第8話


 雄一は深呼吸をした。

 駐車場は真っ暗だ。

 ゆっくりとハンドルを回し、恐る恐るアクセルを踏んだ。

 車は後ろにゆっくりと、曲がりながら下がってゆく。

 何かにぶつかった音はしなかった。

 駐車がうまくいったということだ。安心してエンジンを止めて後ろを振り返ると、圭斗と果林は寝ている。

「はい、起きる時間! 着いたからな!」

 二人の肩を揺すった。

 口をむにゃむにゃと、何かを呟きながら果林が目を開けた。

「あ? 着いたの?」

 ぽけっとした顔で聞いてくるので、思わずため息が出た。

「ほんとおまえらさぁ、人に運転任せて自分たちは眠り呆けて。運転手への気遣いが足りないや。果林、隣の男も起こしといて」

 言うと、果林は頷く。

「うん、わかったぁ……」そして眠り呆けている圭斗の肩を揺さぶる。「圭ちゃん、着いたってさ。雄くんがイライラしてるから早く起きて」

「イライラしてねえだろ。うっせぇな」

「ほら、雄くんの今の聞いた? 完全にキレてる人の言い方だったでしょう? あぁ、録音しておけばよかったね。そしたら面白かったのに」

「それはやめろ」

圭斗が瞼を開けた。

 ポカンとした表情をしている。

「……お? ここはどこ俺は誰? 世界を何回周ったところ?」

 面白くない。

雄一は圭斗の頭をはたいた。彼はわざとらしく「いったぁ」と頭を抱える。「暴力反対! いじめ撲滅!」

 雄一は思わずため息をもらす。

「圭ちゃん、駐車場着いたよ」

 圭斗は瞬く。「着いたの?」

「そ、着いたの」

「……まじで」


 助手席から降りる。車のライトが消えると、眼前には闇が広がっている。

 雄一はカバンの中を手で探り、持ってきた懐中電灯であたりを照らした。

 立札がある。

右矢印で、神山登山口まで二百メートル、と書いてある。

「これだな」

 果林と圭斗に、しっかりと付いて来るように言って、歩き出した。

懐中電灯で照らすと、山道がある。その道が遠くまで続いているかはわからないが、道があるのはわかる。見える道を頼りに進む。

暗闇に包まれて、視界は懐中電灯で照らせる範囲に限られる。

 足音がするから、後ろを二人がきちんとついて来ているのがわかる。

 木の葉の掠れる音。

 何かの動物が木から木へと移動する音。

 夜に鳴く動物の声。

 夜風はひんやりとして、肌を突いて来る。

 しっかりと踏み固められた山道は、それでも木の根のせいで少し歩きずらい。

「やっぱり暗いと怖いねぇ、圭ちゃん」

「そうか? 俺はわくわくしてきた。なに、大丈夫だよ。この登山道はよく学生とかが夜の練習とかに使ってるんだ。そのうち後ろから走り去っていくやつとかも現れるよ。それくらい安全な道だし、夜も人がいる」

「そう? でも圭ちゃん、今のところ、あたしたちしかいないみたいだよ」

「果林は不安症だな。そうだ、俺の腕を掴みなよ」

「いいの?」

「もちろん。俺の腕はな、おまえのためにあるんだ」

「え? そうだったの? そんなの言ってくれないとわからないよ、圭ちゃんったら。圭ちゃんの腕はあたしの腕だったのね」

「俺の足もおまえのものだ」

「え? 本当?」

「もちろん。だから、果林が疲れて歩けなくなったら俺がおぶるからね」

「ありがとぅ」

「だから安心しろ」

「うん。でもね、あたしは圭ちゃんが思ってるほど弱虫じゃないんだ。だよね、雄ちゃん?」

 いきなり名前を呼ばれ、ドキッとする。

「あ……あ?」

「雄ちゃん、人の話聞いてないねぇ」

「……ごめん」

 この暗闇の中で、人の声より風の音のほうが強い。

 木々の揺れ動く様子が見えないから、風がどこからどこへ吹いているのかが見えない。

 風が頬を叩いてくる。冷たくて、不意打ちのようだ。

 動物たちの発する物音が予想だにしない方向から不意に沸いてくるから、まるで突然何かに襲われたかのような、そんな気分になる。

 雄一は拳を握った。自分がやろうとしていることも、緊張に拍車をかける。

 山道の傾斜がきつくなってきた。一歩進むごとに息が切れる。

 呼吸が早くなり、心臓の鼓動の音がだんだんと大きくなってくる。

 後ろの二人も、呼吸が激しくなってきている。

「少し休むか?」

 雄一が後ろを振り返り尋ねると、果林は首を横に振る。

「あたしはへっちゃらだよ」

 圭斗はというと、膝に手を当て身を屈めてぜぇぜぇと息を切らしている。

「圭斗がちょっとあれだな。ここらで少し休むか。ちょうどほら、岩もあるし」

 腰をかけるのにぴったりな岩がある。

 圭斗と果林をそこへ座らせた。

 身を寄せ合って座っている二人を見ると、なんだか切ない気分になった。

 既に心を決めたが、迷いが消えたわけではないのだということを突き付けられる。

 良い思い出だって、浮かんでくる。

「おまえら覚えてるか? 三人で海釣りに行ったろ。三時間粘って、でも一匹も釣れなかったな。なんだか懐かしい」

 果林は「うへぇ?」と首を傾げる。「なんでこんな寒い時にそんな話するの? 今は海とかどうでもいいよ。ねぇ? 圭ちゃん?」

「あ、あぁうん、そうだな」

 やっと息が整ってきた様子の圭斗は、立ち上がり膝をパンパンと叩く。

「俺はもう大丈夫だ。なに、最近運動不足だったからな。もう少し歩けば調子が出てくるさ」

「そりゃあ良かったよ。……あのさ、海釣り行ったの覚えてるか?」

 圭斗はなんのこともないような顔で頷く。

「あぁ、あれね。全然釣れなくて、雄一がいちいち場所を変えながら釣ってたのを覚えてるよ。けど全然ダメだったよな、あの日。あんな日もあるんだなって。てか、思い出話なんてしてどうかしたか? 突然センチメンタルか?」

「いや、思い出したんだ。あの日、買ったの安い餌だったよな」

「確かに、いかにも安いぞって感じのミミズだった。細くて小さくて」

「もっといい餌を買ってれば、もう一匹くらい釣れたのかも」

 圭斗は笑う。

「気にすんなよそんなこと、もう昔の話だし」

「気にしてるわけじゃないけど」

「ねぇ、圭ちゃんと雄ちゃん」

 果林は二人を咎めるように言う。

「昔の話なんてやめよ。今日は綺麗な夜景を見るんでしょ?」

「そうだな。雄一、昔の話はやめようぜ。俺たちは常に前を向いて生きるポジティブフィーバー、フォー!」

 雄一は何度か瞬きをした。 

 存在するはずのないものを目にしているような、そんな気分になった。そんな感情は初めてで、息を殺して深呼吸をしてみる。

 もしかしたら、パニックになりつつあるのかもしれない。

「よし、それじゃあ、進むか。ちょっとペースを上げていくがいいか?」

 平常心を装い尋ねると、果林と圭斗は頷いた。頷くタイミングが全く一緒だった。

 やはり双子のようなカップルだ。

 ふたたび、山道を登り始める。一歩一歩、前へ。

 二十分ほど歩き服の中が汗ばんできたころ、土を固めた山道は木の階段に変わった。

 雄一は唾をのみ込んだ。

 ――いよいよだ。

 教えてもらった岩はもうすぐそこのはず。手順は全て、頭に入れてある。

 あと、必要なのは運だけだ。

 懐中電灯を左右に動かして周囲を照らす。

 右方、背丈ほどの大きな岩がある。しめ縄が張られている。

 左方、巨木がある。枝にロープの束が掛かっている。必要とあらば、このロープを使えという意味。

 遭難者のためのものではない。岩壁ルートから頂上を目指したいクライマーのためのものでもない。

 雄一は枝からロープを下ろした。それを見て、果林と圭斗は怪訝そうにしている。

「雄ちゃん、何してるの?」

「果林、圭斗、ちょっとここらで保険をかけておこう」

「保険?」圭斗は首を傾げる。「保険会社って二十四時間営業なの?」

「先週、ここらへんで熊の目撃情報があったらしい」

「まじで」果林が低い声で言う。「やばいね。それ」

「やばいだろ。だからここらで罠を仕掛けておこう」


 


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