第2話:君のはじめてを、僕に捧げてくれないだろうか。


 「──ゴホンッ!それではこれより、本日デビュタントを迎える五人の紳士淑女の皆様に、『名呼びの儀』を行いたいと思います」


 静まることのない会場に、主催者側は半ば強引に進行のアナウンスを差し込んだ。


 しかし本来の目的であるパーティーを楽しむために遠路遥々やって来た周りの貴族たちも、エルティスがこの場にいることに驚きと歓喜の声を会場中に轟かせている。


 長い歴史の中でも廃ることなく行われてきた名呼びの儀とはいえ、これまで王家の中でも分家や末席の誰かが義務のように儀式を担うことが大半だった。


 それだけに、今、次期国王の座に一番近いエルティスがこの場にいるというのは、前代未聞なことだと誰もが思っている。


 「ほ、ほらリリアノ。前へ行かないと」


 「は、はい……っ」


 リーファスに背中を押されながら、リリアノは騒めく会場の前方へ向かった。


 ドレスの裾を踏んで転ばないようにと下ばかり気にするリリアノとは違って、今日同じくデビュタントを迎える四人の令息令嬢たちは、目の前にいるエルティスに釘付けになっている。


 人前に立つことを極端に苦手とするリリアノは、他とは違う意味で内心ドキドキさせていた。


 王都への滞在期間は約一ヶ月。


 その間にリリアノは自分が受け持っている商団の店舗視察や打ち合わせ、素材のサンプル採集など、ありとあらゆる仕事をこれでもかというほど詰め込んできている。


 普段は王都に来ることをなかなか許可されないリリアノにとって、この絶好の機会を逃すわけにはいかない。


 名呼びの儀さえ乗り越えられれば、あとは自分の仕事に集中できる。


 「(だから頑張れ、私)」


 リリアノは何度も心の中でそう言い続けて、どうにか緊張をほぐしながら前を向いた。


 「……!」


 また、彼に見られている。


 パーティー会場のステージへ上がった途端、エルティスの容赦ない視線がリリアノをひどく困惑させていく。


 「(どうしてこんなに見られているのかしら……っ)」


 ただ見つめられているだけではない。


 エルティスはとろりとした目つきで、その艶やかな薄いくちびるをキュッと上に向け、頬を染めながらリリアノだけをコバルトブルーのその瞳に映している。


 「それではまずはじめに、シャルナス領地を治めるシャルナス侯爵家のご令嬢にあらせられる──……」


 名呼びの儀がはじまるとすぐに、リリアノは失礼にあたらないよう出来る限り自然を装いながらその視線を逸らして、自分の名前が呼ばれるのを今か今かと待ち続けた。


 とはいえ、さすが『麗しの王太子』と言われるだけのことはある。


 近くで見れば見るほど、肌で感じる圧倒的なオーラは相当なものだった。


 これだけの“完璧”が揃っているお方なら、国中の女性が夢中になってしまうのも無理はないと、男を知らないリリアノでさえも納得せざるを得なかった。


 「(私とはまるで縁のないお方ね)」


 ユーモアリス大陸の中でも常に最上位に名を連ねる豊かな国、アスタリス王国。


 そんな国の未来を担うエルティスには、もはや国内でどんな権力を誇示している貴族と婚姻関係を結ぶよりも、国外の外交的な結婚をしたほうがよいと誰もが思っている。


 現にリリアノがつい最近読んだ新聞には、隣国の王女と密接な関係を持っていると報じられていたばかりだ。


 それに加えて、元より結婚願望のないリリアノにとって、いくらデビュタントを迎えらからとはいえ、今までと変わらず領地から出ることはほとんどないだろう。


 そう思うと、これまでの緊張がいくらか落ち着いてきたように思えた。


 「最後に、ハーヴィッド領地を治めるハーヴィッド伯爵家のご令嬢にあらせられる、リリアノ・ハーヴィッド嬢にございます」


 「……っ」


 リリアノの番がやってきた。


 ここへ来る道中、何度も頭の中で予習したとおりに浅く一礼し、一歩前へ出る。


 「耀かしきアスタリス王国の太陽、エルティス・ミューロライ・アスタリス王太子殿下にご挨拶を申し上げます」


 定型どおりの挨拶をして、ドレスを軽く摘み上げながら膝を曲げて身を低くしたあと、今度は深く頭を下げ、エルティスの呼び声がかかるまでその姿勢を崩してはならない。


 「──顔をあげて」


 すると、すかさずエルティスの声が耳に届いた。


 リリアノはゆっくりと姿勢を戻しながら目の前にいるエルティスを見上げると、その距離の近さに思わず背を逸らそうとした。


 しかし、それはエルティス腕を掴まれて阻止される。


 「……っ!」


 「ダメだよ、ブローチをつけるのだから。逃げないで」


 小さな声でそう言って、エルティスはニッコリと微笑んだあと、ゆっくりとリリアノの名を呼んでいく。


 「リリアノ・ハーヴィッド伯爵令嬢。貴殿をアスタリス王国の貴族として認め、これからもこの国の栄光と繁栄のために精進せよ──」


 そしてリリアノの胸元に、ブローチを持った彼の手がそっと伸びてくる。


 緊張のピークに達したリリアノは、キュッと目を瞑ってそのときが終わるのをひたすら待っていた。


 「……目を開けて、リリアノ」


 「ひゃっ!」


 突然耳元で聞こえたエルティスの少し掠れた声に、リリアノは思わず高く弾んだ声をあげてしまった。


 慌てて口元を押さえてはみるものの、それは聞こえなかったことにはならず、エルティスは愛おしそうにその姿を見て小さく笑ったあと、さらに言葉を続けた。


 「きれいだね、リリアノ」


 「!?」


 「“また”君に会えて嬉しいよ。今世でもよろしくね?」


 ──今世?


 その単語に引っかかるようにリリアノが首を傾げた途端、名呼びの儀の終わりを告げるオーケストラの華々しい演奏がはじまった。


 横に並ぶ令嬢たちはこの場から捌けるために一礼しているのを見て、リリアノも慌ててそれにならって頭を下げた。


 「──ではまたあとで、リリアノ」


 去り際にそう言って軽く手を振ってくるエルティスに、リリアノはどんな対応をしていいのかまるで分からなかった。


 ただただ困惑してしまい、下を向いて目を何度もパチクリさせるのが精一杯だった。


***


 「(一体なんだったの!?)」


 名呼びの儀が終わり、本格的なパーティーがはじまった。


 リリアノはすかさずリーファスの元へ早足で向かいながら、エルティスの数々の意味のわからない行動についてずっと考えていた。


 あの視線、あの言葉、あの行為。


 どれを取ってもまるで理解できない。


 「リリアノ、どうだった!?エルティス殿下はどうだった!?」


 「……とても、聡明なお方でした」


 「……」


 「な、なんですか?」


 「それだけかい?」


 リリアノの姿を見つけるや否や一番に駆け寄ってきてエルティスのことを聞いてきたリーファスに、目を細めてギロリと睨みつけた。


 とはいえ、あとはハーヴィッド家の商団と関わりのある貴族たちに挨拶を交わして過ごせば、リリアノがここ数日の間で最も憂鬱だったミッションはもれなく完遂する。


 ついでに一流と名のつくものが勢揃いしているこの王宮をじっくりと観察して、今後商団で扱う新商品の肥やしにしようと企んでいたリリアノに、やっと平常心が戻ってきた。


 「(このシャンデリアなんて、一体いくらの値がついていたのかしら)」


 高価な光の鉱石をふんだんに使用し、このパーティー会場を豪華に魅せるために一役も二役も買って出ているこのシャンデリアは、きっと王家お抱えの職人による特注品に違いない。


 これよりももっと簡素なものなら、中流階級の人々や一般市民の家にも取り入れることができるのではないだろうか。


 「問題はどこまで値を下げられるか……よね」


 リリアノの頭の中は、そんなアイデアばかりが黙々と広がっていく。


 今年十八歳を迎えるリリアノは、同年代の令嬢たちが持つ価値観とはまるで違っていた。


 同年代の彼女たちが流行りのコスメブティックやオペラ鑑賞を楽しみ、恋に花を咲かせているとき、リリアノは必死に父から引き継いだ商団の経営に明け暮れていたのだ。


 彼女のこれまでの人生は、決して平坦な道だけではなかった。


 六歳の時、リリアノの実の母親が病死してからというもの、その一年後には後妻と三人の連れ子がハーヴィッド家にやってきた。


 父は仕事で家を空けることも多かったため、リーファスやリリアノのことを思っての決断だったのだろうが、リリアノがそれで本当に幸せだったのかと聞かれれば、きっとすぐに首を縦には振らないだろう。


 そして三年前、父が謎の病に伏せてしまってからというもの、リリアノがすべての仕事を担うことになったのだ。


 継母となったマーリンには、リリアノより二つ年下の義妹であるミーシャと、三つ年下の双子の義弟、レブロンとアルウェイという子供がいた。


 義弟はともに魔術を専門に扱うアカデミーに通い、ミーシャは家庭教師をつけながらパーティーやお茶会に参加して、日々立派なレディとなるべく努力をしている。


 実兄であるリーファスも王都で宰相補佐官として家を空けているため、実質リリアノ一人が商団を回さなければならない状況だったのだ。


 それでもリリアノは文句一つ言わずに、これまで大きな失敗もせず、売り上げを落とすこともなく上手くやってきている。


 彼女自身もこの仕事を続けていくにつれて、だんだんと面白さを覚え、のめり込んでいっているのが唯一の救いでもあった。


 「金や真鍮はダメよね。そうなるとどんな素材が一番いいかしら」


 会場の隅のほうで、一人うーんと捻りながら頭を抱えていたとき。


 「──楽しんでいますか、リリアノ」


 「!?」


 後ろから突然聞こえてきた声に、リリアノのこれまでのアイデアやひらめきは一瞬のうちに消え去って、頭の中は真っ白になってしまった。


 ──またエルティスだ。


 リリアノは心の中で、決して口にはできないような不敬な言い方で、その声の持ち主の名前を挙げた。


 「あ、あの、えっと……っ」


 慌てて振り向くと、エルティスのきれいなコバルトブルーの瞳に自分が映っていることに気づき、またパッと目を逸らす。


 そんな彼女を見たエルティスは、ふっと空気を漏らすように微笑んだ。


 「このシャンデリア、素敵でしょう?」


 「え?」


 「一見高そうに見えるけれど、実際のところはそれほどでもないんですよ。一番値が張るのは光の鉱石だけで、素材や加工費はそこまでといったところなんです」


 「どうして、シャンデリアを……」


 リリアノがほんの少し前に考えていたシャンデリアに焦点を当てて会話を進めるエルティスに、驚きと疑問を隠せない。


 「このシャンデリアを中流階級や一般市民に向けて発売を検討するのでしたら、ぜひ僕にも協力させてください。これを造った職人を紹介して差し上げます」


 「なぁっ!?」


 ──なぜそれを!?


 礼儀もなにもかもを忘れて、大きく口をあんぐりと開けて露骨に驚くリリアノ。


 無理もない。どうして自分の考えがそっくりそのままエルティスに知られているのかまるで検討もつかなかったからだ。


 この場に来て商売のことを考えていたことが知られたこともまた、恥ずかしさを助長する一因である。


 「アッハハハ!」


 エルティスはそんなリリアノの素で驚く姿に大きな声を出して笑った。


 人前で滅多に笑うことのないエルティスのその姿に、会場にいた他の貴族たちはこぞって二人の様子に焦点を定めはじめる。


 「あ、あの、エルティス殿下……」


 目立つことが嫌いなリリアノは、途端に居心地が悪くなった。


 特に今回のパーティーに参加している令嬢たちの鋭い視線には、そう長くは耐えられそうにない。


 「どうして君の考えが分かるのか、気になりますか?」


 「え、えぇ、それはもう」


 「君の気を引きたいからだよ」


 「気を引く?」


 「もっというなら、デビュタントを迎えたあとの、君のファーストダンスを僕にくれないだろうか、というお誘いにいい返事をもらいたいから……かな」


 「あ、あのっ」


 「あぁ、知っているよ。ダンスのパートナーは実兄であるリーファスだったよね。彼の許可が必要だというなら……」


 「──も、もちろん許可など必要ありません、エルティス殿下!」


 リーファスが秒速でリリアノを裏切った。


 宰相補佐官として王宮で働いているリーファスにとって、王位継承権第一位の座を有するエルティスは神にも近い存在だった。


 いくら王宮に勤めているとはいえ、王家の人々に会う機会など滅多とないリーファスは、興奮を抑えられない様子で妹をグイグイと差し出した。


 「君のお兄さんもこう言っているのだけど、どうですか?僕と踊っていただけますか?」


 「し、しかし……っ」


 エルティスがリリアノに向けて手を差し出した瞬間、会場中が響めいた。


 “エルティス殿下が、女性にダンスを申し込んだですって!?”


 “一体どこの令嬢だというの!?”


 “まさか、エルティス殿下はすでに結婚相手を決めておられるのかしら!?”


 あちらこちらから飛び交う声に、リリアノは完全に萎縮してしまった。


 それに加えて、リリアノにはエルティスと踊れないもう一つの理由があった。それは義妹であるミーシャが、彼にベタ惚れしてしまっているからである。


 デビュタントに向けて王都へ向かう前にも、ミーシャは何度も『エルティス殿下にあたしを紹介してね!ね!』と念を押していた。


 それだけではなく、継母のマーリンからも『あの子は本気で殿下をお慕いしているのよ。協力してやってくれないかしら』と頭を下げられていたため、エルティスの手を取ることを躊躇ってしまう。


 「あの、エルティス殿下……」


 「──大馬鹿者!すぐに殿下とのダンスをお受けするんだリリアノ!」


 リーファスはリリアノの耳元で、最小限の囁きで最大限のボリュームを駆使しながらそう告げた。


 リリアノも目上の方から誘われるダンスを断ることはマナー違反だと分かっている。けれど継母マーリンにはいつも父の看病をしてもらっているという恩がある。


 それでも、こんなにも大勢の目がある中でエルティスからのダンスの誘いをお断りをするという選択肢はないに等しい。


 エルティスもそれが分かっているからなのか、終始にこやかなままリリアノがその手を掴んでくれるのをただ待っていた。


 「お、お受け、いたします」


 リリアノはそう言って、そっとエルティスの手のひらに自分の手を重ねた。


 エルティスは「ありがとう」と囁き、リーファスは安堵な表情を浮かべた。


 その瞬間、この機会を見計らっていたかのように新しい演奏が流れはじめる。


 周りの貴族たちもエルティスとリリアノに花を持たせるようその周りで優雅に舞い踊り、二人はその中心に誘われるように体を揺らしていく。


 「(どうか、どうか殿下の足を踏んだりしませんように!)」


 リリアノはダンスが苦手だ。


 滅多に踊る機会もなければ、こういったレッスンを受ける時間さえまともに取れなかったせいである。


 「大丈夫、僕に任せて」


 「は、恥ずかしい思いをさせてしまうかもしれません殿下……!」


 大きな生演奏の中で、二人だけの会話がはじまった。


 「アッハハ!大丈夫、そのときは共に転ぼう」


 「な、なにをおっしゃいますか!」


 「ほら、僕のほうを見てごらん?しっかりと手を握って、僕についてきて」


 「は、はい!」


 「もっともっと、君を感じさせて」


 「え?」


 「君の“はじめて”を一つ奪えたことが、嬉しくてたまらないんだよ」


 「あの、殿下お声が聞こえません!」


 「……ううん、なんでもないよ」


 右に揺れ、左に揺れ、エルティスは心からリリアノとのダンスを堪能している。


 そんな中、リリアノの頭にチラつくのはミーシャのことだった。


 一曲目のテンポの激しい軽やかな曲とは違って、今度はまったりとした曲が流れていく。


 会場の雰囲気もガラリと代わり、優雅なひとときが流れた。


 「ところで殿下。私の義妹のことなのですが……っ」


 「シーッ。今は君との時間を堪能させて?」


 「……っ」


 そう言われてしまうと、これ以上ミーシャのことを話題に出すことはできなくなった。


 そして、エルティスとリリアノのダンスは無事に終わりを迎える。


 「僕と踊ってくれてありがとう、リリアノ」


 「とんでもありません、殿下」


 「君のデビュタントの日に、はじめてのダンスの相手が僕で本当に嬉しいです。君の……“はじめて”を」


 そう言って、エルティスはリリアノの手の甲にそっと口付けをした。


 予想もしていなかった彼のそんな行為に、リリアノは思わずその手を引っ込めてしまった。


 「あ、いえこれは……っ」


 けれどエルティスは構うことなく再び逃げられたその手を掴みなおし、そして互いの指と指を強く絡め取っていく。


 「殿下、なにを……っ」


 なにをされているのか分からないリリアノは、困惑の表情でエルティスの顔を見上げた。


 すると目の前のこの男は、まるでこれから食らおうとしている獲物を狙う獣のような表情でリリアノを見ていた。


 その瞬間、リリアノはまた底知れぬ恐怖を覚えた。


 「──今回は絶対に逃さないよ、リリアノ」


 「殿下、痛いですっ。離してくださいっ」


 「君はまだ僕のことを知らないだろうけれど、僕は君のことを知っている。きっと今の君自身よりもずっと、リリアノに詳しいのは僕のほうだ」


 「殿下!?」


 「今世ではどんな君を見せてくれるのか、今からトキメキが止まらないよ。でもできることなら──……今回は僕のことを嫌わないでくれると嬉しいかな」


 エルティスの言っている言葉の意味が一言も理解できないリリアノは、ただただ目の前の男を見つめることしかできなかった。


 「君が王都に留まる一ヶ月の間、僕は君に全力で僕のことを知ってもらう予定だ。だから君は、少しでいいから……君の仕事の片手間で構わないから、僕を知る努力をしてはくれないだろうか」


 「あの、殿下はさきほどからなにを言って……」

 

 「ま、とはいえ君を一ヶ月後に易々と家に帰らせるつもりもないのだけどね?」


 この日、国中でもっとも美しく、もっとも危険な男、エルティス・ミューロライ・アスタリスに──……リリアノ・ハーヴィッドは呆気なく捕まってしまったのだ。


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