第6話
夕日が差し込む静かな教室で、先生が言った。
教室には二人しかいない。先生と、アゲハと。机を挟み、向かいあって座る。
進路面談という名の聞き取り調査だ。アゲハはいつも、教師をまるで警察官のように感じる。
アゲハは視線を落とす。机には、誰かが書いた猫のキャラクターの落書きがそこにあった。
その落書きはずっと前からある。おそらく何年も前からだ。五年、十年、それ以上。
強力な油性ペンで書いたから、誰も消すことが出来なかったのだろう。落書きがあるからという理由で廃棄にするほど、学校の設備には余裕がない。
その猫は両目の大きさが異なっており、線もどこかカクカクとして不格好。心あらずで描いたのか、うまく力が入らず震える手で描いたのか、それとも。
「揚並? 聞いてるか?」
アゲハは顔を上げる。
「町から出るつもりはありません」
言うと、先生は「ほう」と息を吐く。
「町には大学もないし、楽しいものもないぞ。仕事は限られている」
「知ってます」
この町で生きるとしたら、働く場所は三つのうちどれかだ。
病んだ神々のお世話をする蓮華境寺院(れんげきょうじいん)か、鬼や邪神を隔離しておく六道会館(りくどうかいかん)。それか、蓮華境寺院と六道会館の業務で使用する道具を製造するための高天原工場(たかまがはらこうじょう)。
「私の母は、蓮華境寺院のスタッフでした」
担当した神様が怨霊化したのだ。その邪悪な霊気にあてられて命を落とした。
「私も蓮華境寺院で働こうと思います。それが私にとっての当たり前なので」
先生は何も言わず、じっとアゲハを見つめてくる。
――先生はこの町の人間じゃないから。
この教師は町の生まれではない。教員免許を取ったあと、田舎で暇な教師生活を送りたいからとこの町にやって来た。望みの生活が手に入り、さぞ穏やかな毎日だろう。
生徒だってみな大人しい。アゲハは校則を守らなかったことはたくさんあるけれど、教師に口答えしたことはない。すみません、しか言わない。我ながら、良い生徒だと思う。
「大学なんて行きません。楽しいものにも、興味ないです」
教師は何度か、瞬きをする。
「……そうか。わかった。頑張れよ」
しばらく経ってそれだけを言った。
アゲハの、高校生活最後の進路面談はこうして終わった。
アゲハには祖母がいた。五年前までは。
アゲハには祖父がいた。十年前までは。
アゲハには母がいた。二年前までは。
今は、父との二人暮らし。
広い屋敷にたった二人。
居間の欄間には扁額が掛かっている。太い筆で言葉が書かれている。
――光を失いし神が我が庭へと来訪し、社(やしろ)が欲しいと仰せになった
初代町長、揚並東四郎は神を受け入れ、社を与え、失った光を取り戻すための手助けをしたのだそうだ。今から二百年ほど前の話だ。
それ以来、星倉町には蓮華境寺院が誕生し、六道会館も生まれ、高天原工場が建った。
アゲハが5歳のころ、祖母はアゲハのために部屋を一つ、用意してくれた。屋敷二階の、日当たりの良い部屋だ。
それまでは祖母にぬいぐるみを買ってもらっても、母の衣装ダンスの上に置くしかなかった。自分の空間を手に入れたので、自分の城を作ることにした。
押入れには普通、布団を収納しておくものだけど、アゲハはそこに世界を作った。
母と一緒に都会で開催された英国雑貨店へ行ったことがある。電車を三本乗り継いだことを鮮明に覚えている。
そこで買ったチェック柄の布を、押入れの床に貼った。同じく英国雑貨店で買ったテディベアを二つ置いたら、彼らのために椅子とか机とか暖炉とか本棚とか、そういう物が必要だと思った。
星倉町にはホームセンターも百円ショップもないので、今度は母なしで、一人で都会まで行って、百円ショップやホームセンターで道具を揃えた。
木材を切って、やすりでツルツルにして色を塗った。テディベアサイズの椅子と机は、我ながら上出来だった。
押入れの天井から薔薇とすみれのドライフラワーを吊るし、太陽系を模したオーナメントなども垂らしたら、押入れの中が異空間になった。心が躍り、壁紙も貼ることにした。祖母に頼み、通信販売で夜になると光る星空柄の壁紙を取り寄せてもらった。それを押入れの壁に張った。
紙粘土でタルトやケーキを作り、テディベアに与えた。とても喜んでいるように見えた。
そういえばベッドがないことに気がつき、椅子と机を作った時に余った木材でベッドも作った。こうして、テディベアたちの部屋が整っていった。
テディベアたちと遊んでると、ふと思った。二人だと寂しいのではないか。
アゲハは毛糸を編んで、女の子の人形を作った。それを自分に見立て、テディベアたちと遊ばせた。そうして遊ばせている時に、思った。テディベアに名前をつけていない。
いつまでもお前、とかあんた、とかテディベア、とか呼ぶのは失礼だと思った。
そこで、両耳が揃っていないテディベアを「ラァ」とし、背中の縫い糸がほつれている方を「メン」とした。近所にあるラーメン屋の匂いが思い起こされ、唾液が垂れてしまって、なんだか完璧だなと思った。自分を模して編んだ女の子の人形にも名前をつけた。「マカロン」だ。ラァとメンの前では、アゲハはマカロンになった。
ちょうどラァとメンとの絆が深まってきたころ、母がタルトの作り方を教えてくれた。タルトの何が楽しいかといったら、やはり飾りつけだ。いちごを一番外側にぐるりと一周並べたあと、オレンジをその内側に一周、その内側にキウイ、そしてイチジク、ブルーベリー、真ん中はシャインマスカット。虹のようになる。
出来上がったタルトを四切れ、自分の部屋に持って行った。
ラァの分とメンの分、マカロンとアゲハの分で四切れ必要だ。
祖母が心配するように「甘いものを食べ過ぎたら病気になるのよ」と言った。そこで、アゲハは祖母に押入れを見せることにした。
祖母は階段を、一歩ごとに重心を加え、そこにある板が本当に自身の足を支えてくれることを確かめながら上っていた。祖母にとっては、問題は板だった。自分の足が弱っているなどとは思いもせず、時折、転びそうになるのは築年数がだいぶ経つから板が歪んできているのだろうと、そう考えた。
祖母が階段を上りきり、二階のアゲハの部屋に着いたころにはもう、アゲハは自分の一切れを食べ終わっていた。
ラァとメン、それからマカロンはなかなかタルトを食べようとしなかった。アゲハはわざわざフォークで口元まで運んでやるのだが、その先がどうも、難しいようだった。
「あらま、こんなものを作っていたの?」
祖母は興味深々といった表情で押入れを覗き込んだ。
「たくさんのおにんぎょさんたちがいるわね。ばぁばにも紹介して?」
ラァはとても恥ずかしがり屋で、メンから大好きだよと言われたら顔を赤くして俯いてしまうような子だけど、実はとても優しくて、マカロンが今日はベッドで寝たいと言ったら代わりに床で寝てくれる。
メンはとても社交的で、外に遊びに出かけるたびに新しい友達が5人は出来る。けれど今はラァのことが大好きで大事だから、あまり遊びに行かないでこの部屋にずっといる。ずっといて、ずっとラァと過ごしている。
マカロンはラァとメンの仲には入れない。ラァとメンの絆が強すぎるせいだ。けれど二人の傍にずっといて、一緒に笑ったりしている。
「にぎやかなのね」
祖母は穏やかに笑っていった。
「ところでアゲハ、マカロンはあなたの分身なのよね? ばぁばは? ばぁばの分身も編んでちょうだいよ。あたしもこの中に入りたいわ」
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