ってるのに……大変だったでしょう?」

 依斗は首を横に振る。

「雨なんて大したことないですよ。それより、連絡を下さってありがとうございます。何か気になることがあったらすぐに連絡をしてくれた方がいいんですよ。何かあってから言われても困りますので……」

 優菜はホッとしたように息を吐く。

「迷惑をかけていたらどうしようかって思っていたの……。良かった」

「鬼子母神の表情が不穏だということでしたが?」

「そうなんです。なんだか不気味で……。一度気になるといてもたってもいられなくなって。……ちょっと、来てください」

 リビングルームに行くと、マグカップが食卓の上に置いてある。鬼子母神の立ち姿が、蜃気楼のように、しかしはっきりと見える。

 微笑みでも怒り顔でもない、かといって無表情でもない。どうとでもとれるような、微妙な表情。

 依斗はマグカップを持ち上げて、しめ縄の状態を確認した。

 何も問題はない。

 マグカップは綺麗に洗われていて内部はつるつるしている。食卓のど真ん中に置かれているのを見ると、もうコーヒーを飲むのには使用していないようだ。

「鬼子母神。何か不都合はありますか?」

 尋ねてみると、鬼子母神は首をわずかに傾ける。

「オン ドドマリ ギャキティ ソワカ。不都合があると答えたのならば?」

 低く、含みのある声だ。チベットの山奥の寺院で行われる瞑想で鳴らされる鐘の音のような。

「対処します。力を暴走させてお客様に危害を加えられては困るので」

「そんなことはせん」

「安心しました」

 念のため、鬼子母神の真上に水晶を垂らす。水晶は神さまの内的状態を映し出してくれることがある。水晶は綺麗な透明のままだ。

 依斗は優菜に向かって頷く。

「大丈夫ですよ。何も問題はありません。宿らせたばかりですし、今のところは落ち着いています」

 優菜は不安げな表情をする。

「本当に?」

「はい」

「……鬼子母神の顔を見ていると思うんです、何でだろう、って」

 依斗は瞬く。

「……不倫されたことを?」

 優菜は力なく、椅子に腰を下ろした。

「神さまを買えば、忘れられると思った。でもそうじゃなかった」

「神さまは万能ではありません。けれど鬼子母神は何よりも母親を支えてくれる神さまのはずです。そういえば……」

 依斗は家の中をぐるりと見渡す。

「お子さんは?」

 優菜は笑う。

「今夜は友達のところにお泊りです。そのママ、料理がとっても上手で。うちの子も今夜は美味しいものが食べられるんじゃないかな?」

「一人ならばなおさら、ゆっくりとお過ごしになって下さい。わたくしの経験上、神さまをご購入になったはじめは色々と不安定なものです。けれどそのうち、神さまの存在が馴染み、ご加護を得ることが出来るでしょう」

「……そうなんですか?」

「時間が必要です。そして、神さまは万能ではありません」

「私って、万能じゃないものにすがったんだね」

「……万能ではありませんが、時間の経過と共に、少しずつそのご加護を実感するかと思われます」

「裏切りの記憶を忘れることも?」

 依斗はしばし迷い、頷く。

「それがお望みならば」

 優菜はため息をつく。

「……毎晩、思い出すんです。そして何でだろう、何で私がって思う。でもそのあとに、私が悪いって、思うんです」

「悪いことをしたんですか?」

「何も。ただ懸命に尽くしただけ」

「なら悪いのは相手です」

「すごく複雑なんです。私は確かに、相手に対して怒っている。なぜ私を裏切ったのか? とても腹が立っている。同時に、自分を責めてもいるんです。私がダメな人間だから、彼にそうさせてしまったんだろうなって。尽くすだけしか能がなかったから。寝ないで家事をしたって、出来上がったものが汚いなら意味ないですよね?」

「そんな」

 依斗が部屋の中を見渡して、

「こんなに綺麗なのに。何が問題なんですか?」。

 優菜は細めた目で床を見つめる。

「自分ではわからないんです」

「汚いと言われたんですか?」

「いいえ。彼はそんなこと言わなかったし、家事しろなんて言いませんでした」

「……ならどうして」

「不倫された理由を探して回ってるんです。でも正直、あまり見つからないから。けれど不倫されたということは、私がその程度の人間だったということなんでしょうね」

「小野崎さんは悪くありません」

 依斗は少し大きめな声で、はっきりと言う。

「何も悪くはないし、懸命に生きている人ならば必ず神さまのご加護を得られますから」

「そんなのわからない」

「せっかく神さまを買ったのに、そんなこと言う」

「不安なんです」

「大丈夫ですよ」

 依斗は顔の筋肉を総動員して微笑んだ。

「大丈夫ですから、もう少し時間を過ごして下さい。鬼子母神と一緒に」

「一生懸命に尽くしたのに報われなかったんですよ。裏切られた」

「よくあることです。必ず乗り越えられる傷です」

 優菜は眉根を寄せる。癪に障ったようだ。

「よくあること? 知らないくせに」

「すみません。言い方が悪かったですね」

「あなたにはわからないでしょ。若いし」

 今度は依斗が眉根を寄せる。

「若いからって……そんなの関係ない。俺だって、一生懸命に働いているのに認めてもらえない。尽くしてるのに」

「裏切られたわけじゃない」

「同じようなことだ。認めてもらえないどころか、おまえじゃ穴埋めにもならないと言われた。それでも、働き続けるしかない」

 そこで依斗は我に返る。

「お客さまの前で……すみません」

「おまえじゃ穴埋めにならないって? そんなひどいことを言う人間がいるんだね? 人は誰かの穴埋めをするために生きてるわけじゃないのに」

「尊敬できる人です」

 いつも羽織を着ているあの男。

「何を言われたとしても、仕方ないです」

「ひどいことを言う人間を尊敬する必要はないのに」

「少なくとも最初に出会った時は、一生に一度あるかないかの出会いを得たと思いました。でも普通の人でした。けど、尊敬していることには変わりありません」

 依斗の父は、家族と会社に尽くす人だった。

 ある日に、父の寝室で、没収されたままになっているはずの自分のゲーム機を探していて、ベッドの下にノートが隠されているのを見つけた。表紙には新興宗教団体のマークが描かれた札が張り付けてあった。ノートの中身は、紛れもなく父の字で、苦しみからの解放を願う言葉で埋めつくされていた。

 父は、仕事も家族も辛いようだった。

 その宗教団体は依斗も知っていて、虐待隠蔽でニュースになったこともある団体だった。

 失望した。

 ゲーム機を取り戻すことなんてどうでも良くなっていた。

 数日は立ち直れなかったが、しばらくして思い立った。

 本物の神さまをプレゼントしよう。父のそばに居て、父を助けてくれる。役に立つ、歴史をもった由緒正しき神を。

 そうしたらきっと、元気になってくれるだろう。

 変な宗教団体からも抜けてくれるかもしれない。

 楽朴堂の存在を発見し、亨哉に会いに行った。当時のアルバイト代では神さまを買うには足りなかったが、慶太が全額立て替えてもいいと言ってくれて、結局、亨哉が八割もまけてくれた。

いよいよ神さまを宿らせる前日になって、父が亡くなった。心不全だった。

神さまは必要なくなった。

落ち込んでいる依斗を、亨哉と慶太は楽朴堂へ誘った。

「あの時の俺は弱っていたから、思い遣ってくれて、心配してくれて、そして一緒に働かないかとまで言ってくれたあの人たちが神さま以上の存在に見えたんです。でもよくよく考えてみたら、家族を亡くして落ち込んでいる人間に対して優しく接するって、当たり前のことじゃないですか? 俺って、当たり前のことをされて涙を流してたんですよ。馬鹿みたいに」

 亨哉はとても優しかった。慶太も。だからだ。楽朴堂の従業員になってしまった。

「自分が弱い時って、当たり前のことをしてくれる人が、聖人のように見える。小野崎さんも、そうじゃないんですか?」

 優菜は「確かに」と頷く。

「私もそうなのかも。優しくしてくれたから信じたのかもしれない。私もね、運命の出会いだと思ったんだよ。これ以上の人はいないって、思ったの」

「不倫するような男、大したやつじゃないですよ」

「そうね、確かに……。冷静になって考えると、家族になると決めた人に対して思いやりをもって接するのは当たり前のことだよね。お互いに優しさと誠実さを持つこと。とても当たり前……。私って、当たり前のことをされて舞い上がってた。運命の出会いだと勘違いした」

「優しくされ慣れてないんですよ」

「……うん」

「だからちょっと優しくされればすぐ受け入れる」

「そうね」

「チョロいんですよ」

「……チョロい?」

「俺たちみたいな人間って、損です」

「それはそう思う。人の表面的な振る舞いを本性だと思い込むの。その結末が、不倫」

「俺もですよ。小言を言われながら働く毎日です」

「私たちって本当に損ね」

 優菜は我に返ったように笑う。

「何を言ってるんだろうね? 私? 何を語ってるんだろ?」

 依斗もつられたように笑う。

「俺も何を言ってるんですかね? 仕事中なのに」

「気にしないで……。そうだ、日本酒があるの」思い出したように立ち上がる。「飲んでかない?」

「さすがにそれは」

「彼がいなくなったから、羽目を外そうと思って高い日本酒を買った。でもね、高い日本酒を一人で飲むのってとても虚しいの。子育てや家事を一生懸命やって、そのうえ仕事もしてって、他人のために生きてると、虚しいことに夢を感じたりするようになるんだなって、わかった」

「いいじゃないですか。一人でも」

「気の合う人と語り合いながら飲むのには適わない」

「……それはそうだ」

「でしょ?」

 優菜は食器棚の下の引き出しから大きな瓶を取り出す。お猪口を二つ用意すると、豪快に注ぎ込んだ。

「年はいくつ?」

「俺ですか? 二十四です」

「六歳差か。悪くないかな」

「やめてくださいよ。ちょっと飲んで帰りますよ」

「そんな寂しいこと言わないで」

 依斗は差し出されたお猪口を受け取った。鼻をついてくるアルコールの匂い。

 背徳感があるが、でもそこまで悪い気はしない。

 優菜の表情を見て、ふと思う。

「大切な人を亡くすのと大切な人に裏切られるの、同じようなもんですよね。どっちにしろ失ってるんだから」

 優菜はふざけるように天井を仰ぎ、

「あらららら? そういえば私、彼の葬儀をまだやっていないわ」。

「弔いの酒といきましょう。今夜で成仏させるんです。そして鬼子母神のご加護を乞いましょう。ご利益のあらんことを。……夜は長い。手伝いますよ」

「彼のご冥福と神さまのご加護とご利益を祈って?」

 依斗は優菜のお猪口に自分の持っているのをコトンとぶつけた。

「乾杯」


参 謎の証文




「薫ってるなぁ……」

 亨哉は玄関で立ち止まったまま、キッチンの方向を見つめた。なんと、コーヒーの匂いがするのである。

「コーヒー飲むやつなんていなかったのに」

 楽朴堂本店であるこの古民家の、一階は大雑把に分けて三部屋ある。

 キッチンも含めた居間、応接間として使っている和室、記録書きに使う和室だ。

 二階は仮眠室と資料庫。

 地下には神さまを保管している倉庫がある。

 コーヒーの匂いは居間からだ。おそらく、記録書きが終わった誰か。

「照葉か⁉」

 答え合わせをするべく居間へ駆け込むと、キッチンに制服姿の少年が立っている。

「麟太郎か! どうしたんだよぉ、コーヒーなんか淹れちゃって……おっと?」

 麟太郎の手元にある物に、目を見開く。

「コーヒーミルとコーヒーメイカー……」そんな物、ここにはなかったのに。「麟太郎、おまえ自分のを持ってきたのか?」

 麟太郎は亨哉を振り返り、首を横に振る。

「俺のじゃない。楽朴堂のために買ってきた」

「……は?」

 麟太郎は真顔で、

「領収書あります。よろしくお願いします」。

「お願いしますじゃぁないよ、経費にはならないよ」

「業務上、必要不可欠な物なので、経費です」

「何のために必要なんだい?」

「俺が大人になるため」

 亨哉は顎を落とす。冗談なのか本気なのかわからない。

「……おまえが大人に? 待てよ、意味がわからない」

「楽朴堂が子どもばかりだと久我さんも大変でしょう? 宮之さんは諦めるとしても、せめて俺は大人になってあげないと。苦味のあるコーヒーをブラックで飲む。俺に与えられた試練だ」

 その時、ジャラジャラと鎖のこすれる音と共に第三の人物がやってきた。

「私の何を諦めるって?」

 腰から幾本ものチェーンをぶら下げた照葉が、麟太郎の横に並び立つ。

「ねえねえ麟太郎くん? 私の何を諦めるって? ……っておいおい、コーヒーメイカーがあるじゃないのぉ⁉」

 照葉は目を極限までまん丸く見開く。コーヒーゼリーにすら難色を示していた麟太郎がまさか。

「コーヒー飲むのぉ⁉ なんでぇ⁉」

「少しは大人になろうと思って」

 生真面目に答える麟太郎に、亨哉はため息をつく。

「こいつコーヒー飲んで大人になろうとしてんだよ。照葉、どうにかしてやって」

 照葉はふるふると震える。

「私苦いの無理、無理だから絶対無理。無理ったら無理。仲間だと思ってたのにこの裏切り者」

 麟太郎は「ほらな」とドヤ顔だ。

「だから宮之さんは大人になれない。俺だけが大人になる」

「……え? なにそれ? 馬鹿にしてるの? それって私のこと馬鹿にしてる?」

 ちょうどその時、玄関の方から、ガラガラと扉の開く音がして、照葉は驚いた顔をする。

「え? 不法侵入者?」

 麟太郎は呆れたように、「どう考えたって依斗さんだろ」。

 亨哉は意外そうに瞬きをする。

「全員揃うなんて珍しいな。みんな訪問終わりの記録書きか? ……実は昨日、周防くんから連絡もらってないんだよね」

「えぇ? つまりそれはどういうこと?」

 照葉が興味津々といった風で尋ねると、亨哉は耳の後ろを掻く。

「いや……小野崎さんとこから急に連絡があって、周防くんに行ってもらったんだけど、そのあとパッタリ……」

 依斗が、居間にやって来た。面子を見てキョトンとする。

「みんないる……」

「ねえ周防さん。昨日は何してたの?」

 照葉がさっそく尋ねる。

「何って……あ、そうか」依斗は亨哉を見る。「小野崎さんのところは何も問題はありませんでした」

「だとしたらその旨、早く連絡をくれないと心配になるよ」

「すみません。小野崎さんの相談にのっていたら夜遅くなってしまって。これから記録書くので」

 照葉は眉を顰める。「夜、遅くなったって言った?」

 依斗は平然とした顔で頷く。

「小野崎さんは心配性な人で、悩み事を全て聞いていたら終電になってしまった」

「終電になって、そしてどうしたの?」

「帰ったよ」

「終電で?」

「……もちろん……」

 照葉は野次馬精神のにじみ出る表情で依斗を見る。

「ほんとにぃ? 実は泊まらせてもらったんじゃないの?」

「……それは……ないよ」

 麟太郎は明らかに軽蔑した表情で、腰に手をあてため息をつく。照葉はくすくすと笑う。

「周防さん見てよ、麟太郎のこの態度。高校生にこうやって馬鹿にされちゃってさあ」

 依斗は苛立ったように照葉を見る。

「どういう意味だよ?」

「だからそういう意味。そういうことしてるから」

「そういうことって?」

「だから、そういうこと。お客さまに手を出すなんて」

 依斗は「は?」と眉根を寄せる。

「一体おまえは俺の何を知ってるの? 何を見たわけ?」

「何も知らないし見てないけど、違うの?」

「風評被害だ。俺はやましいことなんてしてないから」

「ならそう言えばいいじゃん」

「言っとくけど、俺はおまえらより仕事してるんだよ。抱えてる定期訪問の客の数が三十五件。照葉と麟太郎は十件やそこらだろ。毎日働かなくたってなんとかなる」

「それくらいこなして当然でしょ? 先輩なんだから」

 依斗は力が抜けたようにポカンとする。

「あのさ……。なんだろう、すげぇ生意気だな? 口だけはご立派なことで」

 照葉はにかっと笑う。

「取柄なんで」

 依斗はすっかり呆れる。

「照葉の取柄なんて聞いてないんだけど」

「言うのは自由じゃん」

「……わかったよ、好きに言ってろ」

「だから言ってんじゃん」

「勝手に言ってな。俺に言わないでさ」

「虚空に向かって喋るほどボケてないのよ。華(はな)の二十歳まっさかりなもんで」

「そんなの知らないよ。いちいちうるさいな」

「私たち若いから、うるさいくらいでちょうどいいじゃん?」

「いちいち開き直るなよ」

「周防さんが辛気臭いからでしょ」

「なんだよ辛気臭いって?」

「感じ悪いってこと。いっつも疲れた顔してさ」

「……は?」

「まぁまぁまぁまぁ」亨哉が仲裁に入る。「夫婦(めおと)漫才はそこらへんで」

「「夫婦(めおと)じゃない!」」

 二人の声はぴたりと重なり、亨哉は思わず笑みを漏らす。

「なんだ君たち、仲良しじゃないか」

「えっへん」

 咳払いをしたのは麟太郎だ。

「お取込み中だろうけどいい? 言いたいことがある」

 亨哉は麟太郎に続きを促す。

「まず、小野崎さんの訪問担当は俺だ。なのに小野崎さんから急な連絡があったことを、俺は今知った。こういうのは困る。確かに昨日、俺は上野まで訪問に行ってたから、小野崎さんの家に駆け付けるのは無理だった。だとしても、小野崎さんからそういう連絡があり依斗さんが向かった、ということは教えて欲しかった」

 亨哉はうんうんと頷く。

「その通りだね、麟太郎。おまえにも報告するべきだった。今度からは気を付けるよ」

「そうしてください。それから依斗さん」

 麟太郎はその鋭い目を依斗へ向ける。

「鬼子母神はどうだった? 力が暴走しそうな気配は? しめ縄の境界は機能してた? 家主(やぬし)に危害を加える可能性は?」

「水晶をかざしたけど、見事に綺麗だったよ。しめ縄はきっちりとしていたし、少し触れた感触、あのマグカップはご神体として機能し始めていると感じた」

「理由は?」

「マグカップは食卓の真ん中に神聖なオブジェのように置かれていた。持ち主がご神体をああいう風に扱うならば、神さまも善なる力を発揮しやすいだろう」

「依斗さんの見解はわかった」

「随分と上から目線だな」

「まぁまぁまぁまぁ」亨哉は急いで仲裁に入る。「お互いにコミュニケーションをきっちり取りましょうということで、いいかな?」

 二人はうんともすんとも言わずに黙り込む。

「仲良くしてちょうだい! 仲良く! ね!」

麟太郎はむすっとした表情を亨哉に向ける。

「このグダグダな感じ、久我さんはどう思ってんの?」

「え……僕?」

「グダグダになってんじゃん」

 亨哉は困ったように瞬きをする。

「……僕はね……君たちが一生懸命働いてくれて、少しずつでも良いから神さまの扱いがうまくなってくれればそれで、特に言うことはないんだが」

「そんな大雑把な話じゃなくて、連絡くれないのは困るんだよ」

「わかったよ、わかった」

 亨哉は懐から携帯端末を取り出した。

「連絡事項を共有できるように、チャットのグループを作ろう。何かあったらそこに投稿すること! これでいいか?」

 手慣れた操作でチャットのグループを作り終えると、浮かない表情をしたままの麟太郎の肩をポンと叩き、依斗と照葉にウィンクをした。




 依斗は一日のスケジュールを十五分ごとに区切っている。

 本日のスケジュールはこんなかんじだ。

 六時――起床、着替え等。六時十五分――シャワー、肌のメンテナンス等。六時三十分――ストレッチ、筋膜リリース、食事準備。六時四十五分――朝食。七時――神さまの勉強。これには一時間半、使う。八時三十分――出発準備。八時四十五分――出発。

 十時――一件目の訪問宅に到着予定。終わり次第二件目へ出発。本日の訪問は三件。八王子のタバコ屋と農家、国立(くにたち)の豪邸だ。午後三時までに終わらせたい。

 午後五時――裏高尾の楽朴堂本店へ到着。記録書き。チャットに報告を投稿する。午後七時――西八王子の自宅へ帰宅。午後七時週五分――筋膜リリース、夕食準備。午後七時三十分――料理開始。午後八時――完成。食す。午後八時十五分――食器洗い。午後八時三十分――シャワー、ジャージに着替える。午後九時――筆で陣と札を書く練習。一時間使う。午後十時――寝る。

 依斗は常日頃から神さまについて気になったことがあればメモを取っている。訪問先にいる神さまもそうだし、まだ倉庫に封印されている神さまでも、興味があれば勉強している。

 何事も真面目にコツコツとやるのが大事。というよりも、それくらいしか方法がない。

「……俺は慶太じゃないから……」

 百五十年ほど前に華嘉(かか)という人物がいたらしい。

 彼は蛇神と契約し、縄文の秘術を使って消滅の危機に瀕していた神々をこの世界に繋ぎ留め箱の中に封印した。その数、五百四十三。

 神力が弱まり雲散霧消しかけていた神々だ。神々が箱の中で眠り、神力が回復するまで、およそ百年を必要とした。

 華嘉は遺言を残した。

 神々の力が満ち足りたならば、その時は再び世に放ち、人々の光として降臨させて欲しい。

 華嘉の遺言を受け継いだ者は楽朴堂を開業し、ゆっくりとではあるが、神々を世のため人のために解放している、というわけだ。

 無事に朝食を時間通りに終え、依斗はさっそく神さまの勉強に取り掛かった。

「……馬頭観音とさつまいもの関係」

 自分で書いたメモには、そう書いてある。

 タバコ屋にいる馬頭観音はさつまいもチップスを与えないと機嫌が悪くなる。先週にあげ忘れたので今日、またこのあとタバコ屋に行くのだが、ふと疑問に思ったのだ。

 さつまいもチップスでないといけない理由はあるのだろうか。

 しばらく検索してみたが、関連性がわかるような文章は見当たらない。

 ただ、馬頭観音は農業の神さまとして祀られていることがあるという。まったく関連性がない、ということではなさそうだ。

 馬頭観音は、さつまいもの味を『悟りの味』と言っていた。けれどそれはおかしい。

 馬頭観音というのは観音菩薩の変化した姿だ。

 菩薩というのは、まだ悟りを開いていない、修行中の身だ。悟りを開いた者のことは如来(にょらい)と呼ぶ。菩薩はまだ如来ではないので、悟りの味など知っているわけがない。

 冗談で言ったのだろうか。それとも何かの例えだろうか。

 さつまいもチップスが好物だとわかるまでは苦労した。馬頭観音は機嫌が悪くなると孔雀明王(くじゃくみょうおう)の呪文を口にするのだ。呪術のせいで千切れたしめ縄を何度も張り直した。

 孔雀明王というのは密教特有の存在だ。

孔雀は毒蛇を食べてくれる。そのことから、孔雀は災厄を取り除いてくれる存在として信仰の対象となった。

明王とは、人々を仏の教えへと導くために如来が姿を変えたものであるらしい。如来は悟りを開いたがために穏やかな顔をしているが、明王はほとんどが怒り顔だ。手には武器を持っていたりする。人々を強引に仏の教えへと向かわせるためだ。

 けれど孔雀明王は慈悲深い顔をしている。菩薩顔という。

 孔雀明王の呪法は強力で、ありとあらゆる物を除いてくれる。その力が蛇神へと向けられたのならば、楽朴堂が災いを受けるかもしれない。馬頭観音には買い主であるタバコ屋だけでなく、楽朴堂のことも守って欲しい。

 だから、さつまいもチップスは重要だ。

 神の機嫌を損ねないことが、大切なのだ。

 馬頭観音にとってのさつまいもチップス。

 宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)にとっての稲荷祝詞(いなりのりと)も同じだ。

 八王子の郊外にあるカツラギ農場の、倉庫二階の仮眠室の神棚に、宇迦之御魂神が宿っている。農場が楽朴堂から買ったのは令成十七年九月――ちょうど四年前のことらしい。依斗が楽朴堂に入ったのは約三年半前のことなので、この農場との交渉を直接目にしたわけではないが、当時の農場は廃業の危機に瀕しており、神にでもすがりたい気分だったのだろう。赤字なのにも関わらず、神さまに百万を払ったのだ。

 宇迦之御魂神は全国の稲荷神社で祀られている日本神話の神で、穀物の神として有名だ。

 楽朴堂の倉庫に封印されていた宇迦之御魂神は、理由はわからないがやたらと自信を失っており、神棚に宿った当初は三十分おきに稲荷祝詞を奏上しないと泣き出してしまう有様だった。宇迦之御魂神が泣くと、農場の一同は全員、頭痛がしたそうだ。

それから時が経ち、農場スタッフからの信仰を得て強くなったのだろうか。今では祝詞奏上は一週間に一度で良い。

 その週に一度の祝詞奏上をうっかり忘れたので、依斗はこれから農場に向かうのであるが。

 八時三十分になり、依斗は勉強を中断し、出発準備を始めた。


 依斗は日野(ひの)に住んでいる。家賃四万円のボロいアパートだ。家賃にはこだわらなかったが、二階より上に住みたいという点は譲らなかった。見事、ボロくて安いがゴキブリはあまり出ない二階の部屋に出会うことが出来た。キッチンのコンロは最低二つは欲しかったのだが、それも叶った。

 実家は三鷹の、閑静な住宅街にある。帰ることは滅多にない。

 日野駅までは徒歩で十五分。国道沿いを歩いていると、トラックが次々に走り去ってゆく。空気が澄んでいる日は、遠くの山々が見える。

 駅から電車に乗って、一件目の訪問先である八王子の農場へと向かった。

 駅周辺こそ賑わっている八王子だが、橋を渡りトンネルと抜ければあっという間に、小高い丘に囲まれた田舎の風景だ。企業の工場があったりするし、道路は広々としていて開放的。

 トンネルから出て少し歩くと、お目当ての農場に辿りついた。

 畑が広がっている。

 敷地の中に入り、倉庫を訪ねた。農場のスタッフが、中へ入れてくれる。

「神さま、今日はなんだかご機嫌なんですよ。ずっと笑ってて」

 スタッフは言いながらステンレスの階段を上り、仮眠室の扉を押した。

「ほらね」

 仮眠室の神棚に、宇迦之御魂神がいる。木で造られた鳥居の奥、しめ縄の張られた四角い小箱からぬいっと、神を後ろに結い腹の出た着物姿の爺が姿を浮かび上がらせている。何がそんなに楽しいのか、けらけらと笑っている。声は小さいが、はっきりと聞こえる。

「本当ですね。笑ってる……」

 依斗は呆気にとられた表情で彼を見上げた。

「宇迦之御魂神、何か楽しいことでもありましたか?」

 彼は答えず、けらけら笑い続けている。

「こないだ忘れてしまった祝詞の奏上に参りました」

 依斗の言葉が聞こえたのか聞こえてないのか、なおもけらけら笑っている。

 依斗はスタッフを振り返る。

「最近、頭痛がしたりは?」

「いいえ、ありませんね」

「他の従業員も?」

「はい。みんな元気です。社長もマネージャーもボスも奥さんもぴんぴんしてます。今季は豊作で、どれも物がいいし、近くのスーパーでの売れ行きも良かったり……良いことずくめですよ。神さまが来てから四年……今までの中では、今季がご利益のピークです」

「本当に?」

「このままブランドとして強くなってくれれば嬉しいです」

「楽しくなってくる話ですね」

「まあ、農作は基本、水物なんでなんとも言えませんが」

「……とりあえず、祝詞奏上と神棚の点検しますね」

「下にいるので、終わったら来てください」

「はい」

 スタッフがいなくなった仮眠室で、依斗は宇迦之御魂神と向き合った。

 両手を合わせ、頭を下げる。

「掛巻(かけまく)も畏(かしこ)き稲荷大神(いなりおおかみ)の大前(おおまえ)に 恐(かしこ)み恐(かしこ)みも白(もう)さく朝(あした)に夕(ゆうべ)に勤(いそ)しみ務(つと)むる家の産業(なりわい)を緩むこと無く怠ること無く彌奨(いやすすめ)めに奨(すす)め給(たま)ひ……――」

 世の中に祝詞なるものは山のように存在する。同じ神に同じ祝詞を奏上するにしても、それぞれの神社で文面が微妙に異なったりする。それは当然のことだ。神社はそれぞれの歴史を持っている。同じ神を祀っていても、成り行きが異なり、意味や解釈が違ったりする。

 依斗が唱えている祝詞は、亨哉が持っていた市販の祝詞集から抜き出してそのまま使っている。宮司のような詠唱は出来ないが、真面目さが伝わればいいと思って唱えている。

 祝詞奏上を終えて、依斗は神棚の掃除をし始めた。

 こないだも来たから大して乱れてはいないが、せっかく来たので綺麗にする。

 ふと、奥の方にうっすら溜まった埃を払っていて、違和感を感じた。宇迦之御魂神のいる小箱が、少し浮いている。

 下に何か挟まっているのだろうか。

 気になり小箱を持ち上げてみると、畳まれた紙がある。開いてみる。


 森羅万象の具現であられるお蟲(むし)さまの名のもとに

 汝を民の神と認定する


                 神祇庁(じんぎちょう) 統一協議委員会(とういつきょうぎいいんかい)


 依斗は首を傾げた。神棚に置いておくにしては不吉な雰囲気のある文面だ。

「誰がこんなものを……」

 その時、低い唸り声がした。

 宇迦之御魂神は鋭い目つきで眉間に皺を寄せ、食いしばった歯の隙間から声を漏らしている。

「宇迦之御魂神⁉」

 祝詞奏上はさっき終えたのに。

「どうされました? わたくしが何か、失礼なことをしてしまったでしょうか?」

「……か、え、せ……」

「え?」

「か、え、せ」

「あ……この紙を……?」

「か、え、せ!」

 依斗は急いで紙を折り畳むと箱の下に戻した。

 次の瞬間、宇迦之御魂神は笑顔になる。

 ――どういうことだ?

 謎の紙が、宇迦之御魂神の情緒安定剤のようになっている。

 依斗は試しにもう一度、謎の紙を箱の下から取り除いてみた。

「か! え! せ!」

 慌てて戻すと、宇迦之御魂神は笑顔を取り戻す。

 ――どういうことだ……。

 理解に苦しむ現象が起こっている。どうしたらいいのかわからない。亨哉に連絡した方がいいだろうか。

 ――いや、待てよ。

 脳裏で亨哉の声がする。

『いちいち聞くんだな』

 そしてそのあとに続く言葉はいつも決まって。

『慶太は聞く前に自分で考えたりしてたけどねえ』

 ひとまず、亨哉に報告せずに様子を見ることにしよう。

 一階に下りて、農場のスタッフに、祝詞奏上が終わったことと来週もまた訪問したいことを伝えて、依斗はその場を後にした。


農場から二十五分ほど歩き、タバコ屋に着いた。

 店主のおばあちゃんが、相変わらずの朗らかさで出迎えてくれる。

さっそく馬頭観音を見に行くと、忿怒顔は変わらずだが、どこか気の抜けた雰囲気でそこにいる。輪郭はくっきりとしているが、いつもの覇気がない。ご神体である猿の人形に、存在感で負けてしまっている。

「不穏じゃないから良かったけど、元気がないのも不安ですね。これを食べれば復活するのかな?」

 袋から取り出したさつまいもチップスを差し出すと、馬頭観音は馬か牛のようにかぶりついた。音を立てて食べる馬頭観音を眺めていて、依斗は気が付いた。

 猿の人形の下に置かれている、一枚の紙。

「それは」

 引っ張り出すと、そこにはさっきも見た文面がある。


 森羅万象の具現であられるお蟲(むし)さまの名のもとに

 汝を民の神と認定する


                 神祇庁(じんぎちょう) 統一協議委員会(とういつきょうぎいいんかい)


「なんだよこれ」

「楽朴堂の小僧よ」馬頭観音は低い声で喋る。「小僧よ。神を何と心得る?」

 依斗はそのしおれた怒り顔をじっと見つめた。

「……この紙は何ですか?」

「それを戻すのだ、小僧よ」

「この紙は何なんですか?」

 馬頭観音は答えず、さつまいもチップスを頬張る。

 ボリッボリっと、噛む音が響く。

 依斗は馬頭観音からの返答を諦め、おばあちゃんに紙を見せた。

「この紙、なんだかわかりますか?」

 おばあちゃんは首を傾げる。

「見覚えのない紙ねえ。なんて書いてあるのかしらねえ? 文字が小さくてよく見えないのだけれど」

「最近、この部屋に誰か来ましたか?」

「来客なんて、楽朴堂さんくらいよ。あ、そういえばこないだお茶したわ」

「誰と?」

「隣のよっちゃんと、隣の隣のはっさんよ」

 それはおそらく、おばあちゃんの近所の友人だろう。この謎の証文とは関係がなさそうだ。

 ――となると……どういうことだ?

 二件から同じ証文が見つかった。そしてどちらも、神さまが認識している。

 依斗の考え込む表情に不安を感じたのか、おばあちゃんは依斗の腕をつつく。

「ねえ、クッキーでも食べていく? 用意してあげるわよ」

「あ、いえ」

「遠慮しないで。ねえ、馬頭さん、やっぱり調子が悪いの? 何度も見に来るってことはそうなのよね?」

「あ、大丈夫です。先週、さつまいもチップスを上げ忘れたので、それをしに来ただけですので」

「でも二日前も来たじゃないの。馬頭さん、大丈夫なの?」

「――え?」

「あなたじゃないけれど、楽朴堂さん、来たじゃないの。やっぱり馬頭さん、私が無理を言うせいで疲れているのね」

「……二日前?」

「少しは我がまま言うのはよした方が良さそうね。こうして健康に長生きして、お店も続いているんだもの。少しの不幸は受け入れないとね」

「あの……」

「些細な不幸にすら胸が痛むようになってしまったの。私も年を取ったわね」

「ちなみに、二日前に来たのはどんな従業員でしたか?」

「制服姿のかわいい男の子よ」

 ――麟太郎!

 依斗は無理やり笑顔を作る。

「また訪問させていただくかもしれません。その時はまたご連絡しますね」

「ええ! これからもよろしくね、楽朴堂さん」

「はい」

 タバコ屋を出てすぐ、依斗は携帯電話を取り出した。


「麟太郎。話がある」

『依斗さんじゃないっすか。なんの用ですか?』

 電話の向こうの声は、素っ気ない。

「わからないか?」

『なにが?』

「ふざけるなって‼」

 依斗は苛立ちを電話口にぶつけた。

「遊びじゃないんだ! 楽朴堂が持ってる神々には本当にそれなりの力があって! それを何も知らない一般人に売っている! 訪問は遊びじゃない!」

『……どうしたんすか、そんな怒って』

「本当にわからないか?」

『わからないな』

「お蟲さまって?」

『おむしさま? 御無視様(おむしさま)か。ある特定の常連クレーマーに対しての、無視対応を許可します、の隠語だな』

「あのな」

『あ! お虫さま。ゴキブリの新名称だ』

「神祇庁、統一協議委員会」

『仁義庁? 統一教? 議員会? ヤクザですか、カルトですか? それとも政治家ですか?』

「タバコ屋に行ったか?」

『タバコ屋?』

「八王子のタバコ屋だよ。馬頭観音のいる」

『……あそこの訪問担当は依斗さんでしょう』

「その、俺の訪問担当であるタバコ屋に、おまえが行ったか?」

『なんでそんなことするんですか?』

「おばあさんが言ってた。おまえが来たって」

『勘違いでしょう。そんな用件なら切るけど』

「……とりあえず、久我さんに報告するから」

『すれば? でもどうにもならないよ。俺は何もしてないんだから』

「おまえ、言ってろよ。後で何が判明しても知らないから」

『依斗さんの無能さが強調されるだけでしょう。後輩を疑ってかかる思い込みの激しいやつだって』

「……は?」

 通話はブツリと音を立てて切れた。

「先に切りやがって!」

 依斗は携帯電話を地面に向かって叩きつけた。

 その時だった。

 着信音が鳴る。

 ――誰だよ……。

 力強く投げつけたにも関わらず携帯電話は元気で、うるさい着信音は鳴り続いている。

 力なく拾い上げ、その画面に表示されている名前を見て依斗は目を見開いた。

「小野崎さん」


『神さまが怖い。ちょっと来てくれない?』

 三件目の訪問を遅らせて、依斗はすぐに優菜のマンションへと向かった。

 立川のマンション、602号室。インターホンを押すと、優菜がげっそりとした表情で玄関から出てくる。

「ねえ、私、無理かも。あの神さま怖い」

「見せてください」

 依斗は優菜を押しのけるようにして、家の中へと入って行った。

 食卓のど真ん中には、しめ縄で飾られたマグカップが置いてある。

 その中から薄い雲が立ち上り、薄い輪郭で鬼子母神の姿がある。

 鬼子母神の表情は普通だ。いつもの、無表情と微笑みの間をとったような。

 依斗は膝を折り、鬼子母神と目線を合わせる。

「鬼子母神? 小野崎さんを困らせるようなことをしましたか?」

 鬼子母神は抑揚のない声で「うむ」と言う。

「したんですか? 何をしたんですか? 何か不満がおありですか?」

「……うむ」

「小野崎さんは、あなたが守護するべき人です」

「……我は……勤めを……果たして……いる」

「小野崎さんが、あなたを怖いと」

「……わか……らん……な」

 鬼子母神はわずかに首を傾ける。

「……我は……我であり……であるがゆえに……神と……成った。我を……信ずるのならば……我の存在……が……力と……なろう」

「何か不都合がおありですか?」

「……な……に……も」

 依斗は鬼子母神の上に水晶をかざした。

 しばらくしても水晶は綺麗なままで、依斗の肌感覚でも、何かが暴走している気配はしない。

「小野崎さん、大丈夫です。何も問題はありません」

 優菜は首を横に振る。

「そんなはずない。言ってるもの、私が悪いって」

「鬼子母神が?」

「いいえ。神さまは何も言わないけど、でも無言で言ってる。私の存在が、彼を裏切らせたんだって。だから私が悪いって。言ってる。裏切られたのは私のせいだって」

「被害妄想だ。冷静になってください」

「冷静に? 私は冷静になったんだよ。不倫が発覚した当時はもっと荒れてた。時間が経つにつれてだんだんと落ち着いて来て、神さまだって手に入れた。そしたらわかったの。私が悪かったんだって」

「なんでそうなるかな」

「私、もうこの神さま嫌だ。別のに替えてください」

 依斗は思わず息を止める。

 ――俺がせっかく……鬼子母神を選定したのに……。

 亨哉にこのことを話したらなんと言うだろう。大体は、想像がつく。

 え? 周防くんが選んだんだよね? 合わなかったの? 嫌だって? 女性のお客さまは得意だったのにねえ? 素敵な神さま選んでくれてありがとうって、お礼ばかり言われていたのに。君も読みが甘くなってきたねえ。 

 一度、封印解除した神さまを再度封印することはしない。なぜだかは知らないが、亨哉はそれをしたがらない。優菜が気に入るような神さまをもう一度選び、もう一度封印解除し、宿らせて、そして鬼子母神は次の客が買うまで楽朴堂のあの古民家に置いておくことになる。

 目に見えるようだ。亨哉は鬼子母神を見るたびに目を細め、

 この鬼子母神、どうする? ねえ? 周防くん? まさか、ずっと店に置いとく?

 皮肉気に言うのだろう。

「小野崎さん、考えなおしてください。お願いします」

 優菜は怪訝そうに眉を寄せる。

「お願いしますってどういうこと? お願いしたいのは私の方だよ。神さまのこの顔を見てるとね、私は全てがわかるんだ。いくら信じようと努力しようと、家族や愛のために頑張ったって、私そのものがダメなら全部ダメなんだなって、わかるから。私がダメだから裏切らせたんだって、わかるんだ。そして私そのものというのは、変えようがないんだ」

「小野崎さん、悩み事があるなら話し相手をします。だから、鬼子母神を信じて欲しい」

「あなただって言ったよね? 一生懸命、働いているのに認めてもらえないって。それはきっと、あなたが相手に認めさせていないんだよ」

「……はい?」

「どれだけクズでも何をしても、愛される人は愛されて、続いていける人は続いていく。運命っていうのは、存在そのものが決めるんだ。だから、存在そのものがダメなら、なにしたってダメ」

「小野崎さん……俺はあの日」

 急に呼び出されて行ったあの雨の夜。

「一緒に弔いの酒を飲んだじゃないですか」

 せっかく神さまを買ってくれたお客さまだから。

 心を寄せて、共感しあって。

 共に飲み交わし、その後は寝室で一夜を過ごした。

「小野崎さん、大金を出して手に入れた神さまでしょう? もう少し信じて欲しい」

 優菜はふと目を伏せた。

「……寝室……」

 小さく呟く。

「寝室?」

「寝室……」

「……寝室が、なにか……?」

「……あなたと遊んだ夜から、寝室が、辛い場所ではなくなった。過去の記憶が塗り替わったからだと思う」

 優菜は力が抜けたように笑う。

「そしたらね、今度はこのリビングルームが苦しい場所になったの。子どもの顔を見ると申し訳ない気持ちになった。こんな立派なマンション、私が住んでちゃいけないなって思った。鬼子母神が、私を責めるようになった」

 依斗はポカンとなる。

「は?」

「あなたと遊んだ夜から」

「俺のせい?」

「でもあの夜から、神さまが私を責めるようになった」

「鬼子母神が? その声で?」

「ううん。神さまは何も言わないけど、でも言っている。私が悪いって」

「……小野崎さん、一旦、落ち着いて」

 優菜は何が面白いのか、楽しげな笑い声をあげる。

「っふふ! あのね、私、鬼子母神について調べてみたよ。もとはインド神話の神さまなんでしょう? ハーリーティー、または訶梨帝母(かりていも)。夜叉の一族で、子どもを何千人も食い殺した鬼女なんだって? そんなものを売って寄越すなんて、私への当てつけ?」

 依斗は呆然と優菜を見る。彼女の中で何が起こっているのか、わからない。

「……小野崎さん、聞いてください。訶梨帝母は釈迦から教えを受けて仏教に帰依したんだ。法華経を守護する鬼子母神となった。ご加護を得られる、立派な神さまなんですよ」

「でも夜叉なんだよね? 人を食べるんだよね?」

「鬼子母神は天部(てんぶ)にいる。天部にいる守護神たちは、守ってくれる。そのためにいる」

「私ってなんてひどいものを買わされたんだろう? こうやって、騙されて騙されて……全部、私が悪いね」

「小野崎さん! 仏教では、夜叉や鬼神を守護神として受け入れたんだ。悟りの境地に達したわけではないけれども、仏法を守護する存在として天部においた。大黒天とか、弁財天とか、聞いたことがあるでしょう? 鬼子母神も同じ場所にいるんですよ、縁起の良い神さまなんだよ⁉」

「そんなこと言われたって」

「池袋に鬼子母神堂というのがあるくらい、れっきとした神さまなんだ! 騙してなんかいない!」

「私が鬼になればいいと思った?」

「楽朴堂は悪神なんか売らない! 小野崎さん、お願いだから」

「この詐欺師が!」

 優菜は突然、ソファの上のクッションを手に取ると、力一杯に引き千切った。

 たくさんの羽が宙に舞った。

「小野崎さん!」

「私が不幸になればいいと思ったんでしょう⁉」

 優菜はキッチンの食器棚に手を掛けて、中の食器を床に落とす。

「小野崎さん!」

 ガシャンガシャンと、食器たちは派手な衝撃音を立てて割れてゆく。欠片が床の上で飛び散る。

「どれだけ綺麗にしたって無駄だよね⁈ もう意味なんかない!」

 叫びながら、優菜はカーテンを掴む。

「小野崎さん! 止めてください! お願いだから……」

 依斗が止めようとするが、優菜は凄い力でカーテンを引っ張る。

「私ってダメな人間なんだ。だから騙される。こうして裏切られる!」

「騙してない!」

「この悪徳が!」

「小野崎さん、落ち着いて! コーヒー飲みましょう、ね? 煎れますから! だから落ち着いて」

「コーヒーなんて飲まない!」

ピキンとフックの割れる音がして、カーテン布がレールから外れる。反動で優菜は後ろに倒れ込み、依斗も巻き添えをくらった。

「っ!」

 依斗は背中を押さえた。床に背骨が直に当たり、息が止まる。

「そうよコーヒー!」

 優菜は立ち上がると、今度は食卓の上に手を伸ばす。

 鬼子母神のいる、あのマグカップに。

「コーヒーを飲む時間が唯一の楽しみだったのに! 神さまが見てると怖くなって、私はコーヒーが飲めなくなった!」

 マグカップを高く掲げる。そのまま床に打ち付ける気だ。

「小野崎さん!」

 依斗は優菜の腕を掴みに行く。

「小野崎さん! そのまま、マグカップを置いて!」

「壊れてしまえ」

「小野崎さん! 置いて!」

 依斗は優菜の手からマグカップを奪い取り、彼女を突き飛ばした。

 バタンと、優菜は床の上に倒れ込む。

「っ! すみません! ……⁈」

 優菜からは反応がない。

「小野崎さん⁉」

 身体をゆすぶってみても、起きない。完全に気を失っている。

 依斗はへなへなとしゃがみ込んだ。

「……泣きたくなってきた……」

 麟太郎の言葉が、ふと脳裏に浮かぶ。

“神さまが欲しいなんて、うちに来る客はいかれてる”

そうなのかもしれない。

 依斗は深い呼吸を何度か繰り返す。

 だんだんと気分が落ち着いてきた、その時だった。

 ガチャガチャと。玄関から鍵を開ける音がする。

 ――誰だ?

「ただいまあ」

 玄関の方で、女の子の明るい声が響き渡った。

 優菜の子どもだ。

「ママ! ママぁ! あのね!」

 優菜を呼ぶ声と、廊下を走って来る音。

「まりんちゃんが、今日もお泊りに来ない? ってさ! ママ! いいでしょー?」

 リビングルームに入って来た女の子は、そこにある惨状を目にして表情を凍り付かせた。

「ど……ろ……ぼう?」

 依斗を見て、恐怖で唇を震わせる。

「違うよ! 違う違う!」

 依斗が全力で否定するも、女の子はがくっと崩れ落ちる。大きく見開かれた瞳は、優菜を凝視する。

「ママが……死んでる」

「死んでないよ!」

「ママが……」

「よく見て! 死んでないよ!」

 女の子は発作を起こしたように叫び出す。

「……ぁあああああ! ママぁあああああああああ! 殺された!」

 物凄い声量だ。これでは近所に怪しまれてしまう。

「お願いだから! 静かにして! 大丈夫だから!」

「ママああああああああああああ! ママあああああああああああ!」

「静かに!」

「どろぼうがああああああああああ!」

「しっ! 静かにしないと怒るよ!」

「いやああああああああ!」

 依斗はふと思いつき、テレビをつけた。

『ランデブー、ポンデブー、アイっ、ラッブユー!』

『がははははは!』

『なにそれっ! なにそれ意味わかんねえ!』

『あははっ、あはははっ!』

『アイっ、ラッブユ―!』

 テレビからは能天気な声が聞こえてくる。

「……ポンデブーだあ」

 さきほどの絶叫から一転、女の子はすっかり画面の中のお笑い芸人に釘付けになってしまう。

「ポンデブー! ポンデブー! ポン、デッブユー!」

 ――助かった……。

 一安心したところで、今度は依斗の携帯電話が鳴った。

 亨哉からだ。

 ――こんな時に……。

「もしもし」

 出るとさっそく、亨哉の長いため息が聞こえてくる。

『周防くん君さあ、今どこにいるの?』

「……急な用事が入って」

『……こっちにクレームが入ってるんだけど。今日、訪問予定のはずなのに来てません、って』

 三件目の訪問予定――国立にある豪邸だ。優菜から連絡があったため、後まわしにしたのだった。

「このあとすぐに行きます」

『いや、それがね、このあとお稽古だから、また次にしてくれってさ』

「……そうですか」

『ほんと君さ、やる気のない返事するよねえ。あのね、神さまはいつなんどきなんの気分の変化で力を暴走させるかわからない存在でもあるわけ。だから定期的な訪問は大事にしないと』

「すみません。わかってます」

『わかってるならなんでやらないのかな?』

「すみません」

『急な用事ってなに? 老人の道案内してましたとか言わないよな?』

「……あの……あとできちんと、話します」

『あとで、かあ。都合の良い言い訳でも考える時間が欲しいんでしょ?』

「……きちんと話すので」

『ま、いいや。じゃ、切るよ』

「はい」

『帰り道には気をつけなさいね』

「……すみません」

 通話は、すみま、のところでブツリと切れた。

 ――まただよ。

 腹の底から、煮え切らない感情が沸き上がってくる。

『神さまが怖い』

 客からそんな連絡があれば、すぐに駆けつけるのが当然ではないのか? それも、神さまを購入したばかりの客だ。

 国立の豪邸にいるのは薬師如来(やくしにょらい)だ。あの薬師如来は安定している。

 優菜から連絡があり、すぐに行かなければならないと思った。悪くない判断をしたはずだ。なのに亨哉の言い方は、まるでミスをした出来損ないの部下をなじるような口調だった。

 ――俺が悪いの?

 目の前には気絶した女性とその子ども、テレビからは騒がしい音声が流れてきて、部屋の中は荒れている。食卓の上には、鬼子母神。

 ――これは俺のせい?

 悶々とした気分のまま、依斗は清掃を始めた。

 床に散らばったクッションの羽毛は拾い、ポリ袋の中にひとまとめにした。

 外れてしまったカーテン布は畳んでソファの上に置いた。飛び散ったカーテンレールの破片は、拾えるだけ拾ってキッチンのところにまとめて置いた。

 やれるだけの片つけを終えた後、依斗は女の子の肩をトントンと叩く。彼女はテレビから目を逸らさない。仕方ないので、後ろから話しかける。

「ママが起きたらさ、お兄さんは帰ったよって言ってもらっていい?」

 女の子は画面を見つめたまま、

「ポンデブーはウナギ食べ過ぎて太ったんだって」。

「……ママに伝えておいて」

「ウナギは魚だからヘルシーだと思ったら、揚げたり甘く煮たりしたらカロリー高かったんだってさ」

「あのさ、ママに、またお兄さん、連絡するからって、伝えておいて」

「ウナギは絶滅しそうなんだって。だから川のウナギを食べると呪われるんだって」

「そっかそっか。じゃあね、お兄さんはもう行くから。ママによろしくね」

「はーい」

 どのくらい依斗の言葉を理解したのかは知らないが、彼女の返事を信じることにする。

 最後に、きちんと食卓の中央に置いてやろうと、鬼子母神のいるマグカップを持ち上げる。そして、依斗は瞬いた。

 マグカップの底に、何かが張りついている。

 引き剝がしてみると、折りたたまれた紙だ。開いてみる。


 森羅万象の具現であられるお蟲(むし)さまの名のもとに

 汝を民の神と認定する


                 神祇庁(じんぎちょう) 統一協議委員会(とういつきょうぎいいんかい)


 


 

 裏高尾の山奥にひっそりと存在する古民家――楽朴堂本店に戻って来た依斗は、真っ先に亨哉の姿を探した。居間にはいない。一階に二部屋ある和室のどちらにも、いない。

 二階に上がった。仮眠室の扉を押す。

 亨哉はソファに横たわって寝ている。起こそうと手を伸ばし、止めた。

 ――後にしよう。記録書きをしてからにしよう。

 仮眠室を出ようと、回れ右をした。

 すると。

「周防くん」

 亨哉が体を起こし、わざとらしく首をポキポキ鳴らす。

「起こしてくれていいんだよ。ダメなんて言ってないだろう?」

 目をごしごしとこすりながら、

「まずは、国立の豪邸の訪問をとんずらした言い訳から聞こうか?」。

 依斗は「あ」「はあ」「あ……」と音を発したあと、「では」と言う。

「言い訳の前に、この紙を見て欲しいんです」

 今日、三枚も目にした謎の紙を亨哉に見せる。

「なんだいそれは?」

「森羅万象の具現であられるお蟲さまの名のもとに、汝を民の神と認定する。神祇庁、統一協議委員会、と書かれています」

「いや、読みあげて欲しいなんて言ってないでしょ。その紙がどうした?」

「宇迦之御魂神は、この紙を取り上げると怒りを示しました。馬頭観音もです。鬼子母神のところにもありました。鬼子母神は何も言っていなかったけれど、この紙に反応していました。神との結びつきが強い紙です。なんらかの術が施されているのかもしれない」

「鬼子母神? なぜ君が小野崎さんのところに訪問に行ったんだい? 麟太郎に言ったか?」

「麟太郎のことなんですが」

 亨哉はやれやれと息を吐く。

「麟太郎に早く連絡しなさいよ。勝手に仕事を横取りしたらやる気なくしちゃうかもしれないだろう? まだ高校生なんだから。せっかくチャット作ったんだから報連相きちんとやって」

「久我さん」

「他には?」

「久我さん。麟太郎のことなんですが、怪しいと思います。麟太郎がこっそり、この紙をご神体のそばに忍ばせている可能性があります」

 亨哉はふと真顔になる。

「……それが本当だとして、麟太郎は何をしようとしているんだろうね?」

「わかりませんが……。楽朴堂に不利益になることかもしれません」

「麟太郎に対する信頼がないねえ」

「そうですかね?」

「そうだろうが。うちに不利益ってさ……あの子はうちの子なのに。信頼してないねえ」

「まあ……久我さんの、俺に対する信頼と同じ程度には」

 すると亨哉はきょとんとした顔で何度か瞬きをし、

「君さあ……疲れてるんじゃない?」。

 依斗は「え?」と聞き返す。

「周防くん、君、疲れてるんだよ。今の話も朦朧とした意識の中からひねり出された妄想のストーリーだろ? 森羅万象の具現であるお蟲さま、か。この世界は虫が具現可能なほどみみっちくはないんだがね。ま、なかなか面白い文章だね」

「久我さん!」

「神祇庁、か。明治頃まではあったらしいじゃないか。あれは神祇省、だったかな? けれど神祇官なる存在はずっと朝廷にいたわけだし、なんだい君? 宮仕えでもする気かい?」

「久我さん、俺の妄想じゃなくって」

「これから二週間、完全なる休日を与えよう。大丈夫だよ、訪問は麟太郎と照葉にやってもらおうね。彼らにもたくさん仕事してもらわないと」

「久我さん!」

 依斗は思わず怒鳴った。亨哉は目を見開く。

「君、本当に大丈夫かい⁉ 心療内科でも紹介しようか⁈」

 依斗は嘆息した。ここまで馬鹿にされるとは、思ってもみなかった。

「久我さん……。俺は確かに慶太より知識も器用さもないけど、それでも自分なりに一生懸命働いて、それでこういう扱いを受けるんだったら……もう、どうしたらいいのかわかりません」

 すると、亨哉は黙り込む。

 刹那の沈黙が、二人の間を流れた。

「……僕もだよ」

亨哉は静かに言った。後ろで手を組み、ソファに背をもたれる。「この際、ざっくばらんに話そうか。……麟太郎から相談があったんだ。君のことでね」

「……相談?」

「吉祥寺の月読命(つくよみのみこと)がいるだろう?」

「はい。吉祥寺の酵母パンの、アラトリアっていう店です。俺の訪問先です。最近、連絡がつかなくて行けてませんが」

「へえ? 連絡がつかないんだ?」

「あそこがどうかしたんですか?」

「君の書いた月読命の記録によると、特に問題はないとのことだったが」

「はい」

「君、月読命の御神体に悪霊退散の札を貼ったらしいね?」

 依斗は「え?」と表情を凍らせる。全く身に覚えのないことだ。

「おかげで月読命は呪いを吐き出していたそうだ。当然だね、神の身にして悪霊呼ばわりされたあげく、札を貼られて神力を抑圧されたのだから。井の頭(いのかしら)公園で物思いにふけったのちに麟太郎は帰り道で偶然、店の前を通りがかり、異常な神力の雰囲気に気がついて、店の中に入って対処をした。神さまの購入者であるご店主は、この札を貼ったのは周防さんだと証言をした」      

――嘘だ。

「麟太郎が儀式を行い、月読命は無事に鎮まったが……ご店主は君に不信感を持ち、君からの連絡を無視している状況だ」

「……そんなことしてない」

「自分でも無意識にそういうことをしてしまっているのだよ。だから、休まないと」

「あいつの作り話だ」

「周防くん」

 亨哉はすっと立ち上がり、依斗の肩に手を置く。

「二週間、ここへの立ち入り禁止。麟太郎や照葉との接触も禁止、客への接触も禁止」

 依斗のズボンのポケットへと手を伸ばしそして、携帯電話を抜き取った。

「これは没収だ。二週間、海でも眺めながらぽけっとしてなさい」

「ちょっと待ってください! 久我さん!」

 携帯電話を取り返そうと伸ばした手は、あえなく亨哉に払われる。

「周防くんね、ボスの言うこと聞かないとダメだよ。言うこと聞けないならクビだ」

「クビにしたいならすればいい。けど、やってないことをやったと言われるのは納得がいかない」

「周防くん、休みなさい。二週間後、待っているからね」

「久我さん!」

「さ、ここを出て行きなさい」

 ――どうしようか。

 とりあえず、携帯電話がないのは困る。あの端末には定期券やお財布カードなども入っているのだ。パソコンなんて持っていないから、インターネットも携帯端末で閲覧している。ただの連絡用ではない。

 ――言わないと。

 月読命の件は間違っていると。そんな事実はないと。二週間も休む必要はないと。

 だから携帯を返せと。

 嘘をついているのは麟太郎であると証明してみせると。そのために時間をくれと。

 国立の豪邸の訪問をスキップしたことも謝って。

 ――言わないと。

 なのに。

 なぜだろうか。声が出ない。

「周防くん。早く、家に帰って休みなさい」

 足が、自然と動き出した。

 気がついたら依斗は仮眠室から出て、一階へと降りていた。

 ――なんでだろ……。

 涙が溢れ出てくる。

 ――最悪だ……。

依斗は、止まらない涙をシャツの裾で拭い続けた。


肆 亨哉の誤算は葉を喰う音




新高円寺(しんこうえんじ)という駅を出ると、道路沿いにはスーパーマーケットや居酒屋さん、ラーメン屋や小型ビルが所狭しと並んでいる。

その中の一つ、照葉も名前を把握していない古いビルの、三階に『酒貴族』という居酒屋がある。店内はカウンター席が六席。ほぼ毎日、常連客で埋まっている店である。

照葉はサブ常連の一人だ。サブであるから、気が向いた時にやって来て、席が空いていたら飲んで帰る、そんな感じだ。

 カウンターの向こうでどっしり構えた女将(おかみ)さんは、入店して来た照葉を見るなり、

「照葉ぁ、なにそのダサい服? どこで買ったの? 百均?」

 照葉の恰好――上下、赤のスウェット、である。

 首元には金色をしたチェーンの首飾りをしている。ピアスはプラチナの蛇だ。右は目を瞑った蛇、左は目を開いた蛇。

「頭のおかしい子に見えるよ」

「ダサくないダサくない! セットアップっていうの。上下で揃えるんだよ」

「あんた、せめてその目立つ色はやめなさいよ」

「赤って情熱の色なんだってさ」

 照葉は端の席に腰を下ろした。隣には、よれたジャンパーを来た歯のないおじいさんがいる。彼はオオクラさんだ。カフェラテのようなものを飲んでいるが、表情が芳しくない。

「ほへはふぃんはーほーひーははい! ほへはほーひーふほーほは!」

 オオクラさんは歯がない。舌の筋肉だって衰えている。

「ふぃんなーほーひー! ふぃんなーほーひー!」

 オオクラさんには通訳がいる。彼の隣に座っている女性――メルちゃんだ。

「これはウィンナーコーヒーじゃない! これはコーヒーフロートだ! ってさ。オオクラさん怒ってる」

 メルちゃんの通訳を聞いて、女将さんは「ごめんねえ」と目を細める。

「いつものホイップクリーム、スーパーに売ってなくって。代わりに百円のバニラアイスをのっけたの。やっぱり風味が落ちるのかしらねえ」

 オオクラさんは肩を落とし、しょんぼりとした目でカップの中を見つめた。照葉は励ますようにオオクラさんの背中をポンポンと叩く。

「元気出してよ、オオクラさん! 確かに、ホイップクリームだと思ってたのにバニラアイスだった、っていうのは、シャインマスカットを注文したらデラウェアが出てきた、くらいの衝撃だと思うよ、それはよくわかる。正直、デラウェアじゃ話にならない」

 女将さんは反論したげな顔つきで照葉を睨む。それに気づかないふりをして、照葉は続ける。

「だからといって、デラウェアに失望していいわけ? すごくおこがましくない? おまえ何様なのって話になるでしょ? デラウェアだって一生懸命に育ったんだよ?」

 オオクラさんは子犬のような目で照葉を見つめた後、こくりと頷き、残りのコーヒーを一気飲みした。

 照葉はニコリと笑う。それから、女将さんに向かって手を挙げた。

「生中(なまちゅう)で!」

 ビールを一杯、二杯、三杯と飲むうちに、照葉の夜は更けてゆく。

 女将さんは昔いた旦那の話をしているし、オオクラさんは体のあちこちが痛い話とウィンナーコーヒーはホイップクリームじゃないといけない、みたいな話をしているし、メルちゃんはひたすらオオクラさんの通訳をしている。

 照葉は、みんなの話を聞いて笑っている。

 そして四杯目に入ろうとした時だった。

 店に、男が入って来た。

「いた。照葉。ちょっと話がある」

 なんの変哲もない黒ズボンに灰色パーカー、疲れきった顔をした、青年。

「周防さん⁉」

 照葉の声はひっくり返った。

「なんでここに来たの? え?」

 女将さんが「お」と声を出す。「彼氏か? あんた彼氏いたんか?」

 照葉は自分の心臓から欲望が溢れ出てくるのを感じた。見栄を張りたい欲、である。

 ――彼氏って言いたい彼氏って言いたい彼氏って言いたい……。けど嘘はつけない……。

「バイト先の先輩」

 女将さんは「なんだ」と、途端につまらなさそうな顔になる。

 依斗はため息交じりに、

「いっつもここで飲んでるって言いふらしてたじゃん。わざわざ写真見せつけてきたりさ……。だからいるかなって思って来たんだけど……なあ、頼みがあるんだ」。

 ――周防さんがあたしに……頼み事⁉

 照葉の脳天を電撃が直撃した。

 まじまじと見てみると、依斗の目は腫れているし、醸し出す辛気臭い雰囲気がバージョンアップしている。

 もしかしたら告白に失敗した後なのかもしれない。

 ――恋愛相談に乗ってあげないと!

「オッケー! 周防さん、その頼み事、聞いてあげるよ! 場所を変えようか」

 依斗と連れ立って、照葉は店を出た。四杯目はまた今度だ。


「で、相手はどんな女なの? そのアプローチで成功するって、どうして思った?」

 依斗は「は?」と下顎を落とす。「いや、違う違う。頼み事っていうのは……麟太郎を尾行してくれないか?」

 今度は照葉が下顎を落とす。

「え? なにそれ? 尾行?」

「俺、携帯没収されたから。探りを入れようにもわからなくて……」

「携帯を没収⁉ 人権侵害だよ人権侵害。訴えたら勝てるよ」

「久我さんに」

「久我さんにぃ⁉」

 照葉はがっくりと肩を落とした。どうやら現在、久我亨哉バーサス周防依斗が繰り広げられているらしい。

「あたしやだよ、先輩と上司の喧嘩に首を突っ込むなんてさ」

「どうせ暇だろ? 頼むよ」

「暇じゃないもん株価市場とかチェックしてないといけないし」

「麟太郎が怪しいんだ。楽朴堂に不利益になることをやろうとしているかもしれない。けど久我さんは耳を貸してくれないんだ。照葉が麟太郎に探りを入れて、怪しいことがないか、尾行して確かめて欲しい」

「……そんなん、周防さんが勝手にやればいいでしょ」

「二週間の休みをくらった。楽朴堂も出禁だって。どこの訪問にも行けないし、麟太郎に電話でもしようものならすぐ久我さんにばれるだろうし……携帯、ないし」

 なんだか依斗が可哀そうになってきて、照葉は考え込んでしまう。

 ――麟太郎を尾行するのは別にいいけど……ここで周防さんの頼みを受け入れたとして、あたしにどんなメリットが……?

 それは大事な点だ。

「ねえ周防さん。あたしがその頼みを受けたとして、なにをくれる?」

 依斗はハッとしたような顔をする。

「あ、ああ……。なにをくれるかって? あ、そうだな……あ、うまいもんでも奢ってやるか?」

「……うまいもんか……」

 それをメリットとして勘定して良いのかどうか、悩むところだ。

「あ、わかった。服買ってやるから」

「……服か……」

 いまいち決め手に欠けるのである。

「あー、わかったよ! おまえが借金する時の連帯保証人になってやるから!」

「よしのった!」

 照葉はさっそく、携帯端末を取り出してカレンダーのアプリを開いた。明日からの予定の欄に、麟太郎探偵、と入力した。

「何かわかったら俺に教えて欲しい。っつっても俺は携帯がないから……」

「こうしない? 月曜日と金曜日の二十二時に『酒貴族』に来るってことで」

「わかった」

 照葉はここで色気を出す。

「あのさー、周防さん……。店の中にいる間だけ、あたしの彼氏ってことにしてくれない?」

 依斗はポカンとした後、呆れたように笑った。

「おまえ、馬鹿じゃん」




 上石神井(かみしゃくじい)という駅がある。落ち着いた雰囲気の庶民的な駅だ。駅を出ればすぐに住宅街へと入ってゆく。昔ながらの喫茶店や商店の姿も残っていて、どこか懐かしい感じもある。

 駅から徒歩で二十分のところに、商業高校がある。

 授業が終わったらしく、門からはぞろぞろ生徒たちの出てくる姿がある。

 照葉はお饅頭屋さんの列に並び、携帯端末でネットサーフィンに夢中になっている振りをしながら横目で門を監視する。

 五分と経たないうちに麟太郎の姿が見えて、照葉は「うそっ」と声を上げながら列から離れ出た。お饅頭を買おうと並んでいたらペットが死んだと連絡が入った、という設定だ。細かい芝居を大事にするタイプなので、表情も悲壮な感じで作ってみる。

 麟太郎は駅の方向へと住宅街の中を早足で進んでゆく。

 照葉は人込みに紛れ、目立たないようにして同じ方へ進んだ。

 麟太郎の後を追うようにして駅の構内へと入り、麟太郎のところから四両分離れた場所で電車を待った。

 電車が来て、乗り込んだ。

 発車したあと、麟太郎のいる車両へ歩いて行く。

 すぐ隣の車両まで来ると、ガラス扉の向こうに麟太郎の姿を確認出来た。

 照葉は帽子を深くかぶってガラス扉のすぐ傍に立ち、停車するたびに麟太郎の動きを伺った。

 ――そういえば。

 前にもこうして、麟太郎を尾行したことがある。ちょうど一年前、彼が楽朴堂に入ったばかりの頃。

 あまりにも雰囲気が暗いので不登校なのではと心配になり、依斗と後を追ったのだった。

 麟太郎の住んでいるのは

 

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