第11話

 この世の全ての災厄を、誰かのせいに出来るなら、一体どれほど楽だろう。

富士山の噴火で家と家族と思い出を失くした。それは誰のせいでもなかった。五年前のことだ。

 天を恨み、地球に悪態をつき、大地を呪った。何も戻って来なかった。

 卒業旅行に行っていた。家族と家が火砕流に呑まれた時、酒瓶を片手に騒いでいた。

 富士山が火山なのを知らなかったの? 近くに住んでたのに? 危機感が足りなかったんじゃない?

 ただただ住んでただけだった。そこに家があったから。

 あなたはどこに住んでいるの? と尋ねると、彼女は二子玉川だと答えた。

 今すぐ多摩川氾濫しろと思った。

 そうしたら数か月後に台風が来て、豪快に氾濫した。

 けれど誰も死ななかった。

 私の家族は戻って来ない。多摩川の水位は台風が去った数日後に、すぐに平常時と同程度まで下がった。


「神原(かんばら)さん?」

 おじさんの声が耳に入ってきて、はっと顔をあげると、課長だ。

「起きてる? 業務時間だよ」

 課長は低い声で言う。慌てて体を起こし、

「起きてます起きてます」。

 パソコンのロックを解除。キーボードの上に指を置く。

「仕事中だからね。寝ないでね。仕事してるフリくらいできるでしょ」

 課長は優しい声音言う。

「あ、もちろん出来ます。一番得意なんで」

 張り切って言うと、彼は無表情で頷く。

「うん。今日も頑張って」

「はい、任せてください」

 パソコン画面を凝視する。見つめると読むは違うけど、傍から見ると同じはず。

 フリなら得意だ。それしか出来ない。

メールの文面を追ったって、脳みそは文字をスルーする。文字に意味なんてないからだ。

つまりはそういうこと。最近、文字が読めない。

 実は読めないだけじゃない。業務に関する会話、電話に出た時の相手の言葉、同僚の派遣社員たちの雑談、音は聞こえているけれど、内容がわからない。

 ぼうっとしていると、課長は理解できる言葉を使って話しかけてくれる。だから反応出来る。きっと意識してそういう言葉を使っているのだろう。ろくに働けない、雑用すらまともにこなせないクズのような派遣社員――私のことだ――と契約したこと、古参からは揶揄されているだろうに。

 この職場もそのうちクビになるだろう。

 流浪の民も板についてきた。

 仕事の出来ないジョブホッパーを、営業は流浪の民と呼ぶ。

馬鹿にしているのではない。そういう人間も必要だと言う。

次の現場に送り込むことさえ出来れば利益はあがるからだそうだ。多少、信用は傷つくが。

おかげで面接だけは得意になった。仕事やってるフリと面接。それが私に出来ることの全て。

 適当にブラウザを開いて、ニュースなんて読んでみる。

記事の二つくらいに目を通し、やっぱりよくわからないので、検索窓に適当に単語を打ち込む。

エクセル ピボットテーブル

ずらずらっと記事が出てくる。どれかをクリックすることはなく、ブラウザの最初のページに戻る。

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正直、どんなフォントでも気にしない。どうせ読めないから。

メイリョウじゃないメイリオだ、それからゴシックは止めろ、と言った先輩がいた。彼は行頭を揃えるのが苦手だった。

ブラウザの最初のページに戻る。

 ふと、目に飛び込んできたその文字列。

『その村で、私は救いを見つけた――田舎移住記第三回』

反射的にクリックをした。


『その村で、私は救いを見つけた――。

 そう語るのは、今年に東京からある田舎へと移住した田中さん(仮)だ。田舎の生活により、心の平穏を取り戻したという。

 ――三十歳を過ぎた頃でした。決まっていた結婚話が駄目になってしまい、さらに仕事でミスをして会社に損害を与えてしまったりして、精神的に落ち込んでいました。

 ある時、家のポストに旅行代理店からの案内が送られていました。私宛ではなく、知らない人の名前宛てに届いていました。おそらく、前に部屋に住んでいた人だと思います。

 興味本位で封を開け、中のカタログを読みました。

限界集落ツアーの参加者を募集するページで、ぐっと興味を引かれたんです。

 ヨーロッパ一周とかバルト三国ツアーとかアメリカ縦断ツアーとか、それくらいなら私もイメージが湧きます。けれど限界集落ツアーと聞いて、一体どのような旅になるのか、全くわからなかったんです。

 その募集ページには、ツアーの目的はヒーリングだと書いてありました。

 現代の社会生活というのは疲れやすく、回復するためには一度、日常を忘れ、失った生への活力を取り戻すことが必要とのことでした。

 これだ、と思い、すぐに参加申し込みをしました。

 行ったのは、最後の住人が最近、お亡くなりになったという村でした。

麓の駐車場でツアーのバスから降りて、山路を二十分ほど歩きました。印象的だったのは、鳥の鳴き声がすぐ近くで聞こえたことです。私の耳の鼓膜を凛とした高く美しい鳴き声が震わせたのです。それは生まれて初めての感覚でした。

まだ生活臭のある古民家が三軒くらい残っていますが、

 人が確かにそこに生きていた痕跡は残っているけれど、生活の気配はありませんでした。

 深呼吸をすると、胸いっぱいが柔らかくて清浄な空気で満たされて、廃神社へ行くと神様に会いました。彼は言いました。

 あなたは絶望の果てにここに来て、ついに救いを見つけた。

 言われた瞬間は、何のことかはわかりませんでしたが、村で過ごすうちにわかりました。

 星が瞬く静かな夜に、土の上に張ったテントで寝て、木の葉のこすれる音と風が通り過ぎていく音だけに耳を傾けて。獣の鳴き声なんて聞こえませんでした。

 暗い暗闇で過ごすうちに、私の心の声が聞こえたんです。

 私は深いトラウマを負っていました。子どもの頃の記憶、学生時代の記憶、新卒時代の記憶、不幸な記憶の全てが蘇り、私は泣いていました。

 私が今まで、耳を塞いでいた、私の声。

 救いとは、私が私の声を聞くことが出来た、そのことだったのです。

 私は自分を発見しました。

 ツアーから帰った私は会社を辞め、部屋を解約し、村へ戻りました。今度は、住人として。

 誰も住んでいなかった村だけれど、私一人ではありません。

 私と同じように、救いを見つけた人たちと一緒に暮らしています。

 毎日が発見で、毎日が救いです。

 村の名前はそう――神梨村。

 あなたはここで、人生を取り戻すことが出来ます』


 頬が濡れている。触ってみると、目元から流れ落ちたものだということはわかる。

 これはただの生理現象だろうか。ずっと眉間に皺を寄せて生活をしてきたから、目元の筋肉がふと力を緩めたのだろうか。それとも久々に文字が読めた喜びで涙腺が緩んだのだろうか。それとも。

 

 退勤時間だ。パソコンをシャットダウン。オフィスから出て、電話を掛ける。相手は派遣会社の営業だ。

「あ、お疲れ様です。神原です。あの……私、今日で仕事辞めます」

 今日で




 新幹線に乗って一時間半、長野で電車に乗り換えた。新幹線に乗るのは久しぶりだった。驚くほど揺れがなく、車内が静かなので新幹線では短く深い睡眠に落ちていた。宇宙船の中というのはとても静かだという。きっと新幹線みたいなものなのだろう。

長野駅で降りた時は意識が朦朧としており、ふらふらと改札を抜けた。駅から出ると、駅前タクシー乗り場の向こう側に上の端々が見える山々の、その神々しさに眩暈がして座り込んでしまった。まるで神様のようで、庶民の瞳に映してしまっては失礼なのではないかと思ったのだ。

人の好さそうな老夫婦が「お姉さん、大丈夫?」と声を掛けてくれた。声にならない声で「ここに行きたいんです」と、スマホに表示させた地図の神梨村を指さすと、「長野線でここまで行って、そこからはレンタカーかタクシーね」と教えてくれた。

老夫婦からもらったミネラルたっぷりの硬水で活力を取り戻したが、頭が使いものにならないのは相変わらずで、とりあえず目的地近くまで連れていってくれそうなタクシーへと迷わずに乗り込んだ。

「神梨村までお願いします」

「神梨村?」運転手さんは訝し気に言う。「どこだったか」

 私がスマホの地図を見せると、納得したような顔をする。

「なるほど、とりあえず高亀村の方から行けばいいかな。結構、しますよ」

「そこそこ現金もってます」

「なるほど」

 タクシーが動き出した。

「あなたも物好きですね、最近はどこも人口が減っていて」

 運転手さんがおもむろに話を始めた。

「最後の一人だったおばあさんやおじいさんが亡くなってしまって、廃村となってしまうところも多いんだよ。そこに若い人たちが来てくれるとやっぱり嬉しいよね。人がいなくなると、あとは忘れられて、草木に埋もれて地図からも消える。まだ生きている人間としては、もの悲しさを感じるのよ」

「すみません、私はただの観光というか、ヒーリングに来たというか」

「それでもいいさ。誰かが来てくれること、こんな村があったんだと知ってもらうこと。人がいるから村があるんだ。その逆はないからね」

「はい」

「お客さんがいないとタクシーも続けられないし」

「ですよね」

「お姉さんはどこから来たの?」

「東京です。……私の実家は山の麓にあった……あるんです。そのままそこで暮らしても良かったけど、なんとなく都会に出たんです。けど……時々、山や海が恋しくなります」

「山や海を恋しいと思わない人間はいないよ。人はみな、大地に支えられて生きているからね。それは都会も田舎も関係ない」

「はい……そうですね」

「人はみな、あるがままに生きるのがいいのさ。あるがままとは、大地に生かされていることを自覚するということなんだ。人はね、生まれ落ちた時にはもう自分の運命を決められて、そしてそれを受け入れて生まれるんだ。あなたがその村……どこだっけ」

「神梨村」

「そう、神梨村。そこに行こうとしているのは、既に運命で決まっていたことだし、だからそれをしなければならない」

 私はとても不思議な気持ちになった。

 オフィスの片隅で、今日もメールが読めないなどと思いながら適当にクリックをした記事。あの文章に出会った、読んだ、そのことも運命だというのだろうか。

「私はあまり、運命とか信じたことないです」

「あなたが信じるか信じないかは関係ないんだ。運命とはそういうものだ」

「私の人生で今まで起こったことが全て運命なのだとしたら、とても残酷だなと思います」

「でもあなたはそれを受け入れたんだ。だから生まれた」

「……へえ……」

 私はこの会話を続ける気になれなくて、それきり、窓の外を眺めた。

 どれも一軒家で、コンビニの駐車場はどこも二十台は置けそうなくらい広い。電線が向こうまで続いているのが見える。画面の上半分は青空で、遥か向こうに山が連なっている。

 ラーメン屋さん、パチンコ店、洋服店、どこもかしこも駐車場が広いのだ。

 市を出て橋を渡ると、山が込み合った風景に変化する。

 太陽が雲から顔を出して、緑がより一層、鮮やかに見える。ふと眠気が襲ってきた。

「運転手さん。私、寝ます」

「どうぞ」

 穏やかな眠気に身をゆだね、瞼を閉じた。

 目の前に道がある。白い道だ。遥か向こうまで続いている。終わりがないように見える。

 白い道はマジックアワーの色をした湖の上に浮いていて、空は紫色だ。

 優しい色に包まれて、白い道の上を歩き続ける。

 私は長いこと歩いた。無心で。

 けれど、景色は何も変わっていない。

 年に何度か、天気の良い日の偶然に、太陽が地平線へと消えていった後にやってくる、淡く優しいピンク色と紫色をした空。パステルカラーとも言ったりする。それは私の好きな色で、ずっとその色を見ていたい、いっそこの色の中で死にたいと思えるほどなのに、焦燥感が襲ってくる。

 道があるせいだ。白い道がずっと向こうまで続いていて、いくら歩けど終わらない。

 一体、いつまで歩けばいいのか。

 そもそも、この道に終わりはあるのか。

 ――ゴールがないんだ。

 好きな色に囲まれたところで、終わりがない道を歩かされるのは苦痛だ。

 この夢は悪夢だ。

 フロイトは夢をもとに精神分析をしたという。この夢は何を暗示しているのだろう。

 思わずため息が漏れる。

 ――私はいつから、ゴールを見つけられなくなっていたんだろう……。

 視界が滲む。

 ――違う、違うんだ。

 これから探しに行くのだ。

 長野まで来たのは、ゴールのようなものをもう一度、見つけることが出来るように。

 ――大丈夫。

きっと何かが、あるはずだ。期待してもいいはずだ。

 白い道は続く。ずっと、向こうまで、そして、その先――。

「お姉さん、この先は、車はちと厳しい」

「あ、はい」

 いつの間にか、タクシーはどこかの駐車場にいた。

「ここはどこですか?」

「美馬白(びましろ)駐車場。七星山への登山口です。ほら、公園の案内図がある」

 運転手さんが示した方には大きな案内図がある。

「神梨村は……」

「ほら、案内図の右上の方にあるでしょ」

 確かに、案内図の右上のところに小さく『神梨』の文字が見える。

「ここからは歩きってことですか?」

「だねえ」

「わかりました。ここで降ります」

「歩けるかい?」

「はい」

「例えば高亀村で一泊して、明日という手もある」

「ありがとうございます。いくらですか」

 スニーカーを履いてきたし、カバンの中には最低限の荷物が入っている。チョコレートも水も充電器もある。ウィンドブレーカーを何枚か持ってきた。カイロもあるし、絆創膏もある。方位磁針は忘れたが、時計はある。

結構な額を財布から取り出して運転手さんに渡した。

「お姉さん、気をつけなね」

やけに心配性だなと思い、私は笑った。

「私は山の子です。ブランクはあるけど」

「……人がいなくなっても、まだ存在しているものがある」

 不思議な人なんだなと思いながら自動で開いた車の扉から降りると、厳かな空気が鼻から肺へと流れ込んできた。森の精霊が吐き出したのであろう粒子がたくさん含まれている空気。都会暮らしで汚れた肺の細胞を隅々まで浄化していくようだ。

 タクシーは去って行った。

 案内図を見ると、神梨村へは最初、七星山の山道を行き、途中で神梨村方面へと進む。おそらく目印くらいはあるだろう。

太陽が午後二時を過ぎたあたりの場所にある。ぼやぼやしていると日没はあっという間だろう。

 入山届の箱のところに『お守りです。一人一つまで。無料です』とたくさん置かれた緑色の石のブレスレットを、中から一つだけ手に取って腕にはめ、山道へと足を踏み入れた。


 良く踏みしめられた地面は歩きやすい。滑りそうになっても、木の根が歩幅の間隔で張り巡らされているのでそこで引っ掛かる。急こう配も、木の根に片足を乗せて体重移動すれば楽に次の一歩を踏み出せる。

 登山なんて何年振りだろうかと感慨に耽りながら、どこかわくわくしていた。

 富士山は高さと人気ともに日本一で、シーズンになると登山客が多くてなかなか前に進まない。それは頂上付近に行くほど顕著だ。人混みの中で高山病を発症する恐怖ったらないのに、みな、何かを求めてやって来る。噴火する前の話だ。

 それに比べ、人のいない山を一人で自分のペースで進むのはどこか自由な気がした。

 二十分ほど登ると、肩がだいぶ軽くなった。今までどれだけ凝り固まっていたのだろうか。

 そのまま山道を進むこと一時間。空が暮れ始めていた。

 まだ神梨村への分岐点へも到達出来ていない。

 スマホで地図アプリを開いてみるが、電波が途切れ途切れで、これでは現在地情報もあてにならない。

 突如不安に襲われた。

 このまま辿り着かなかったらどうしよう。暗くなって遭難してしまったらどうしよう。夜の獣に襲われたらどうしよう。荷物は最低限だ。万が一は想定しているが、最悪は想定していない。もっときちんと案内図を見ておくべきだった。いやそもそも、長野駅で降りた時にもっと下調べをするべきだったのだ。神梨村までのルートを正確に把握してから動くべきだった。

 ブランクのせいだろう。慣れているはずの山の中で、焦りが出てきた。

 仕方なく歩みを進めていると、左矢印の表札があった。

『神梨村まで二キロ』

 安心からくる涙で視界が滲んだ。ほっと息をつきながら、左へ進んだ。

 道は良くない。石がごろごろと落ちており靴底を通して足裏に刺さる。木の枝が頭の高さまで伸びていて、前へ進むためには手で退けなければならない。小さな虫の集団があちらそこらにうじゃうじゃといる。視界は木の葉とぼうぼうに伸びた草のせいでよく見えない。足場も不安定だ。踏みしめた場所が深く沈み込んだりする。

 しばらく進むと広場のような場所に出た。

 藍色になりつつある空が頭上に広がっている。木のベンチが置いてある。そして、その先の道が何もない。全て樹木で塞がれている。

 ――行き止まり?

 ここが神梨村とでもいうのだろうか。けれど二キロも歩いていないはずだ。

 ――表札が間違っていた?

 時々、お粗末な表札や目印だといたずらで設置場所を替えられてしまうことはある。

 ――本当にこの先がないの?

 樹木で塞がれたその先がないか、近寄って見たが、どこも斜面になっていて道と呼べそうなものはない。

 いったん、戻ることにした。

 何度も転びそうになりながら走り、木に手をついたりして乗り越えた。表札のところまで戻り、カバンの中でチョコレートがぐちゃぐちゃになったのではないかと、どうでもいいことを考えながら息を整えた。

 表札を引っこ抜いて抱え、とりあえず七星山のルートをまっすぐに進むことにした。さっきの道が神梨村への道ではなかったとして、けれど表札は左を示しているのだから、この先どこかに左へ向かう道があるかもしれない。

 悠長に歩いている時間はなく、走った。

 前傾姿勢で急こう配を抜け、いくつか起伏を越えると、道が二股に分かれている地点へと辿り着いた。やはり、左へ向かう道は他にもあった。さっきが間違いだったのだから、今回は正しいに違いない。表札をそこに突き立てて、左へと進んだ。

 その道は、丸太が歩幅ごとに埋めてあり階段を進むみたいに歩ける。走りやすく、足が進んだ。

 そのうち、頬にあたる風がひんやりとしてきて、気温が下がり始めているのを感じた。

無我夢中で歩みを進めた。

そうこうしているうちに、ひらけた場所へ出た。藍色の空が広がっており、大きな月が出ている。普段の大きさがビー玉だとしたらおにぎり大に見える。

まるで広場のようだ。

 ベンチがあり、周囲は樹木で塞がれている。

 息が止まった。

 見覚えがあるのだ。勘違いかと思ったが、さっきと同じ場所だ。

 違う道を来たのに、同じ場所へ出た。行き止まり。

 頭が真っ白になった。

 思考が停止する。

 心臓がどくどくと言っている。汗が額から滴り落ち、足がすくんだ。

 どこからか夜の鳥の鳴き声が聞こえてきた。

 ――戻ろう。

 私は来た道を引き返した。

 表札を突き立てた場所――二股に道が分かれている地点まで戻り、空を仰ぐと大きな満月が笑っているように見えた。冷静に、冷静にと自分に言い聞かせ、いくつかの案を考えた。

 一に、駐車場まで戻りそこで一夜を過ごす。

二に、七星山の頂上を目指して進み、休めそうなところで腰を下ろす。

夜を外で過ごすことになるのは確実だ。だったら、今いる場所がどこか、それがわかってさえいれば安心だ。気温が下がる夜さえ乗り越えられれば、日が昇ればまた仕切り直せばいいだろう。

 体力には自信があるし、比較的暖かいこの季節だ。幸運なことに天気もよい。案内図を見て、七星山がルートのはっきりした低山であることはわかっている。懐中電灯を忘れたが、携帯のライトで代用できる。初めての山でナイトハイクや野宿はある程度リスクがあるのはわかっているが、この際は仕方がない。

 なぜだか、駐車場に戻る気はしなかった。

 このまま山道を行くことで神梨村に少しでも近づきたかった。

 ――進もう。

 また表札を引っこ抜いて抱え持ち、スマホのライトをつけ目の前を照らした。

 太陽はとっくに沈んでいる。大きな月があるからだろう。思ったよりも暗くはない。水を二百ミリリットルほど飲み、チョコレートを二個食べて栄養補給をした。

 それから一歩一歩、慎重に進んだ。

 無心で足を動かすうち、情景が頭に浮かんだ。

(お母さん、インターネットがしたい)

 シンクが錆びた年季の入った台所に立ち、切れの悪そうなぎざぎざの包丁で野菜を切っている彼女がこちらを振り返る。

(インターネット? 何それ?)

 今忙しいんだけど、と顔に書いてある。

(色々な情報が見れるんだよ。動画とかも見れる。ゲームも出来るし)

(テレビじゃダメなの?)

(あのね、動画でお金を稼げるんだって)

 え? と、まるで宇宙人を見るかのような表情。

(あんた何言ってるの? 金稼ぎだなんてそんな馬鹿なこと言って)

(遠くの人と知り合いになれるんだよ。色々教えてもらったり。学校に行くより勉強になるんだって)

(やめなさい、悪い人にいいようにされるよ)

(学校の先生より、インターネットの人たちの方が物知りなんだよ)

(ねえ、何を言っているの?)

(インターネットを使えば、子どもでもお金を稼げるんだって)

(もういい、黙りなさい。これ以上、変なこと言うなら今日のカツは一切れだけよ)

 夕飯はカツなのか、という喜びと、それが一つ失われることの悲しみ。心は揺さぶられたが、天秤にかけるほどではなかった。もっと大事なことがあった。

(ねえ聞いて。あかりちゃんはね、インターネットで出会った友達と今度、東京に遊びに行って動画を撮るんだって。カメラマンからお金を貰えるんだってさ)

(一体、何の話をしているの? 訳のわからないこと言うのやめなさい)

(お母さん、お金が欲しいよ)

(いい加減にしなさい!)

(お金が欲しい)

 彼女は包丁でまな板を叩いた。

(黙りなさい!)

 それは命令だったので、それ以上、何かを言うことは出来なかった。

 その時、耳元でカサカサ、サッと擦れるような音がする。木から木へと生き物が飛び移ったような音だ。

 あたりをぐるりとライトで照らすと、目の前にはいくつか道があり、今いる場所が分岐点だというのがわかった。

 表札があり、まっすぐに進むと七星山、右側に進むとなんとか高原方面、というのが読み取れる。なんとか、の部分は文字が掠れていて、ライトを近づけてもよく見えない。

 左へ進んだ時の案内が書いていない。

 ――進もう。

 手に抱えていた表札をそこに突き立てて、左へ進んだ。

 歩いていると前へと押されるような力が背中に加わってくるのを感じるので、下る道だというのがわかる。足元は土が固くて比較的、歩きやすい。

 十五分ほど歩いただろうか。

 左右を囲っていた木々がなくなり、頭上が開けた場所に出た。高校生の頃、隣町の公園にある丘の上は丸く広場のようになっていて、そこで夜空に向けてロケット花火を打ち放ったことがあった。まるで似ている。

 ベンチのような物もある。

 あれ? ベンチ? 

 その時、後方でカサ、と音がした。何かの生き物が、雑草の中を動いたような音に聞こえた。

 カサ、カサ、とまた音がする。

 生き物はゆっくり動いているようだ。

 足を止めて、生き物の気配を伺った。

 熊や猪の類だとしたら運が悪い。

 カサカサ、と音が続く。

 息をひそめてじっとする。

 相手は嗅覚が鋭い類だろうか。せめてこの身から滲み出る人間の匂いや気配さえ消すことが出来たら。

 一か八か、ライトも消した。

 月明りに照らされ、目の前に広がる広場の全貌が見えた。来た道の他はなく、ぐるりと樹木で囲まれて行き止まりだ。そしてベンチの形も。まただ。

 カサカサ、カサ、カサカサカサ。

 音は続く。

 カサ。

 音は動く。右から左へと。

 カサ。

 左からすぐそこに。

 カサカサカサ。

「っ!」

 口で手を抑え、悲鳴を噛み殺した。

 目の前に現れたのは、小さなうさぎだ。白く発光している。

 頭の中が疑問符で一杯になった。

 光るうさぎなんて存在するのだろうか。遺伝子変異とかで光るようになってしまった個体だろうか。そもそもこんな山にうさぎなんているのだろうか。野生のうさぎだろうか。もしかしたら、研究所の実験で光るように遺伝子操作された個体が逃げ出して来たのだろうか。それとも、山歩きに疲れた自分は幻覚を見ているのだろうか。

 うさぎはこちらに背を向けて駆け出した。白い光は遠くなってゆく。うさぎはふとこちらを振り返る。そしてまた、前へ向かってぴょんぴょんと駆けてゆく。

 まるでおいでと言うみたいに。

 うさぎの足跡は白く光り、行き止まりになっているその先へと続いている。

 そこに道があるみたいだ。

 

 

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