2.魔獣の歴史とセルのひらめき

 火を消すと、セルは馬力の魔法を使って大鍋を宙に持ち上げた。杖をゆっくりとドアの方に向ける。すると、宙に浮いている大鍋が、ゆっくりとドアの方に動き出した。

「あ、ドアを開けなきゃ!」

 セルは鍋をその場に留まらせて、急いでドアを開けた。その拍子に、腕が鍋にゴンッとぶつかり、ねっとりとしたスープがトプンッと大きく揺れて、玄関マットの上に零れた。

 セルは「もうっ」と口を尖らせた。


 外に出ると、五メートルを超える大きなクマ型魔獣が、リンゴ大のよだれをボタボタこぼしながら仁王立ちをしていた。

 ブルブル震える体を何とか動かし、自分と魔獣の真ん中あたりに鍋を置いた。そして魔獣と目を合わせずに、セルはサッと小屋の前まで戻った。

 ドアの前から、ジッと鍋を見る魔獣を見上げる。

 魔獣の黄色い目は鋭く、空腹によって爛々としていた。

 セルは両手を握りしめ、「食べて……」と呟いた。


 グゥワシャン!

 ゴウウンッ!


 セルの半身よりも大きな鍋は、まるで小石のように軽々と蹴り上げられ、ものすごい音を立てながら、地面に叩きつけられた。

「……もうっ、今日もダメってことじゃん!」

 セルは制服のワンピースの袖で、顔に飛び散ったスープと一緒に涙をぬぐった。




「――な、なんとか生き延びたー!」

 一時間に及ぶ戦闘を何とかやりすごしたセルは、ぐったりとベッドに倒れ込んだ。

 今日の魔獣は、これまでの中でも特に空腹で気が立っていた。そのいらだちがこもった攻撃の衝撃はすさまじいもので、今日の一発はいつもの百発分に感じられた。

「……攻撃の魔法を使えば、早くいなくなってくれるのかもしれないけど。やっぱり、気が向かないなあ」

 セルは、できるだけ攻撃の魔法を使いたくなかった。

 自分の命ももちろん惜しい。しかしその思い以上に、試験に付き合わされているだけの魔獣を、無意味に傷つけたくなかった。

 そのため、魔獣の体力と魔力の消耗を待つ間、まだ拙い守護の魔法で身を守っていた。

 おかげで体のあちこちに傷ができ、思わぬところがズキズキと痛んだ。

「はあーあ! そもそもどうして食べてくれないんだろう! せっかく作ったのに一口も食べてもらえないのは悔しいよ!」

 セルは両手を握りしめて、固いベッドマットをバンッと叩いた。

「それに体中が痛いのもつらいし!」

 もう一度バンッとベッドマットを叩く。

「食事はおいしくないし!」

 さらにもう一度、もっと強くベッドマットを叩く。

「……何より、一人はさみしい!」

 そう口にすると、セルの目からポロッと涙がこぼれてきた。


 泣いても仕方がない。

 どんなに泣き喚いたって、この試験は終わらない。

 助けは来ない。

 魔法使いの世界はそういうものだから。

 それを理解していても、セルは涙が止められなかった。




 やがて、夜を司る魔獣たちの鳴き声があちこちから聞こえて来ると、セルはようやく起き上がった。

 きっと明日は、目が真っ赤にはれているだろう。

 いつの間にかテーブルの上に現れていた食事を、魔法で温め直して食べ始める。

 想像通り、今日もちっともおいしくない。セルは大きなため息をついた。

 テーブルの足元に、二冊目の本である魔獣について書かれている青色の表紙の本が落ちている。

 セルは鼻をすすりながら本を拾い上げ、読み始めた。


――魔獣は魔法使いよりも遙かに長い歴史を持つ。自然とともに生き、時に自然に身を任せて生死を受け入れてきた魔獣は、魔法使いの文明とはかけ離れた存在である。そのため、魔法使いの生み出した文明を忌み嫌う習性がある。現在も魔獣の多くは自然の中で暮らし、文明に触れない生活を送っている。――


「それじゃあこの小屋ですら、魔獣たちには嫌がられてるのかもしれないってことだよね。住処を荒らされてるんじゃ、無理もないか……」

 セルは突然、ハッとして顔を上げた。


 味気のない木造りの壁。

 木を斧で切って作った不格好なベッドやテーブル。

 レンガを積んで作った巨大な竈。

 曇ったガラスのはまった窓。

 ほつれだらけで薄汚れた麻のカーテン。

 そして銅でできた鍋。


「そうだ! 料理が悪いんじゃないんだ! 調理の仕方がいけなかったんだ! そうだよね?」

 セルは本に向かって叫んだ。

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