第4話

この世界には二つの領域がある。

 この世と呼ばれる、僕ら人間が生きている領域。人間界ともいう。

 そして、あの世と呼ばれる、死者や神様、魑魅魍魎たちが存在している領域。つまり常世だ。冥界や高天原、蓮華蔵世界や妖界がある。

 二つの領域はほとんど交わることがなかった。限られた能力者が扉を開くか、あろ条件下で運悪く通じてしまうか以外に、二つの領域が行き来可能な道が存在することはなかった。

 それが、二十年前のある日。

 当時の閻魔大王が、二つの領域を繋ぐ固定トンネルを掘ったのだった。

 三百五十代目閻魔大王。あの世の統治組織の一つである冥府を統べる、閻魔大王の三百五十代目は何を思ったのか、暗黙の禁忌をしてのけた。

 それからだ。この世とあの世は交わった。

 この世には魑魅魍魎が出没するようになった。




「幹太」

 紺色の着物で身を固めた、こけた頬をしたそのやせ型の男は音も立てずにソファに座り、幹太の名前を呼んだ。

 床の上で大の字になりうとうとしていた幹太は、瞼を開く。

 ソファに座っている男の姿を認め、まばたきをする。

「……お早いお帰りで。ボス」

 男――幹太の雇い主である室生寺大政(むろうじたいせい)はため息をつく。

「幹太。サボタージュかますやつに払う金はないと何度言ったらわかるんだ」

「仕事がないもんで」

「メールボックスは? 今日の分はチェックしたのか?」

「へいへい」

 幹太は机の前に座りパソコンを開く。新着メールが二十通ほどきている。

「あ、冥府からだ。今月の失踪届……新規が二件」

「内容を読み上げて」

「……親愛なる人間界の何でも屋こと室生寺殿。閻魔庁の人間界窓口担当、小野篁(おののたかむら)です。毎度お世話になります。今月、冥府まで届いた失踪届は二つです。一つは高天原から。スサノヲ様が家出をし、まだお帰りになっておりません。もし人間界におられるようでしたら大変です。スサノヲ様は大変、横暴なお方。人間界を破壊される恐れがありますため、早急に常世へとお戻りいただく必要があります。スサノヲ様を見つけましたら至急、人間界窓口までお知らせください。

 そしてもう一つ。東方青龍の族長からです。子どもたちが天界から姿を消し、どうやら常世には気配がないとのこと。人間界に迷い込んでしまったのかもしれません。美しく可愛らしい龍の子を見かけましたら、至急、人間界窓口までお知らせください。

 最後に、竜宮童子はまだ見つかっておりません。乙姫(おとひめ)様はたいそう、ご心配なさっておられます。お手すきでよいので捜索をしていただけましたら幸いです。では。……以上」

「次のメールは?」

 室生寺は間髪入れずに言った。息をつく暇も与えないつもりだ。

 幹太はわざとらしく深呼吸をしてから、次のメールを読みあげる。

「おはよう室生寺君。大本(おおもと)です。ところで、最近、私のところにやって来たお客さんが、異世界への扉を見つけたというようなことを言っていた。場所は清水神社の裏手にある巨大岩のところだそうだ。ちょうど、常世へのトンネルがある場所だね? 一般人に見えないように結界を張っていると言っていたのは清水神社の宮司だったか? 君、彼に言っておいてくれないかな? がっつり見えとるやん何やっとんね張り直せあほが! 自分で言えって? 嫌だよ。宮司に嫌われたくないからね。……以上」

「幹太、清水神社の宮司の電話番号はいつもの電話帳に載ってるよ」

「僕が言うの?」

「もちろん」

「がっつり見えとるやん何やっとんね張り直せあほが?」

「私は君に、言葉を選ぶ権利はくらはい与えているつもりだよ」

「了解、オブラートに包んで伝えます」

「次のメール」

 そこで幹太はため息をつく。

「喉が疲れた。あとでいい?」

「重要なメールだったらどうするんだ? 何度も言うが、サボタージュかますやつに払う金は持ち合わせがないよ」

 幹太はメールボックスをスクロールし、メールのタイトルだけを目で追ってゆく。

「重要なメールねぇ……」

 例えば、やばい妖怪が人間界へ渡ってしまったから急いで探してくれ、とか、まだ死んでいない人間が常世へ来たから急いで連れ戻せ、とか。

 あとは個人相談のメールだ。冥府閻魔庁や神社関係者からの依頼は無償のことも多い。けれど一般人からの個人相談はお金を取ってやっている。

 室生寺と幹太にとって、一番、重要である。

「あ、これ」

 幹太は見つけた。

「読むよ。……初めまして、超常現象相談屋様。田中エリカといいます。相談に乗ってください。実は私は、この世ならざる者を育てています。今ではすっかりなついて、本当の子どもみたいです。けどこのままじゃダメだって、心のどこかではわかっているみたいです。お願いします、助けて欲しいんです。相談屋さんなら、この子をなんとか出来るんじゃないかって、思ってます」

「個人相談か?」

「ピンポン」

「すぐに返信しろ」

「了解です」

 幹太はぎこちないタイピングで文章を書く。

『田中さん。

こんにちは。超常現象相談屋の嘉屋武です。あなたのメールを読みました。

もしかしたら力になれるかもしれませんし、なれないかもしれません。

料金は一律二万円です。

では、ご検討ください。以上です』

送信を押して、すると五分後に返信が来た。

「ボス、この田中さんって人がレスポンス爆速で、もう返事が来た」

「読みなさい」

「……来てください、今すぐにでも来て下さい。お金ならいくらでも払います」

「でかした幹太」

 室生寺はすっと立ち上がる。

「いくらでも払うと言っているんだ。果てしなく払わせよう。幹太、行くぞ」

 着物の袖の中で腕を組み、うっすらと笑みを浮かべた顔で歩き出す。

 幹太は田中エリカの住所をメモに控え、室生寺の後を追った。




 池袋駅を出ると、周りに並び立つビルはどれも中が薄暗く、『テナント募集中』の張り紙を掲げている。人の行き来が少なく、道路は数えられるほどの車しか通らない。

 室生寺は腕を袖の中に隠したまま、涼しい顔で横断歩道を歩く。途中、幹太を振り返る。

「知っているか? 昔、池袋はとても栄えていたんだよ」

幹太は頭の後ろで手を組んだ。

「へぇ? どのくらい?」

「池袋の陰陽師と呼ばれた人がいて、西武ビルの一階に店を出していたんだ。ビル入り口に大きな看板を出しているからすぐにわかると言われて行ってみたら、人混みがすごくて、看板なんて見えやしない。人の流れに乗ってなんとかビルの中に入り、案内所で店の場所を聞いた」

「何年前の話?」

「さあな」

「ボス、何歳だっけ?」

「幹太危ない」

 三人乗りのバイクが信号無視をして横断歩道に突っ込んで来た。幹太はスレスレのところで避けた。

 寂れた繁華街を通り抜けると、タワーマンションがある。

幹太は仰いだ。最上階は二十三階。十二階に、田中エリカの部屋がある。

 

エリカは自分の膝の上に乗っている子どもの頭を撫でた。

 その男の子は鼻水を垂らし、歯はボロボロで瞼はむくんでいる。頬が赤く、爪には泥が入っている。服は大人用のシャツをだぶっと着ているだけだ。そのシャツも、薄汚れている。

 腹が出ているのに、シャツからのぞく足と腕は細い。

 幹太は目を細めた。

 男の子の存在感が異質だ。重力を感じない。

「この子は三年前に拾いました。玄関前に座り込んでたんです。追い払おうとして、でも見つめてきて……」

 エリカは男の子の頭に顔をうずめる。

「卵かけごはんを出してあげたんです。そしたら無我夢中になって食べて……。なんて哀れな子だろうって思って、そのまま」

「育てることにしたのですね?」

 エリカは室生寺の言葉にうなずく。

「生きがいを与えられたのだと思った。ちょうど、何のために生きてるのだろうと悩んでいた時期でした。この子は神が私に与えた生きがいなのだと、そう思いました」

「どうでした? 彼を育てるのは?」

「不思議なことがたくさんありました」

 エリカは男の子の腕を撫でる。

「この子はいくら食べてもお腹が一杯にならないみたい。十人前食べても、まだ足りないって言うんです。そんなんだから最初のころはひたすら食べ物を与えていた。今は、一日に五食、一食はだいたい三人前くらい。それくらいでちょうど、この子が満足するので」

「食費が大変ですね」

「はい、最初のころは大変でした」

「最初のころは? 今はどうでしょうか?」

「この子を育てはじめて、四カ月経ったくらい。昇給したんです。不思議でした。私のポジションは昇給はないはずなんです。なのに、仕事ぶりに感激してるって言われて、昇給しました。その後、半年ごとに昇給するんです。私のポジションでは前例のないことでした」

「その子のおかげだと?」

「職場では、子どもを匿っている話はしていません。なのに昇給した。私は、この子のおかげだと思った。この子は私に何かを与える力を持っているのではないかって、そんな気がして」

「あなたのその感覚は、間違いではないです」

「そうなんですか? 他にも不思議なことがあったんです。この子があんまりたくさん食べるので、肥満になっちゃうと思って食事を制限した時期があったんです。すると上司から呼び出されて、最近ミスが多いから、昇給した分を減給しよう思うって、言われたんです。そのあと、この子の食事制限を止めました。好きなだけ食べさせてあげるようにした。そうしたら、また上司に呼び出されて、良く仕事をしているから、減給は取り消しで昇給してやるって言われて。でもおかしいんです……私、仕事でミスなんてしてないし、逆に大した成果も出してないんですよ。事務職なので、やることやってるだけなんです。毎日、同じように仕事をしてるのに減給するって言われたり昇給するって言われたり……」

「ええ、あなたの感じていることが正しいです。その子どものせいですよ」

 エリカは室生寺を見つめる。

「本当に? やっぱり、この子のおかげだったんですね」

「他に何かありませんでしたか? 不可解な出来事は?」

「あります。綺麗な服を与えても、すぐに汚すんです。あとは言葉が少し苦手みたい。あと……」

「あと?」

「夜に……ふらっと外に出て、誰もいない公園で、樹木に向かって何かを喋ってるんです。何をしゃべってるのかは聞き取れません。けど、普段は何も言わないのに……」

「なるほど」

 室生寺は深く頷く。

「それで、この子を手放す決心がつきましたか?」

 エリカは俯く。

「役所に、この子を連れて行ったことがあります。身元を探して、戻してあげようとしたんです。警察にも連絡をしました。……不思議なんです。役所の人も警察も、私がこの子のことを話して、しばらくすると忘れるんです。え? なんの話ですか? 子どもの話? あなたが話をしたって、何を? さっき? いつですか? 身に覚えがないから、もう一度事情を聞かせてもらえますか? こんな調子で。私は何度も、この子のこと、私が今まで育ててきたことを話して、なのに、すぐに忘れてしまう。学校に連れて行こうとしたこともあったんです。近くの小学校に問い合わせて、事情を伝えて。とても親身になって聞いてくれた先生がいたので、その先生に取り持ってもらって入学準備をしようとしていたんです。なのに、その先生は、私が何度話してもすぐにこの子のことを忘れてしまう」

「ええ、そうでしょうとも」

「思ったんです。この子はきっと、普通の存在じゃない」

「その通り。我々にお任せを」

 室生寺は袖の中から手を伸ばし、子どもの頬を撫でた。

「優しい人間と時を共にし、気が済んだことだろう。居るべきところへ戻るんだ」

 それまで焦点の合わない目で虚空を見つめていた子どもはふと、室生寺を見る。何度が瞬いた。あい分かった、の意だろうか。

「幹太、この子を」

「あ、はい」

 壁に背をつけぼうっと立っていた幹太は反射で返事をする。

「で、なんですか?」

 室生寺はため息をつく。

「……この子を連れていくんだよ」

「あ、了解です」

 幹太はエリカの膝の上に乗っている子どもの脇に腕を通して抱き上げた。あまりの軽さに、面食らう。

「ああ……」

 エリカは顔を手で押さえた。指の隙間から、光るものが伝う。

「うぅ」

 男の子も呻いた。

「幹太、早く連れて行って。私は料金を頂いてから出るから」

「あ、はい」

 言われるがまま、幹太は男の子を抱えた状態で部屋から出た。


 男の子は幹太の肩に顔をうずめ、呻いている。泣いているような声だ。

「ボス、この子って……」

「おそらく竜宮童子」

 言いながら、室生寺はエリカから受け取ったのであろうお札を一、二、三と数えて財布へとしまった。

「あ、閻魔庁からのメールに……」

 常世には竜宮という場所がある。そこには乙姫と龍神の一族がいて、竜宮童子は乙姫の眷属だ。その竜宮童子が、姿を消して見つかっていないとの情報が閻魔庁人間界窓口から来ていた。

「ボス、竜宮童子ってどういう妖怪なんですか?」

「妖怪というと少し違うな。ただの、竜宮に住まう者だ。人間界との関りで言えば、こんな伝説がある。

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