第15話
邪道と仏ころし
「あんたの弟子になりたい」
言うと、閻魔大王はあまりにもあっさりと頷いた。
「よかろう。閻魔王界に忍び込む代償を払うとまで言うのだ。断る理由はない」
受け入れてもらった喜びで顔を綻ばせると、閻魔大王は解せない表情で、
「おまえは大層な変わり者だ。名は?」。
名乗ってもよかったのだ。けれどそれでは、少し面白みに欠けるような気がした。
「好きに呼んで。名前など、存在の本質においてはどうでも良いことだ」
閻魔大王は「ほう?」と首を傾げた。しばし思案したのち、
「邪道だ。おまえのことは邪道と呼ぶ」。
「うん。わかった」
「では、我輩の弟子になるにあたり、まずは鬼として修業をしてもらう。修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、どれがいい?」
「うーん……」
迷いあぐねているわけではない。正直、結論はどこでもいいのだ。けれど適当に返事をしてしまっては、誠実さに欠ける者だと思われるだろう。そこで、迷っている振りをしているわけである。
迷う振りをもっともらしくするため、視線を上下に動かしてみる。自然と、閻魔大王の装いが目に入る。
立派な緑色の着物はきめ細やかな生地で、見るからに肌触りが良さそうだ。おそらく絹。絹の着物など着たことがないので、大変に興味をそそられる。一方、頭には重そうな黄金の冠。あれでは首が凝るだろう。腰には黒い大帯。分厚い皮のようで、これは少し苦しそうだ。帯の下から垂れ下がる橙色の裳は、なんだか暑苦しい。
閻魔大王は常に木の笏(しゃく)を持っているが、おそらく握っている部分は手汗でぐしゃぐしゃだろう。手の皮がめくれているかもしれない。哀れなことだ。
「おい」
閻魔大王は笏で机をぱしーんと打つ。
「早く決めろ。そうは待てん」
邪道は「はいはい」と頷く。「ただいま。大事なことはよく吟味したい性質(たち)なもので」
死後に裁きを受け、天道にも人間道にも輪廻することが出来ず、かといって悟りへの道を踏み出すこともしないでいる者たちが蠢く閻魔王界。
修羅道には、戦いに明け暮れる野蛮な猛者たちが。
畜生道には、本能のままに生きる動物たちが。
餓鬼道には、やせ細り腹の出っ張った姿となった餓鬼たちが。
地獄道には、恐怖と痛みを与えられ続けている人々が。
「餓鬼道にします」
猛者は疲れるし、動物は素直すぎてつまらない。地獄の炎は暑すぎるので、間をとって餓鬼道だ。もちろん、これは適当に考えた理由だ。
「よかろう。邪道よ。そなたはこれから、餓鬼道の鬼として休む暇なく働くのだ。弟子修行は、まずはそこからだ」
邪道は元気よく返事をした。
「ありがとうございます。懸命に、修行に励みます」
人間が閻魔王界へ忍び込むための代償。邪道はそれを支払うため、虚空へと向かった。
白い道が、目の前に伸びている。
それはとんでもなく果てしない道に見える。
どこにもたどり着かなかったらどうしようかなどと思いながら、邪道は道を歩き始めた。
どこをどう見渡しても、ひたすらに白い。
まるで、何もない。歩くことだけが出来るのだ。
「こんな場所は始めてだ。なあ?」
呟いてみると、胸の奥がざわざわとした。
虚空への道は、時の流れからも切り離されている。あらゆる重さからも。
ふと、黄金の光が降り注いだ。
虚空に着いたのだ。
汝が 閻魔に弟子入りを望むものか?
それは声ではなかった。意思が、直接に語りかけてくる。
「そうです」
汝を あらゆる理から解き放つ 代償がいる
「それを差し出すために来たのです」
なるほど
突然、体が重くなった。まるで世界の全てを被さったみたいに。
立っていられず、崩れ落ちる。
全身を、痛みが駆け巡った。ありとあらゆる物が、刺してくる。切り裂き、えぐり、ぐちゃぐちゃにしてゆく。
痛みが和らいだと思うと、耐え難い気持ち悪さ。
――吐く。
けれど吐けない。体は硬直し、思考が分裂する。
――殺せ。殺してくれ。
皮膚の細かい皺の隅までをも縛られる。圧迫され、分解される。
――消えてくれ。頼むから。これ以上は耐えられない。
侵入してくる。内部を構成していた全てが黒く塗りつぶされ、空気に溶けてゆく。
――待ってくれ。このままでは消滅してしまう。その前にいっそのこと、死を……!
「死?」
途端、体がふっと軽くなった。
それまでの気持ち悪さが消える。痛みも、重さも。
邪道は手を握ったり開いたりしてみた。目を開けたり閉じたり、足を上げたり下げたり。
なんともない。
「代償って、これで終わり?」
いかにも 気分はどうだ?
邪道は首を傾ける。
「特になんともないけれど……そうだな。強いて言えば、実感を失った」
己の周りに、透明の幕が張られているみたいだ。繭の中にいるみたい。
そうか
黄金の光が消えた。
虚空は、ひとりでに消えていったのだ。
【一】
泥の水たまりの中で、佇んでいる餓鬼がいる。腕と足は木の棒のように細く歪に曲がり、腹は提灯でも入っているのかと思うほど硬く膨れて、目は窪み頬はこけて黒くなっており、口元はがさつき皮膚が割れている。肌は全体的にくすんでいて、ところどころ黒く壊死している。
そして、臭気に包まれている。
その餓鬼は泥水を手ですくい、飲んでは吐き、飲んでは吐きを繰り返す。
「あらま。どうしたのかな?」
邪道は餓鬼に駆け寄った。
「ねえ。汚い水を飲んでは体に悪いよ。あ! あちらにここよりは綺麗な水たまりがある。あっちの方がいいよ。さ、おいで」
邪道が餓鬼の手を引くと、呻き声をあげる。
「嫌なのかい? いいからおいで。さあ、さ」
細い腕を引っ張り、連れて行った。泥水であることは変わりないが、混ざった石粒がはっきりと見えるくらいには澄んでいる。
「飲んでみて」
餓鬼は身を屈め、水面に口をつける。ずずずと吸った。
その途端。
「ぎゃああああああああああ!」
腹の底からの空気で喉の奥をただ振動させたような、動物の断末魔のような叫びだ。
「うぎゃあ! ふぅんぎゃあ! ぐぎゅるあああああああああ!」
邪道はすっかり困ってしまう。
「一体どうしたの? そんなに不味かった?」
餓鬼は「ぎょっ」という音とともに、何かを吐き出した。――大量の蛆だ。
地面に放たれた虫たちは、蠢きながら散ってゆく。
邪道はしょんぼりとする。
「……そうか、不味かったんだな……ごめんな」
すると餓鬼は突然、走り出す。
「おっと? どこへ行くの?」
邪道は慌てて追いかける。
枯れた草原を駆け抜けて、餓鬼が行き着いたのはまたも水たまり。しかも、どす黒く淀んでいる。
「おいおい。こんなものを飲むの? やめなさいよ」
邪道の制止を聞かず、餓鬼は泥の中に身を横たえる。そのまま口を開け、飲み始める。
餓鬼は心なしか笑顔だ。嬉しそうに、黒い水を掻き込んでいる。
よくよく見ると、その黒い水の中にはミミズやらナメクジやら毛虫やらがうじゃうじゃいるし、遺骸の腐った匂いもする。
邪道はなんだかぽかんとしてしまう。
「こんなものが美味いのか……?」
思う存分に飲み終えて餓鬼は立ち上がった。満足感からだろうか、さきほどよりも、背筋がぴんと伸び、表情も晴れ晴れとしている。
にいっと、餓鬼は笑い、次の瞬間、「ぎょっ」という音とともに、吐いた。
虫と糞尿のたっぷり入った吐しゃ物だ。邪道は思わず鼻を押さえてしまう。
「君、結局は吐くんじゃないか……」
餓鬼は顔を歪めると、空を仰いで泣き出した。「もっど……もっど……」と嗚咽を漏らす。
邪道はなんだか哀れになり、餓鬼をそっと抱きしめた。
「いい子いい子、泣かないでくれよ。二度や三度、吐いたってどうってことない。また飲めばいいだけさ」
「もっど……もっど……うぅ……う……もっど……」
背中を優しく撫でてやると次第に、餓鬼は落ち着いた。
涙が止まる。
「元気が出たかい?」
餓鬼は我に返ったように邪道の手を跳ねのけると、奇声をあげながらどこかへと走り去ってゆく。
その後姿を眺めながら、邪道は感心の息を吐く。
「すぐに元気になった。大したもんだな」
その時、「おい貴様」と、低い声がした。振り返ると、青鬼がそこにいる。手には太い金棒を持っている。
「貴様。鬼の仕事をせんか。何を遊んでいる」
「遊んでいるわけではないけれど……。僕はまだここに来たばかりで、鬼の仕事というのがよくわからない」
青鬼は眉間にしわを寄せる。
「なんだと? 貴様、鬼なのに鬼の仕事がわからんのか?」
「まだなったばかりなんだ。悪いけれど教えてもらえないかな? 頼むよ」
青鬼はふんと鼻を鳴らす。
「鬼になったばかりだと? 嘘をつくのも大概にしろこの不届き者めが。閻魔様に突き出してやろうか」
「ああ、実はね。……僕は、閻魔大王の命で鬼をやっているんだ。僕が素人だというのは、閻魔大王もご存じだ」
青鬼は驚いて後ろにのけぞり返る。
「なに⁉ 閻魔様と面識があるのか⁉」
「そうそう、僕は閻魔大王と同じ目線で言葉を交わしたのだ。僕は特別な鬼なんだよ」
「なに⁈」
青鬼は大きく目を見開き、やがてゆっくりと頷く。
「なるほど。閻魔様のご命令とあれば仕方がない。しごいてやるから、来な」
「助かるよ。ありがとう」
青鬼は身をひるがえし歩き出す。邪道は青鬼の後をついて行った。
歩きながら、邪道は周りを眺めまわす。
木が朽ちて、梁の腐り崩れ落ちた民家がある。車輪が壊れ、引く牛は死んで腐敗している車もある。蜘蛛の巣が張り巡らされた、中身の入っていない唐櫃(からびつ)もある。道の端でぐったりと横たわる犬猫には、蠅(はえ)がたかっている。
道の轍には血が流れ、腐敗の香りが鼻を刺激する。
そんな中、立派な長屋が目についた。その長屋からは、荒廃の気配が漂ってこない。
そして青鬼は、その長屋へと向かっているようだ。
「なあ、青鬼。あの長屋には何があるんだい? 君の伴侶でも住んでいるの?」
「馬鹿か」青鬼は心底呆れたように言い捨てる。「鬼に伴侶だと? 貴様の阿呆さには言葉も出ないな」
「言葉、出ているじゃないか」
青鬼は眉根を寄せる。
「いくら閻魔様のご贔屓とはいえ、無礼千万を許すほど心は広くないぞ、俺は」
「許して欲しいなんて思わないよ」
青鬼は邪道の首をぐっと掴み引き上げる。邪道は顔を顰める。首を絞められてとても苦しいのだ。
「貴様はいらいらする。いいか。この先、一言たりとも発するな」
邪道はがくがく頷いた。青鬼は手を離す。どしんと尻もちついた邪道は、長く息を吐いた。
やがて長屋に辿り着き、二人は中に足を踏み入れた。
燃えるほどに熱い。
それもそうだろう。
そこにはいくつもの火柱が立っている。
数十人の餓鬼が炎に燃やされている。
餓鬼は足首を太い縄で繋がれ、手は後ろで縛られている。
青鬼は邪道に指示する。
「縄が緩んでいないか、一匹一匹確認しろ」
「かしこまった。あ、言葉を発してしまったね」
「次からは黙れ」
「あいよ」
「黙ってやれ」
「……う……」
邪道は餓鬼たちの足元にしゃがみこみ、縄が緩んでいないか、手で引っ張りながら確かめてゆく。餓鬼たちは暴れるので、緩んでいるのがたくさんある。それを一つ一つ、縛りなおしてゆく。
不思議と、火柱の中で作業をしているのに熱くない。餓鬼だけを燃やす炎のようだ。
「ぎゅひゃあ!」
突然、耳をつんざくような悲鳴が聞こえた。
その声は邪道が今まさに縄を縛りなおそうとしていた餓鬼だ。縄から脱し、炎をまとい長屋の外へと駆けてゆく。
「何をしている⁉ 早く連れ戻せ!」
青鬼に怒鳴られて、邪道は慌てて餓鬼の後を追った。
餓鬼は足が速い。無駄な贅肉がついていないので身軽なのだろう。邪道は山歩きと風に乗ることこそ得意だが、走るのは慣れていない。へとへとになりながらなんとか餓鬼に追いついた。
餓鬼は折り重なるようにして積んである馬の死体の山に頭を突っ込み、屍肉を頬張っている。
追われているというのに呑気なものである。
それにしても。
「なぜ君たちはそんな変な物ばかり食べるのかな?」
泥水やら屍肉やらなんやらこんやら。
邪道は理解に苦しむ。
それに餓鬼らときたら、鬼気迫る表情で食べるのだ。よほどうまいのかと勘違いしてしまう。
「すごいなあ……」
ぼおっと眺めていると、
「おい貴様」。
青鬼がやって来た。
「何をぼけっと突っ立っているのだ? 早く吐かせろ」
「え? 捕まえろではなくて?」
「あやつは食べてはいけない餓鬼だ。いいから、まずは吐かせろ」
青鬼の言うことだ。仕方がない。
邪道は馬の死体の山から餓鬼を引っ張り出し、肩をぐっと掴んで喉奥に指を突っ込んだ。
餓鬼は何度かじたばたした後、「ぎょっ」と吐き出した。そして脱力したように崩れ落ちる。邪道はなんだか悪いことをしたように気分になり、餓鬼の頭を撫でた。
「ごめんな。ごめんごめん。痛かったよなあ?」
「おい貴様、いいか? 食べてはいけない餓鬼が食べていたら全て吐かせろ。温情などいらん。問答無用だ」
「……けれど、せっかく食べたのに可哀そうな気もするな」
「問答無用と言った」
「僕は胸が痛むんだ」
「こやつらは腹を満たすために食べるのではない。心を満たすために食べているのだ。けれど食べることで心が満たされるわけではない。だから永遠と喰い続ける。食べられない罰を与えられても知らぬふりで喰い続ける。これでは、菩薩の救いが届かないのも無理はないな」
「哀れな存在なんだな」
「そう思うのは貴様が満たされているからだ。……さあ来い。次のやることがあるぞ」
「どこへ行くの?」
「いいから着いて来な」
「あ、そういえば、言葉を発してしまったね」
「貴様はいちいちうるさいな」
「どこへ向かうのかくらい、教えてくれたっていいだろう?」
「いいから黙ってろ」
「教えてくれよ」
「地獄道だ」
「……え?」
餓鬼道の鬼が、地獄道で一体、何をするというのか。
地獄道に着くと、邪道は目の前に広がる光景に圧倒された。
骨で編まれた巨大な籠に、人間がぎゅうぎゅう詰めになっている。そこらに赤鬼が徘徊し、空では巨大な烏が飛び回っている。あちらこちらに赤い池があり、遠くの方には銀色の丘が見える。
一人の人間が、籠から出された。彼は老婆の鬼――奪衣婆(だつえば)に身ぐるみを剝がされると、真っ赤な血の池へと放り投げられたのだった。それはあっという間の出来事だった。
「……これが地獄か」
「おい貴様。物思いにふけっている暇はないぞ。己の罰をわかっていない餓鬼はここにもうようよいる。あれを見ろ」
血の池で体を洗い流された人々は鉄の板の上に仰向けで寝かされ、手足首を金具で固定されて瞳に溶けた鉄を流し込まれている。赤鬼が振りかざした銀の棒は、彼らの腹を貫通する。棒が抜かれると腹からは血があふれ出す。体が再生するともう一度、貫かれる。その繰り返しが行われる。
人間たちは声にならない悲鳴をあげる。口端からは唾液がもれる。吐く者もいる。
その吐しゃ物に群がる――餓鬼がいる。そこには三匹。
青鬼は餓鬼の首根っこを摑まえる。
「おまえは食べてはいかん」
一匹を、空高く放り投げる。
「おまえが食べてよいのは唾液であり、嘔吐物ではないのだ」
一匹を、そこらへんに放り投げる。
「おまえが食べてよいのは血だ」一匹を、奪衣婆の方へと放り投げ、「おい婆(ばば)ぁ! そいつを血の池へぶち込んでおいてくれ!」。
青鬼の声に気づいた奪衣婆は、ここからの距離でははっきりとは見えないがおそらく嫌そうな顔をしている。
その様子をそばで見ていた赤鬼が、軽蔑の表情を浮かべた。
「ちょっとちょっと青鬼さんよ。餓鬼道の醜い罪人をこっちの池に押し付けないでもらえるかい? 迷惑なんでね」
青鬼は眉間にしわを寄せる。
「おい赤鬼。なんと言った?」
「餓鬼なんてしょぼい罪のせいで醜い姿に変えられた負け犬そのものじゃないか。大きな罪を抱え悲惨な苦しみに耐える地獄道のやつらとは、格が違うんでね。同じ池に放り込まれるのは我慢がならんだろう」
「あのな! 罪に貴賎なし、罰に貴賎なしだ!」
「貴賎の話ではない。格の話さ」
その時「くぅん」と、どこからか犬のような鳴き声がした。そこらへんに投げられていた餓鬼である。
「くぅん……じぶんの……だめに……いぎる……! ひどなんて……じらない! じぶんの……だめ! だがら……ぼぐがつがまえた……おおがみは……ぼぐだげが……だべる……! なにが……わるい⁉ なぜだ⁈ なぜ。つばしかぐえん……⁉ くぅん!」
赤鬼が肩をすくめる。
「おたくらの餓鬼さん、なんか言ってるぞ」
それまでずっと黙っていた邪道が、餓鬼のもとへ駆け寄った。
片膝をついてしゃがみ、
「君は何も悪くないよ。自分のために生きたんだね? 素晴らしいことだよ」。
優しく、餓鬼の頭を撫でた。
ため息をついたのは青鬼だ。
「餓鬼を慰めてどうしようってんだ」
青鬼は頭をごしごしと掻き、髪の毛の中から、手のひらくらいの冊子を取り出した。
「読んでやろう。そやつの審理記録を。きっと慰めたことを後悔する」
邪道は青鬼を振り返る。
「審理記録とはなんだい?」
「審理記録は審理記録さ」
「詳しく教えてくれよ」
「貴様は何も知らぬのだな。死して閻魔王界にやって来た者には審理があるのだ。第一の審理は死後七日目。秦広王(しんこうおう)と不動明王(ふどうみょうおう)により殺生の罪について問われる」
「その二人は何者なんだい?」
「秦広王と不動明王のことか?」
「そうだよ。えらい人なのかい?」
「貴様、あの方々の存在も知らずに……」
「だってお会いしたことないから」
「死なないとお会いできないからな。……むむ? ということは貴様はまだ死んでは……?」
「いいから教えてくれよ」
青鬼はため息をつく。
「うるさいやつだ。いいだろう、一回しか説明せんぞ。……秦広王はぎょろ目が魅力的なお方で、不動明王はぎょろ目が不気味なお方だ。このお二方によって、殺生の罪について取り調べを受ける」
「ぎょろ目であることしかわからないよ」
「うるさいな! いいから聞いておれ。第一審理のあとは第二審理だ。これは死後十四日目に、初江王(しょこうおう)と釈迦如来(しゃかにょらい)によって偸盗(ちゅうとう)の罪について取り調べを受ける」
「初江王と釈迦如来はどんな人なんだい?」
「初江王は太い眉毛が不気味なお方で、釈迦如来は太い眉毛が魅力的なお方だ」
「なあ青鬼、それでは眉毛が太いことしかわからないよ」
「黙っとれと言っとるだろうが! そして第三の審理だ。これは死後二十一日目に、
こやつは左之助(さのすけ)という。七日審理では、秦広王は虫さえ殺せぬ慈悲深さを誉めたが、不動明王はただ虫が嫌いなだけの弱虫だったと断言した。死後十四日目審理では、初江王に数々の盗みの所業を暴かれ、釈迦如来が教えを説いたが、途中で居眠りをした。その後、栄帝王に若き頃に行った淫行を指摘される。なんでも、犬と淫らな行為をしたらしい。文殊菩薩が、犬への愛ゆえの行為だろうとかばう言葉をかけたのにも関わらず、突っ込みたかっただけですと開き直ったそうだ」
「ちょっと待ってくれ。この餓鬼が、そんなに間抜けな人間だったってことかい?」
「その通りだ。だからここにいるのだ。さらにだ、四十七日審理では五官王に嘘をつくことさえ出来ない馬鹿者だと判定を下される。普賢菩薩が真言を唱えるも、オン サンマヤ サトバンを『お山さんとぱんぱん』と聞き間違える。むろん、普賢菩薩の怒りを買う」
「それはひどいな」
「五十七日審理では、閻魔大王に最大の罪を暴かれる。こやつは住んでいた集落で神とあがめられていた狼を、食うために殺したのみならず、集落から脱し山奥に逃れ、そこで木の上から落ちて動けずに飢えていた子どもにその肉を与えず、修行中の僧には無理やりに食わせた。地蔵菩薩から『教えを受け入れ学ぶ気があるのならば、大きな罪も意味がある』との温かいお言葉を頂戴するが、教えってうまいの? と言いながら指をしゃぶっていた」
「だめだこりゃ」
「どうだ? 慰めて後悔か?」
その時だった。
背後から強烈な光が差した。
後ろに突如、太陽が出現したのかと思うほど。
瞬きしながら光を見つめると、そこに姿がある。
閉じられた瞼。合わせた両手。腰を覆う白く光る腰帯。はだけた袈裟。
なにより、背中から数十もの手が伸びていて、頭上には小さな頭部が十一ものっかっている。手にはそれぞれ、貝やら鐘やら杖やら矢やら瓶やらを携えている。
邪道はこの姿を知っている。
「観音さま!」
赤鬼が叫ぶ。
「お越しになるときはお知らせくださらねば! しかし、なぜそのお姿なので?」
そう。観音菩薩は変化する。
千手観音の姿で六道に来たのには、意味があるはず。
「餓鬼道へと行くのですね? だから千手観音のお姿に」青鬼はもの分かった風に頷く。「わたくしがご案内しますよ」
観音菩薩は「ふふふ」と笑う。
「ちょうどね、暇が出来たもので。いくらか餓鬼を、悟りを目指す道へと導くことはできないものかと、そんなことを、ふと思い立ったものでしたので。その前にちょっくら、地獄道の様子も見ておきたいなと、そう思ったものですので」
「そういうことでしたか。けれど観音さま、地獄道はこの通り、いつも通りの騒々しさです。さっさと餓鬼道へと行きましょう」
観音菩薩はあたりをぐるりと見渡し、「たしかに」と頷く。
飛び交うのは叫び声。
地面には血の川が流れ、肉の焼ける匂いが充満する。
鬼に追いかけまわされる人々。鬼に身ぐるみを剥がされる人々。鬼に金棒で殴られる人々。
「教えを受け入れ学ぶのならば、痛みからは逃れられる。なのになぜ、それをしないのか。不思議だなと、思ったりするものですけれども」
青鬼は手をすりすり、
「馬鹿だからしゃあねえんですよ。馬鹿だから罪を犯す。馬鹿だから教えを受け入れない。馬鹿は罪です。さっさ。観音さま、餓鬼道へと行きましょう」。
「まあ確かに、行きたいなと、思ったりするものですけれども」
「では。わたくしが先頭を行かせていただきますよっと」
青鬼は颯爽と歩き出す。
続いて、観音菩薩が。
邪道は後ろからついて行く。
――あれが観音か……。
低い声。邪道は笑う。
「そう、憎々し気に言うもんじゃないよ。もう忘れたのではなかったのか?」
――そう、もう、忘れた。
「ならいいじゃないか。おまえは憎しみを忘れたくて僕を信じたのだ。ならば、観音を見たって、いまさら何も思わない」
――そう、何も思わない。けれど、体が覚えている。感情を。
「やめなさいって」
「おい貴様!」青鬼が鬼の形相で睨んでくる。鬼だから当然なのだが。「何をぶつぶつ言っている! 観音さまのお後ろだぞ! 黙ってろと言っただろ! 何度言わせる⁉」
邪道は半笑いをし、肩をすくめる。「すまないね」
「くれぐれも! 観音さまのお後ろを汚すなよ!」
何が面白いのか、観音菩薩は「ふふふ」と笑った。
「……おまえのせいで怒られたよ」
邪道は青鬼に聞こえないように呟いた。返答は、なかった。
棒切れのように見えたそれは、人差し指だ。小刻みに震えながら、赤い木の実に向かって伸びる。指の先っぽが触れたかというその瞬間に、木の実を横取りしたのは別の餓鬼だ。大柄で、瘦せてはいるものの体力がある。横取りした木の実をむさぼるように齧り、そして吐き出した。
「くぅん」
横取りされた餓鬼は泣いた。もしかしたら、自分なら食べることが出来たかもしれないのに。自分なら、吐かなかったかもしれないのに。
細い腕と震える指では、木の実をもぎることさえ一苦労だ。
そこに差し伸べられたのは、救いの手。
艶めく腕と、長く肉付きのよい指が持つ黄金の鐘。
鐘は澄んだ音を鳴らした。
りんりんと、なんとも可愛らしい高い音。
「救いを与えたい」
凛とした声に惹かれ、餓鬼は顔を上げる。
「教えを学ぶか?」
餓鬼は首をひねった。
教えを学ぶことが、なぜ救いなのか。
わからないのだ。さっぱり。
餓鬼は観音菩薩に背を向け、そして駆けだした。
「はあ……」
観音菩薩はため息をつく。
「救いを受け入れる者は、実に少ない。残念なことだなと、思ったりするのですけれども」
「しゃあねえですよ。さ、次に行きましょう」
四つん這いになり、猫とにらみ合っている餓鬼がいる。
観音菩薩は腕を差し伸べた。
百蓮華を優しく包み持つ黄金の指。
餓鬼はあっけにとられた表情で観音菩薩を見上げた。
「救いを与えよう。教えを聞くか?」
「……食べたい……肉を……食べたい……」
「救いを求めるのだ。そして教えを受けよ。さすれば、その欲は消えるであろう」
「……知らない……そんなもの……知らない……食べたい……猫の……肉を……!」
「そうか」
「しゃあねえですよ。次に行きましょう」
観音菩薩はその後、百匹もの餓鬼に救いの手を差し伸べた。
その手をとった餓鬼は、いなかった。
「大変なお仕事ですね。頭が下がります」
邪道は言いながら、観音菩薩に白湯を差し出す。
「こんなものでよろしければ、どうぞ」
観音菩薩は疲れた顔で茶碗を受け取った。
「時々、思ったりするのです。ただ、救いの手を差し伸べるだけ。その手をどうするかは、すべて相手にゆだねている。相手が拒絶したのならばそこで終わり。果たしてこれは、意味のある行為なのかと……」
邪道は深く頷く。
「力づくで、悟りを目指す道へと引っ張ってしまえばいいのではないか、その方が相手のためなのではないかと?」
「ええ。そのことを阿弥陀如来に相談したことがあります」
「そしたら?」
「彼は、ゆったりと座り両手で印を組んでいました」
「何も言わずに?」
「ええ。ですがきっと、我の言葉を聞いていたのでしょう。彼は我の言葉を、悟りの世界で受け止めていたのです。それがどれだけ崇高な行為であるか……ああ、我はまだまだ修行が足りない。阿弥陀如来を見るたびに、そう、思ったりするのですけれども」
「そうか。観音さまは師をおもちなのですね。とても尊敬している」
「ええ。尊敬よりももっと大きなもの。世界そのものであります」
――これが観音か……。
邪道が、低く呟くその声にびくっとなった、その時。
「観音さま! お待たせしました!」
向こうから走ってくる青鬼。両手で水桶を抱えている。遠くにある綺麗な川から、観音菩薩が手を洗うための水を汲んできたのだ。
「ありがたいありがたい」
観音菩薩は手を洗い始めた。たくさんある腕と指を、一つ一つ丁寧に。
目の前にひょっこりと餓鬼があらわれたのは、観音菩薩が二十九本目の手を洗っている時だった。
「観音さま。どうか救いを」
餓鬼は観音菩薩の足元でひれ伏す。
「どうか救いを。教えを学びます」
観音菩薩は目を見開いた。
「もしや……?」
洗っていた途中の手を餓鬼へと伸ばす。宝剣を強く握った守りの手。餓鬼の中に渦巻く欲を消滅させるための鋭い剣先。
餓鬼は観音菩薩の手を、両手で包むようにした。ありがたがるように掲げ、刃の表面を、指ですうっとなぞった。
救いを受け入れる者があらわれたことに感動したのか、観音菩薩は目をうるませた。
すると、餓鬼が一匹、こちらに近寄ってくる。観音菩薩の前まで来て、膝をついた。
「観音さま。どうか救いを」
「おお! あなたも!」
観音菩薩が差し伸べたのは宝鏡を持つ手だ。鏡は真実をうつす。餓鬼の奥底に眠っている、救いを求める心を。そして知恵を授けるのだ。
「観音さま。救いをください」
もう一匹、餓鬼がやってくる。
観音菩薩は日精魔尼(にっしょうまに)を持つ手を伸ばした。太陽のように輝くまん丸い宝玉は、あたりを明るく照らし出す。
「救いをください」
もう一匹。
金剛杵(こんごうしょ)は、柄の左右に鉤(かぎ)のような刃が三枚、内向きについた鋼の武器。魔をはねのけるための強剛さ。
「観音さま。わしにも救いを」
数珠。連なる玉は慈しみの心。観音菩薩はいくつも慈しみを抱え持つ。それらを餓鬼に与えるために。
あっという間に、観音菩薩の周りには餓鬼が集まった。
青鬼はその光景を信じられない、というような目で見ている。
――やれ。
低い声。邪道は息を止める。
その刹那。
餓鬼たちが、行動に出た。
次々に観音菩薩から宝物を奪い取ると、一匹が日精魔尼を高く掲げ、一匹が宝鏡でその光を反射させ観音菩薩の目に向ける。瞼を閉じていても、光に圧倒されて観音菩薩は後ずさる。一匹が数珠で観音菩薩の腕を一括りにし、一匹は金剛杵で顔を殴る。
倒れた観音菩薩の胸に、一匹がとどめの宝剣を突き刺した。
ことを成し遂げると、餓鬼たちは散らばり、姿を消した。
観音菩薩の胸からは光があふれ出す。ねっとりとした黄色い水のような光が、地面をじわじわと侵食してゆく。
力なく投げ出された数十の腕。こぶしから解き放たれてあたりに転がった宝物たち。
一瞬の出来事だった。
青鬼も邪道も、その場から身動きできずに見ていた。
「……か、観音さま……?」
青鬼は情けない声を出す。邪道はあっけにとられて棒立ちしている。
「なんだ? 何が起こった?」
異変に気がついたのか、緑鬼がやって来た。惨状に表情を凍りつかせ、ややあって、我に返り叫んだ。
「大変だ! 観音さまが……死んでいる!」
邪道はもぞもぞと脚を動かした。が、鎖が重い。足首は縛られ、手は柱に括り付けられていて自由にならない。皮膚でこすり痒い所を掻こうとしているのだが、うまくいかない。
もぞもぞとし続けること、数刻。
ぎいと、扉が開いた。
「閻魔大王がお呼びだ」
そう、言った背の小さな鬼は、邪道の鎖と縄を解いてゆく。
数日ぶりに自由を手に入れた邪道は、痒かった内腿を思い切り掻いた。
「すっきりした!」
「さっさと着いて来い」
鬼に続いて外に出た。でこぼこの石道を歩くこと、数刻。霧がかった中を進んだ奥に、さびれたお屋敷がある。中に入り、襖を開けると畳の部屋がある。そしてまた襖があり、それを開けると畳の部屋。そしてまた襖だ。襖を七枚ほど通り抜けただろうか。
大きな机と長椅子がある。閻魔大王はそこに座り、腕組みに険しい顔で何かを考え込んでいる。そのような近寄りがたい表情をしているのはいつものことだが、ここまで悩んでいるのは珍しい。たぶん。
彼は邪道を見るなり、さらに 眉間の皺を深める。
「……邪道よ」
何を訊かれるのかと邪道が興味津々でいると、閻魔大王はため息をつく。
「駄目だな。やはりおまえしかおらぬ。では聞くぞ。なぜ、観音菩薩を殺したのだ?」
邪道は我に返る。
「なんですって?」
思わず聞き返す。
「なぜ、観音菩薩を殺したのだ?」
邪道は瞬きをする。
「……僕は殺してはいない」
「よく言うな」
「僕は見ていたんだ。数匹の餓鬼が観音菩薩を殺すために、協力して行動するのを、この目で。目の前で、見ていた」
「餓鬼にそのようなことはできん。餓鬼だけではない。地獄道の囚徒どもも、人間道の人間たちも、修羅道の猛者たちも。閻魔王界で働く鬼どもだって仏を殺せるはずがない。六道の理は、そのようにはなっていない。だとしたら。それを成し遂げるのは、理から外れた存在であるはずだ」
「理から外れた存在は、僕しかいない?」
「いかにも」
「おかしな話だ。僕が観音菩薩を殺したとして、それで何があるだろう?」
「おまえはもしかしたら、この六道の世界の崩壊を目論んでいるのかもしれない」
「そこまで野心家ではないよ。僕はあなたの弟子になろうと思っただけなんだ」
「ほお?」
「あてもなく彷徨う時の中で、何か事が欲しいと願った。ただ、時の流れに身をゆだねていた。それはとても穏やかで美しい在り方だった。けれどどこかで我慢ができなくなった。あなたが輪廻の流れの外側に立ち、数ある存在を裁く姿はとても興味深かった。それだけなんだ。僕は邪心など何も、持ってはいないよ」
閻魔大王は息を吐く。
「観音菩薩の再生を釈迦如来に頼んだが、百年ほどかかるそうだ。その間、六道の衆生教化は阿弥陀如来が代わってくださる」
「へえ」
「……観音菩薩は類まれな菩薩だ。あの方はな、姿を変えるのだ。二つや三つではない」
それは邪道も知っている。
餓鬼道には千手観音の姿で現れた。多様な存在を救うため、たくさんの手と道具を持った姿で。
それは数ある姿の一つで、地獄道を救い訪れる際には真の姿でやってくる。その名を聖観音。簡素な袈裟を着て、手には蓮華だけを持っている。
修羅道には、頭頂部にぐるりと十一の顔をのせた十一面観音の姿で。
畜生道には、頭に馬を擁いた馬頭観音の姿で。忿怒の顔で朱印を組む姿は殺伐としており、千手観音の別の姿だとはとても思えない。
人間道で見せる姿は准胝観音。千手観音より少ないもののたくさんの腕を持ち、よく、人差し指と親指を合わせた説法の手をしている。
天道ではゆったりと腰をおろした如意輪観音の姿で。天道には守護神たちや悟りの道の途上にいる者がたくさんいる。やはり、仲間が多いと緊張も緩むのだろう。
「あのお方は知っているのだ。真の姿で救えるものは少ないのだと。救いに導く姿は、一つでは足りないのだと。その稀有な菩薩を、おまえは……」
「待ってくれ」
邪道は強く言う。
「本当に、僕ではない。わかった、こうしよう」
閻魔大王は笏を叩く。
「なんだと? こうしよう、などと言える立場か?」
「聞いてくれ。僕は観音菩薩を殺した犯人を探し出す。餓鬼に観音殺しが無理だというのなら、あの時、観音菩薩に襲い掛かった餓鬼たちは餓鬼ではなかったんだ。餓鬼ではない何者かが、餓鬼に化けて観音菩薩を殺した。もしくは、何者かが餓鬼を操った」
「餓鬼を操るだと? そんなことはできん」
「閻魔大王。六道の理から外れた存在が、僕のほかにもきっといる。そいつを探し出して、犯人が僕ではないと証明する」
「無駄なことだ。我は閻魔大王だぞ。六道における全ての存在を認識しておる。観音菩薩を殺せるのは、おまえしかいない」
「違う」
「もうよい。おまえはもう弟子ではない。この世界から追放する。もといた場所へと戻るがよい」
「待ってくれ!」
邪道は身を投げ出すように伏し、頭を地面にこすりつける。
「この通りだ。なんでもするから。あんたの弟子でいたい」
閻魔大王は口の端を持ち上げる。
「ほう? もといた場所に戻るのは嫌か? あてもなく彷徨うのは?」
「嫌だ。あんな何もないところには、もう」
「そこまで言うのならば」
閻魔大王は面白いものを見ているような目で笑う。
「じきに知るだろう。何もないことよりも耐え難い仕事が、ここにあるとな。そしておまえはきっと白状する。観音殺しのその、真意を」
【二】
審理記録。深緑の表紙をした分厚い書物だ。あまりにも 分厚く、箱のような見てくれになっている。紙をめくるとどれも真っ白で、記録を知りたい存在を目の前にすると突如、文字が浮かび上がってくる。
「にゃあ」
その猫は痩せている。毛はところどころ抜けて皮膚があらわになり、口元は出来物のせいで腫れあがっている。
「名は光雪(みつゆき)」
邪道は記録に浮かび上がってきた文字を口に出して読む。
人が死ぬと、七日目に泰広王と不動明王による審理を受ける。魂の記憶を見られ、どのような人間であったかのかを暴かれる。
「秦広王の言……幼少期の記憶があいまいで、親に言われるままに畑仕事を手伝うだけのぼけっとした子どもだったのだろう。僧になろうと出家を考えたこともあったが、決断することはなく、日々の大半を畑仕事に費やして過ごす。まさにうつけ者の人生である。一方、不動明王の言……光雪の人生の記憶はほとんどがぼんやりとしているが、一瞬だけ鮮明な記憶がある。齢三十で経験した飢饉で彼は死ぬのであるが、死の記憶さえもぼんやりとしているなか、この一瞬だけが記憶の輪郭を持つのである。それが、村の隠し貯蔵庫を見つけてしまい、中の干柿を一人でたくさん食べた挙句に全てを吐き出し、貯蔵庫に火をつけた、罪の記憶である。村の者が飢えている中、自分だけが食い物にたどり着き、一人占めを目論むも失敗し、貯蔵庫を逆恨みして火を放ったのだ。うつけ者にとって、罪を犯すのは大きな緊張を伴うだろう。そのために記憶がはっきりしており、つまり、こやつはただのうつけ者だったということだ」
死んで二十七日目には、初江王と釈迦如来による審理を受ける。この審理では、七日目審理よりもさらに、魂の記憶を細かく見てゆく。
「初江王の言……七日目審理ではただのうつけ者であるとのことであったが、そうではない。記憶が鮮明さを持つ瞬間というのが、隠し貯蔵庫の干柿を食べたほかにもある。それが、五つのころに皆で食べなさいと手渡されたきびだんごを、全て一人で食べた時の記憶だ。光雪は、一人で独占することに興奮を感じる罪深い人間であった。釈迦如来の言……罪深いとはいうものの、干柿を一人占めした時も、きびだんごを一人占めした時も、ひどく腹が空いていたのだということがわかる。きびだんごを手渡された前三日間、何も食べていなかった。干柿の時は飢饉であった。誰でも罪を犯すもの。空腹の末に罪を犯した、その心の弱さは、教えを受け入れることによって許されるべきであろう。……その後、釈迦如来が教えを説くも、光雪は始終、ぼけっとした様子であった」
三十七日目には、
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