第9話
「南林(みなみんばやし)くんさ、最近さぼってるでしょ、ねぇ、さぼってるでしょ、ねぇってば」
「……何がですか?」
「苦情が入ってるよー、全然報告がないって。南林君さ、大門役場(だいもんやくば)に行くのさぼってるでしょ」
「まさか」
「週に一度は顔出しておいてって言ったでしょー」
「行ってますって」
「じゃあなんで苦情が」
「知りませんよ」
南林は稲荷(いなり)の言葉を遮るように言った後、ノートパソコンを乱暴に閉じた。ため息をつきながら立ち上がり、「用事があるんで、失礼します」と、稲荷の方を見ずに言い捨てると、そのままオフィスから出て行った。
オフィスの入り口の扉はバタン、と盛大な音を立てて閉まった。
埃臭い和風オフィスに一人、取り残された稲荷は、はぁ、と息を吐く。
稲荷がこのオフィスを借りたのは五年前のこと。不況のあおりを受けて伽藍洞みたいになっていた築三十年の四階建てビルの、その一室。和風を掲げて簡単なリフォームを施した。
屏風で仕切られた和室を北側に作り、オフィスの真ん中には囲炉裏風食卓と、それを囲むように竹模様のソファを並べた。壁には稲荷の大叔母が着ていた振袖を飾り、天井には龍神の水墨画の壁紙を張り付けた。
神棚は伊勢神宮のある方角へ三つ並べて作った。仏壇もある。真ん中にプラスチック製の阿弥陀如来を置いている。最近、その左に石像の観音菩薩も加えた。
「はぁ……」
稲荷は再びため息をつく。
南林のことは可愛がってきたつもりだった。大切にしてきた後輩が反抗期とは、胸が痛むし腹も立つしやりきれない思いだ。
「……新しい人員でも募集しようかな……」
執着しないのが自分の良さだという自負がある。
――アルバイトさんを募集しています……仕事内容は……
稲荷は早速、人員募集の準備を始めたのだった。
「面倒なんだよなぁ」
南林は独り言ちながら電車に乗った。
電車は郊外の方へ向かって走り出す。
南林は吊革につかまり、電車の揺れに身を任せながらぼおっと車窓の外の風景を眺めた。
大輪町(だいりんちょう)。
町の中心部はすっきりとした碁盤の目状で、道を歩いていると遥か遠くの突き当りまで見通せる。高層ビルこそないものの駅の傍には百五十メートルのタワーがあり、周辺に十階建て程度のものなら乱立しており、町の中心部はそこそこの密度を誇っている。
そこから郊外へ出ると平坦な住宅地が広がる。
一軒家が多いのが特徴だ。広めの庭のお家も多い。大輪町では土地が有り余っているのだ。
電車に乗ってから一時間。
南林はまだ降りない。
電車はさらに僻地へと進む。
もう家なんてない。一面の畑だ。遥か遠くまで伸びている空、車内にいるのになぜか、土の匂いがする。春だからかなんなのか、空気は心地よいぬめり感を含んでいる。
やがて、電車は山間部へと突き進む。
視界は木々で遮られる。トンネルに入ると、もう太陽の光も入ってこない。
体感温度が下がる。
南林は目を瞑った。ここまで来たら、もう面倒などとは言っていられない。
トンネルを出てすぐ、蓮華境(れんげざかい)という停車駅。南林はそこで下車をした。
「水とか買っておくべきだったな」
トイレも自動販売機もない、改札すらなくICカード読み取り機だけがポツンと置いてあり、線路の傍にコンクリートのホームだけがある、蓮華境を下りたあとに南林はふと思った。
今までは冬だったから山歩きをしても汗なんて出なかったが、春になって温かくなった。道中、水が欲しくなるかもしれない。
「忘れてたな……」
脳内に砂漠で命尽きるラクダ乗りのイメージが浮かんだ。
「……あれは何のアニメだったか」
気合を入れて歩き始めた。
道なりを二十分ほど行くと龍堂神社という無人神社に辿りついた。
鳥居をくぐり、物置倉庫みたいな拝殿の横も通り過ぎて、山道へと足を踏み入れる。奥の院まで徒歩二十分と標識がある。この奥の院への道が、南林の目的地である冥道風穴への入り口でもある。
踏みしめられた歩きやすいその道を進み、奥の院まであと五分の標識があるところで、道なき道へ向かって右折をした。斜面を下る。雑草が生い茂りぬかるんだ中を進み、熊を警戒しながら歩くこと三十分。
洞窟の入り口へとたどり着いた。
穴の向こうは真っ暗だ。冷たい風が流れてくる。低い唸り声が聞こえる。
南林は三回、手を叩いた。
暗闇の中に金色の万華鏡が浮かび上がり、回転をし始める。蓮の花の甘い匂いが鼻をかすめた、次の瞬間、南林の姿は、もうそこにはなかった。
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