第10話
縁側の障子は閉め切っている。おかげで、昼だというのにその和室は薄暗い。
床の間には茶色い壺が置いてある。この家――大門家の、先代頭首は焼き物を嗜んでいた。趣味はもっぱら陶磁器だった。主に、花や動物が描かれた華やかなもの。物語の描かれたもの。表面が滑らかで、光沢のあるもの。そういうものを、好んでいた。
だからざらざらとした手触りの、この茶色い壺を持って帰って来た時は驚いた。
――まるで縄文土器のようだったもんだから……。こんなものにいくら出したのかと……。
心の中で想い、彼は苦笑する。
それくらいなのだ。先代頭首のことで、あの時は笑ったなと思い出せるのは。
『美とは学術的価値とは関係ない、いくら考古学的に価値があろうが、私が美しくないと思うのだから、美しくないのだ。研究機関が興味を示すものなんか反吐が出る』
先代頭首の口癖だった。だから一体、どんな心変わりだろうかと、不思議に思っていた。
後日、発覚した。
茶色い壺の中には、人間の足の指が入っていた。
気に入らない商売敵を殺し、記念に足の指を切り、趣味ではない壺に入れて床の間に置いたのだった。
先代頭首の罪が発覚してから、家業は全てが終焉へと向かった。
人殺しの美術商から品を買う顧客などいようはずがなかった。一緒に仕事をしていた画家たちもみな、離れていった。美術品への愛はあったから、誰か必要とする人間のもとへ渡ればよいと、在庫の品は全て同業者に売るなり譲るなりした。それにしたって、取引をしてくれる同業者はごくわずかだった。
――終わったのだ。
何千回、いや何万回も思ったことを、彼は反芻する。
――終わったのだ。
人を殺したのは自分ではない。だから、償いようがなかった。
会ってくれた人はみな、一様に言った。
『あなたが悪いわけじゃない。けれどもう、関りたくない』
先代頭首は三日前に、牢屋の中で死んだ。死に様を詳しく聞くことは出来なかった。
けれどきっと、周りに迷惑をかけた死であっただろう。想像に難くはない。
まるで疫病神のような人間であった。そして自分はただの被害者であった。
もう、家業が上向くことはないだろう。
――もう辛い。ただ苦しんでいるだけの、恥の塊のような人間になってしまった。
彼は畳の上に置いてある小刀を手に取り、鞘から抜いた。
最低限の善を行いたいと思うのなら、せめて蓮華境寺院の人間を呼んでおくべきだ。そうすれば、死んでも他人に迷惑をかけずに済むだろう。
父と全くの同じにはならずに済む。
けれど。
――不思議だな。
彼は喉の奥で笑った。
せめて、他人に迷惑をかけずに。
そんな気持ちが、これっぽっちも湧いてこない。
――すべてが、終わったのだ。
首にあてた小刀の柄に力を込め、そのままゆっくり、刃を肌の下へと沈みこませた。
端から端まで歩くうちに説法の一つは終わるのではないかと思えるほどの長い木造廊下を、一人の男が駆けてゆく。装いは鶯色の着物で、髪の毛が肩まである。僧侶ではないのだろう。
彼の名を、正憲(まさのり)という。
正憲は廊下の端まで行くと、そこにある襖をがばっと開けた。
「小梅一丁目の元美術商の屋敷で餓鬼が発生! 出動できるやつ、いるか?」
叫ぶように言うと、部屋にいた数人が正憲を振り返る。
「えー、今ちょうど、涼んでたところなのになぁ」
扇風機のすぐ前にどんと座り、風の恩恵を一人占めしている少年が気だるげに言った。齢は十五か六あたりだろうか。黒の着物を、胸元を広げ帯はゆるゆる。だらしくなく気崩している。
「緊急出動に駆り出されるのはいつもあたしらなんですね。知ってます? さっきまであたしたち、閻魔堂で夜勤をやっていたのです。へろへろなのに駆り出そうなんて、鬼畜ですか夜叉ですかそれとも馬鹿ですか?」
少女が言った。白衣に緋袴を着ていて、装いだけ見ればどこぞの神社の巫女さんだ。けれど畳の上に寝そべり、綿菓子を手づかみで食しながらもう片方の手で漫画を項をめくるその姿は、とてもじゃないが神に仕える巫女には見えない。
「そんなん言ったって、しゃあないだろ。行くしかない」
言ったのは、壁際で胡坐をしている短髪の少年だ。齢は十八、九あたりだろうか。黒い袴にもんぺを履いていて、下っ端僧侶のようにも見えるが、首には明るい緑色の襟巻をしている。おしゃれのつもりだろうか。
「早くしてくれ」
正憲が苛立って言うと、三人は各々の様相で立ち上がる。扇風機少年は片膝をついてからよっこらしょと立ち上がり、巫女はひょこっと飛び上がるように立ち上がり、襟巻少年はすっと立ち上がる。
「ああ、ちょっと!」
正憲は声を荒げた。
「幹太(かんた)! 扇風機はコンセントを抜いてから畳の上に置きっぱなしはみっともないから押入れの中にしまって! 椋香(りょうか)はお菓子をせめて箪笥の上に置いときな、畳の上だと汚れるだろうが。漫画は箪笥の中だ! この部屋で誰かが娯楽に耽っていたのがばれるとしつけ係が怒られるからな」
幹太は渋々といった様子で、電源からコンセントを抜き線を巻く。椋香も面倒臭いと書いてある表情で、綿菓子のを袋の封をし箪笥の上に置く。畳の上に散らばった漫画をかき集め、箪笥の中の奥の方に押し込むようにして入れた。
「李翔(りしょう)殿、こいつらの教育が思うように進んでいないようで? どうしたもんかな?」
正憲が言うと、襟巻少年――李翔は頭を掻く。
「いや、規則だの礼儀だのなんだのって、締め付けすぎるのも良くないかなって。息抜きは必要だろう?」
「娯楽に耽っていたことはまあ見逃すとしても、扇風機や食べかけのお菓子の一つや二つも片付けられないようじゃ、先が思いやられるな」
「しゃあない。夜勤の後で疲れているんだ」
「疲れていたとしても、このように緊急出動があるのがこの仕事。常に気張っている必要があるんだ」
「許してくれ。僕らはまだ若い」
「しつけ係殿、そのような甘いことばっかり言っていると、私は上にちくりたくなる。嘆願書と言ってな、いくら前途のある若者とはいえ生活態度の悪いクソガキどもを雇い対価を支払う余裕など我が寺院にはないのだと」
「おっとそれは止めてくれ。あとで袖の下を渡すから」
片付けを終えた幹太と椋香が、李翔の横に並び立つ。
ほんのわずかだが、先ほどまでとは違い表情が締まっている。
正憲は彼らを見つめ、それからため息混じりに言った。
「頼んだぞ、おまえら……」
小梅一丁目。
和菓子や漬物の老舗店が並ぶ、古風な町だ。民宿も何軒かあり、その中には最近、建てられたばかりのものもあるのだが、町の雰囲気を壊さぬように大正時代に存在していた民宿の外観を復元したそうだ。
「やけに静かだな」
幹太がぼそりと呟いた。
「まだみんな、起きていないのかもね」
椋香が言うと、李翔は首を横に振る。
「なわけあるか。餓鬼が出たってのに……。もう少し、発生源の屋敷の方に行ってみよう」
道路ぎりぎりまで露店を出している饅頭屋と、看板建築のお茶屋さんの間に、屋敷の門がある。表札には『大門』とある。
李翔は門の前で立ち止まり、左右をきょろきょろと見遣る。
「この屋敷が発生源のはずだ。で、通行人が道路で暴れている餓鬼を目撃し通報をした……餓鬼はどこに行ったんだ?」
「もうここいらにはいないんじゃね?」
「あたしら無駄足だったってこと?」
その時だった。
道路の向こう、数軒先の方から、人の叫び声がした。
餓鬼だ! 塀を越えられた! こっち来るぞ!
三人は駆け出した。
餓鬼はまさに骨と皮の風貌をしている。腹だけはぽっこりと膨らんでおり、中で人の子でも育っているのかと思うほどで、細い手足との差が異様さを際立たせている。肌は、干からびて死んだ魚のようにくすんでいて薄黒い。窪んだ眼の奥にある瞳は虚ろで、何を見ているのかわからない。
餓鬼が歩いた足跡は黒く焦げて、そこから小さな赤鬼が産まれる。ひょっこりと出現する、と言ったほうが正しいだろうか。犬が立ち上がったのと同じくらいの背丈をした赤鬼が這い出てくるのだ。
――ほう。
その餓鬼は、ただでさえ細い目をさらに細めた。
彼は餓鬼になって間もなかった。死んでから間もない、という意味だ。自分が歩いた跡から、小さな赤鬼が産まれたのを見て驚いたのだった。
「なんだ? おまえは?」
赤鬼に向かって、彼はそう尋ねたつもりだった。けれど餓鬼である自身の口から発せられるのは、しゅうしゅうといった空気の音だけ。
それでも、赤鬼には通じたらしい。
「冥の道より馳せ参じた次第」
赤鬼は高い声で言った。
餓鬼は笑う。
「ようわからんが、まあいい。それより腹が減った」
腹がぐうぐうと音を立てている。それに加え、この辺りにはうまそうな匂いがたくさん漂っている。上質な油の滲む肉の匂いだ。血には栄養がたっぷり詰まっているだろう。
餓鬼は匂いへ向かって突進した。足跡をつくるたびに生まれ出てくる赤鬼たちが自分の後をついて来る。それを煩わしく思った。赤鬼どもに食わせるくらいなら、自分が全てを喰らい尽くしたい。
己の歯に欲望の全てをゆだね、獲物の首元へと食らいついた。
獲物は苦渋の表情を浮かべる。
餓鬼は獲物の血を吸った。濃厚で芳醇な味がして、人間だった時の記憶が蘇った。幼いころ、父に連れられてとある高名な画家の屋敷へと行った。暖炉のあるリビングで、食卓の上にはチキンドッグとキャビアのスープ。ワインをごちそうされたのだ。あれは、人生で初めてのワインだった。
果汁の甘い香りに鼻をつくアルコール。
――もっとだ、もっと。
餓鬼は歯を獲物に食い込ませ、さらに強く吸った。
さらにもう一口吸った時だった。
「南無阿弥陀仏」
ひどく静かな声がした。
餓鬼は声の主を見た。少年だ。寺の下っぱ坊主のような恰好をして、首には緑色の布を巻いている。
餓鬼は痛みを感じて呻いた。まるで腹の奥に何かの塊を突っ込まれたような痛みだ。
きっと少年のせいだ。少年が呟いた呪文のような言葉のせい。
――許さない。
一体、誰だろうか。空腹を満たすのを邪魔する者は。怒りが湧いてくる。
喉で叫ぶと、体の全体が熱くなったのを感じた。視界が赤くなる。
「南無阿弥陀仏……餓鬼、おまえは醜い」
少年が言う。
「これほどまでに醜い存在になってしまうなんて」
――食事の邪魔をするな!
餓鬼は吠えた。
――腹が減ったのだ。
「罪を背負っているみたいだ」
餓鬼は目を見開いた。
――わたしに、一体なんの罪があると言うのだ!
餓鬼は発火し、炎に包まれた状態で少年に向かって突進した。炎が駆け抜ける。熱で道端の雑草が燃え上がる。
「椋香! そっちに行くぞ!」
「こっちは用意完璧です!」
「幹太は?」
「いつでも」
「よし、誘い込むぞ」
無我夢中で走っていた餓鬼はある地点で突然、動きを止めた。
――なんだ?
体が動かないのである。見れば、地面に円陣のようなものが描かれている。要所要所に翡翠の石が置かれていて、そこから反吐の出るくらい清涼が気が立ち込めている。
何かの術に絡み取られてしまったのだということだけは、わかった。
なんとかして逃れようともがいていると、胸に激烈な痛みが走った。目線を下げると、左胸に矢が刺さっている。
――おのれ……!
もっともっと喰いたいのに、ただそれだけなのに。
痛みは全身に広がって、餓鬼は自身が溶けだしているのを感じた。視界も、輪郭がぼやけだす。
遠くで音が聞こえた。
低い笛の音か、それとも洞窟を吹き抜ける風の音か。
餓鬼の脳裏に風景が浮かぶ。父親が壺を眺めている。じっと、愛しむ目で。
頭の中が真っ白になり、すると父の横顔が消えた。腹に溜まっていた感情が、口から抜けてゆく。足の指から膝、太ももから腰、腹と、下から上へ向かって灰になってゆく。
餓鬼は声にならない声で叫んだ。自身が消えゆくのを感じていた。
そして全てが灰になり炎が完全に消滅したころ、餓鬼はもう、無欲となり魂だけを宙に漂わせていた。そしてその魂もやがて、ここではないどこかへと消えて行った。
「ほれ!」
椋香は走り回る赤鬼に向かって網を投げた。
網はうまいこと命中し、赤鬼は網に絡み取られてつまずき地面の上でもがいた。
「疲れたぁ」
椋香は額から滴り落ちる汗を拭い、赤鬼を抱き上げる。
「おのれ! 貴様! 何をするのだ!」
喚きたてる赤鬼の口にお札を貼り、大きな袋の中に投げ込んだ。袋の中には、既に捕らえた赤鬼がもう六匹ほどもいる。
「椋香! 赤鬼が四匹あっちに逃げて行った! 俺はこっちに逃げた三匹を追うから!」
少し離れた場所で同じように赤鬼捕獲に邁進していた李翔は、椋香に指示をすると十字路の左へ走って行った。彼の姿はあっという間に見えなくなり、椋香はため息をつく。
「四匹も逃げて行ったの? しかもあっちってどっち……」
仕方がないので、あっちだと思われる方向へ向かって歩き出す。
その時、李翔とは別の声で「椋香」と呼ぶ声があり、誰かと思って振り返ると、寺院の先輩――正憲が、黒塗りの車の窓から顔を覗かせている。
その表情に浮かんでいるのは、怒りだ。
「おまえら何してんだよ! 聞いたぞ! 死人が出たんだってな!?」
「ああ……」
椋香は息を吐く。
餓鬼に首を噛まれて死んだ人がいる。椋香たちが餓鬼の姿を見つけた時にはもう、噛まれたあとだった。
「ご遺体はあそこに置いてあります」
椋香はすぐそこ、道路の上を指さした。餓鬼を封じ込めるのに使用した陣の上に、遺体を置いてある。寺院の水で血を洗い流し遺体の七か所に札を貼ったから、餓鬼化はまだ始まっていない。あとで寺院の人に遺体を引き取りに来てもらおうと思っていたところだ。
正憲が来たから、ちょうどいい。
「正憲さん、その遺体を持って行ってくれません? そのために来たんですよね?」
「馬鹿か!」
正憲は怒鳴る。
「李翔から連絡があったんだ。死人が出たうえ、赤鬼捕獲が終わっていないとな! おまえらを叱りに来たんだよ!」
「……叱ってる暇があったら、そのご遺体、持ってってください」
「だいたいおまえな!」
正憲は車から降りてくる。腕を組み、椋香の目の前で仁王立ちする。
「道路の上に置きっぱなしにするなんて何考えてるんだ!?」
椋香はひるまずに正憲を見上げる。
「暇がなかったんです。幹太は現場検証行くとかいってふらっとどっか行っちゃうし、李翔君は赤鬼を早く捕まえろってうるさいし、とりあえず陣の中に置いて札を貼っておけば持つから」
「そうじゃない! 餓鬼の被害に遭われた人だぞ! 悼む気持ちはあるのか? ご冥福を祈る気持ちは? そういう気持ちがあったなら、道路の上に置きっぱなしなんて出来ないはずだ!」
「あ、いや、近所の人に手伝ってもらって規制線を張ったから大丈夫です。一般の人が通行しないように」
「違う! 気持ちが足りないと言っているんだ!」
椋香はむっとする。
「そこまで言うなら、ご遺体をどうしておけば良かったんですか?」
「まずは人目につかないところに移動させてやるのが人情というものじゃないのか? 自分が無惨な姿になったまま晒されて、おまえならどう思う? 死して辱めを受けたとは感じないか?」
「人目につかないところって、例えば誰かの家の中、とかですか? 近所の人たちはご遺体を家の中には入れたくないみたいでしたよ。当然ですよね、素人からしたら、死体がいつ餓鬼化するかなんてわからないのだし」
「言い訳ばかりだな! もういい、わかった」
椋香は眉根を寄せる。
「……何がわかったんですか?」
「もういいから。早く赤鬼捕まえろ。ご遺体はこっちで何とかする」
「もちろん、それくらいはしてくれないと。ただ叱りに来ただけなんて、恰好がつかないし」
「うるさい、黙れ」
椋香は息を吐く。
「……うるさいのはどっち……?」
小さな声で呟き、赤鬼捕獲へと意識を切り替える。
正憲と言い合っていたせいで、赤鬼の姿を見失ってしまった。
椋香は懐から練り香水を取り出し鼻に塗った。寺院特製のものだ。これを塗ると、赤鬼や餓鬼の匂いといったものに敏感になる。
「あっちだな……」
匂いが強い方へ向かって、走った。
餓鬼処理の仕事に駆り出された時はたいてい、餓鬼を成仏させたあと、赤鬼を捕らえる仕事は李翔と椋香に回ってくる。幹太は報告書のための現場検証係だ。楽そうでいいなと、いつも思う。
現場の写真を撮って、報告書には、餓鬼発生理由を突発的な死とでも記しておけばよい。遺体は餓鬼となり成仏して残っていない。司法解剖という言葉が、昔はあったらしい。死体から死因を検証可能だったという。今はもう、そんな言葉は存在していない。
赤鬼を追いかけまわすのは疲れるから現場検証係になりたいと、李翔に訴えたことがある。結論、駄目だそうだ。おまえは嘘が苦手そうだから、と言われた。そんなことはないのに。
――なんで、人って死んだら餓鬼になるんだろ。
赤鬼を追いかけながら、椋香は考える。
昔はそうではなかったと祖母が言っていた。祖母だけではない。お年寄りはみな、人は死んだらそのまま朽ち果ててゆくだけだから、燃やすなり海に流すなりしたものだと。
それがいつからか、人は死ぬと餓鬼になる。
そんな時代が来てしまったと、嘆く。
――なんでだろ。
椋香はずっとそれを考えている。漫画を読んでいても、ご飯を食べていても、学校に行っても、寺院の人に説教されている時も、常に考えている。
赤鬼に網を投げると、当たり前のようにヒットした。暴れる赤鬼を抑え込み、札を貼って袋の中に入れる。札を貼るとき、赤鬼はたいてい口うるさく喚く。目の前にいるこいつもそうだ。
「おのれ貴様! 我は冥の道の忠実なしもべなるぞ。我をぞんざいに扱うなど貴様! のちのちいかなるかわかっておるのか!?」
椋香は「うるさいよ」と呟き、赤鬼のでこを指でぱちんと弾く。
「貴様!?」
痛みに驚いた顔をする赤鬼の、目と口と鼻をふさぐように、札を貼りつけた。
血が浸みこんだ畳を、指先で触れる。血はまだ乾いていない。
この和室にはまだ、人間の意志が宿っているように思えて、幹太は息を詰めた。
血の付いた小刀が転がっている。
――殺されたか、もしくは……。
幹太は部屋の中を見渡した。
綺麗な障子、埃を被り、動かされた形跡のない床の間の美術品、穴や染みの一つない襖。
だいたい犯人がいるのだとしたら、凶器を置いたままにする理由がない。さすがに凶器くらいは持ち帰るだろう。
――自殺か。
この部屋の空気は淀んでいる。そのような気がするのだ。かつて、病んだ人間の部屋をいくつも訪れた。似ている。
ただの先入観や、勘だと言って欲しくない。不思議なことに、病んだ人間が暮らす部屋というのはそのような空気になってしまうものなのだ。
幹太は息を吐く。
報告書には、自殺だとは書きたくない。面倒なことになるのだ。
餓鬼の発生原因が自殺だとなった時、報告書をもとに寺院は詳細な調査をかける。
周辺住民や仕事仲間、家族や、関りのある人々。
かつて「自殺」と書いた報告書をあげて、結果、関係のない人々に迷惑をかけたことがあった。李翔の言葉が脳裏をかすめる。
『おまえは正直に書いたんだろ? 自分が見た真実を書いたんだ。でも……おまえは面倒なこと嫌いか? だよな、俺も嫌いだ』
李翔はひどく疲れた顔をしてた。
『嘘と欺瞞は違う。……俺は、きっと味方をするよ。正憲さんたちとは違うから』
幹太は目を瞑った。ストーリーを作る必要がある。
そう……きっと、彼は病気だったのだ。症状が軽かったから病院に行かずに放置していた。そして内臓のどこかが破れるなり、腫瘤が破裂するなりして、大量吐血した。
その時には体の状態はもう手遅れで、そのまま亡くなった。
死因は病死、本人の自覚症状が薄かったことから、死を予測できず、寺院に移動する時間もなかった。
幹太は小刀を拾いあげ懐から取り出した風呂敷で巻くと、着物の下、中着の内側ポケットにしまった。もとから着物は気崩して着ている。腹の部分が少し膨らんでいるくらい、目立たないだろう。
「願籍斯善(がんしゃくしぜん)一切餓鬼(いっさいがき)罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)離苦得楽(りくとくらく)発心修行(ほっしんしゅぎょう)臨終見仏(りんじゅうけんぶつ)超生浄土(ちょうしょうじょうど)究竟成仏(くきょうじょうぶつ)」
小さな声で唱え、部屋を後にした。
蓮華境寺院。餓鬼の成仏業務を行う巨大寺院には、大きな講堂がいくつもある。
閻魔堂が一番、大きい。
小学校の体育館と同じくらいの面積と天井の高さがある。
中は薄暗く、灯篭のようなものを一定間隔で置いて、それで照らしている。
体育館でいうステージのようなものがあり、そこには見上げるほど巨大な閻魔大王像が鎮座している。朱い顔だ。手には長い木札を持っている。判官笏だ。
閻魔堂にはベッドが規則正しく配置されている。全部で三百床ほど。
ここには死を間近に控えた人々が病院から運び込まれてくる。ここで死ねば、餓鬼化してもすぐに成仏させてくれるから、例えば死後に餓鬼になって目の前にいる家族を喰うかもしれない心配などをしなくて良い。
死にそうになったら蓮華境寺院へ――。
李翔はため息をついた。
すぐ目の前。ベッドの上にはおばあさんが一人。虫の息ほどの呼吸で、脈が遅くなってきている。
この人はきっともうすぐだから気をつけてと言われ、ずっと身構えてはいるものの、おかげで疲れてきたところだ。寝落ちしそうになった瞬間、
「李翔、話がある」
肩をトンと叩かれた。
振り返ると、正憲だ。
「正憲さん。どうしたの?」
「どうしたのってか? とぼけているのか?」
正憲は苛立ったような表情を受かべる。
「おまえに話がある。来い」
「俺、今、仕事中、大変」
「いいから来い。その人の監視を誰かに任せて。……お、ちょうど椋香がいるな。おい椋香!」
すぐそこを通り掛かっただけの椋香は気づいていない振りで通り過ぎようとしていたが、正憲の眼圧を感じたのか、立ち止まる。
「はい。何でしょう?」
「李翔と話がある。このおばあさんはおまえが見てろ」
椋香は「えー」と舌を出す。
「あたしさっきまで地蔵花を作ってたんですよ。もうへとへとで」
「いいから言うこときけ」
「……美味しいものでも奢ってもらわないと割に合わないです」
「つべこべ言うな」
椋香は渋々といった様子で、ベッドの傍までやって来た。
正憲は李翔に目配せする。
二人は閻魔堂の外へと向かった。
「最近どうだ?」
人気のない、廊下の端っこまで来て、正憲は李翔に尋ねた。
訊かれた方は肩をすくめる。
「どうと言われましても。いつも通り、何も変わらず」
「あいつらのことだよ」
言って正憲は腕組みをする。
「おまえにあいつらの教育係を任せて半年が経ったな。どうだ? 手ごたえは?」
李翔は視線を落とす。
「頑張ってるよ、二人とも」
「ほう?」
「……仕事はしてる」
「すぐに愚痴るし、態度はふらふらしてるし、暇さえあれば漫画読んでるし、餓鬼化した人への敬意の欠片もないし」
「椋香は、まあ……」
「幹太もだ。扇風機を独占するし、着物の着方はなっていないし」
「その程度なら、まあ」
「覚悟が伝わってこないんだ」正憲はため息をつく。「あいつらがここで働き続けるイメージが湧いてこない。今のままではな。和尚も、やる気のないやつはクビにしろと言っている」
「……和尚は厳しい人だから」
「クビにしたくないんだ。せっかく雇った若手だから。……頼む」
李翔はしばし沈黙したのち、首を横に振る。
「正憲さんが教育をすればいい。俺には向いてない。二人とは年が近すぎてどちらかというと友達みたいだし」
「いくつだ?」
「俺が二十、椋香は十六、幹太が十七」
「十分だ。おまえが先生だ」
地獄花
同じく怒られる李翔。あいつらが仕事出来ないのが悪い
ぐちぐち文句を言っていると、餓鬼大量発生
阿弥陀如来と蓮華
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