Episode.10...Wipe your tear bag, change your eye line, so you will be fuzzy.

 僕の部屋で初めての朝になる。

 朝は、深く、深く微睡の海に沈んで、僕らは一緒に風景に溶け込むように寝てしまった。

 白い光が僕らの下に刀のように差し込んでくる。それは、パキラの葉の艶やかで華やかな様子を映し出すのにうってつけだった。うとうとしていたから、僕らは、初めて一緒に寝た。あくまで睡眠をとっただけだ。勘違いしないでほしい。

 そういったような恋愛の延長線の出来事は、多分、僕らの下に訪れるのは当分先だろうと思えた。ゴミ箱には、ミント味の飴の袋がそこにあった。

 「起きないと、置いてくぞ」

 亜子は立って腕組みをしている。

 「僕が起きたら、君はすぐどっかにいっちゃうじゃないか。もう少しそばにいてくれ」そういって、亜子を抱きしめる。

 「ちょっとどいて」亜子は押しのけた。「おいで、私の唯一愛しているユーリちゃん」そういって、猫を抱きしめる。

 「おいおい、僕よりも優先順位が高いのは何よりだけど、大学に向かう前に何か忘れてないかい?僕のブレックファーストとか食べるのを忘れているだろう?」そういって、白い毛並みのつやつやした猫と亜子を両方見つめると、亜子がにゃー、と鳴いた。おいおい。

 「だって、蔵人起きるの遅いから、さっさといこっかと思って」

 「昨日の残りのパンとかでいいかな?米粉パンが残っているから」

 そういって、冷蔵庫から出したパンをオーブンに入れる。温めている間、熱のこもった目で見つめるユーリ。すると、亜子のおなかが鳴った。

 「蔵人、クラムチャウダーも作って」

 「はいよ」そういって、鍋にお湯を注ぐ。加工されたものしか即席では作れないのが残念だったけれど、お腹がすいたと警告を発している最中に長い時間をかけるのはご法度だ。

 「ラジオじゃ、最近だと女性の殺人事件が発生したんだって。怖いね」

 「君は美しいから気を付けた方が良いんじゃないか」蔵人は真剣な顔で亜子を見つめる。

 亜子はやだぁ、と手を振る。

 「勘弁して、ユーリには劣るわよ、あたしなんて。誰も見ないと思うよ。神様ってね、知ってる?創造物である人間にはあまり優しくしない代わりに、動物には進化するという特権を与えたの」

 「君は時々意味深なことを言うんだね。でも、君は多分そこらへんの宝石よりかは、失ってはいけない存在だ」そういって頬にキスをした。

 亜子はううん、と息を潜める。

 「でもね。宝石だって、真珠みたいに海に沈んで貝になりたい、と思うことだってあるわ」

 「どういう意味?」

 「分からないならいいわ。あたし―――、知ってるの。その犯罪者、あたしの元カレだから」

 「何だって!?」僕はお湯をかけていた火を止める。その手が震えていることに気づいたのは、後になってからだった。「君の元カレって、いったい何をしているんだ。信じられない」

 「信じられないことだって一杯あるんだよ、世の中ってね。今でも時々LINEしているから、知っているんだ。まだあたしの影を追っかけていることも」

 そういって、時が止まった。全ての場が、生活が、平穏が、崩れてしまいそうになる平衡を抑えようともがく。しかし、その力はあまりにも脆く、崩れ落ちそうになる思いを抑え、僕は僕らしさを取り戻すには呪文が必要になりそうだ。僕はいつ魔法使いになってしまったのだろう、と自戒しながら、そんな心持ちで向かった先は亜子のケータイだった。

 「ちょっとそれ貸してみろ」そういって、僕は手に持ったそれを見てみる。コメントを見て、僕は吐き気がした。

 ―――血祭になった、女たちの死骸が飾られていた。死者の顔たちは面影を残したまま、白い顔でこちらを見上げている。そのどれもが亜子の顔にそっくりだった。

 「こんなものをみてはいけない。君はもっと違う道を歩むべきだ」

 「でも……あたしを求めているんだよ?ずっと可愛い弟みたいに大事にしてきたの。こんなのって言わないで」

 「……違うだろ!」そういってドアを強く締めた。

 「違うわけないじゃん」

 「違うんだよ……君は、君の残り香を味わいたいわけではないんだろ?もう君は死体になりたいのか?もう一度よく考えてみろ、君が彼のところにいったら、死体がもう一体増えるだけだ」

 「そうじゃないのよ……そんな言い方しないで!」亜子は髪を振り乱した。「彼、あたしと付き合っている間、人殺しなんてしなかったんだよ!」

 「それは言い訳にはならない……、多分、彼に何か心境の変化があったのは確かだろう。何があったんだい、君と彼が別れることっていったい何が」

 「借金と酒、暴力だったわね。もう耐えられないと思えたから」

 それが、負の連鎖か。たまったものじゃないな。そして、鬱憤を晴らす標的を見失ったから。それは、片割れを失うくらい空虚だったんだろう。しかし、それを言い訳に殺していいわけではない。

 「耐える必要はない。君はもっと違う世界に目を向けるべきだ。例えば……、僕だ」そういって、僕は両肩を掴んで、亜子の正面を見つめる。亜子はびくっと怯えたが、やがて、過去の事情が頭から浮かんできたのか、ゆっくりと落ち着いて頷いた。

 「僕は、こんな頼りないぼくだけれど、君のために朝早く起きたり、誠心誠意付き添って安全で楽しい場所をなるべく探して見せよう。努力するよ。君のナイトになれるかは、あまり自信はないけどね」そういって舌を出して笑った。

 亜子は微笑んで、髪をなでる。

 ほのかに香る制汗剤の匂い。

 亜子の香水の香りと混ざって、お互い見つめあう。

 視線によって、体温が上がったことを知られたらどうしよう、だなんて亜子はふと一人考えて微笑む。それだけ余裕ができたんだろう。この平和な世界に、影があるのだとすれば、まず考えられることは元カレがあたしを殺すかもしれない。と指摘されたことだ。それは考えにくい、と何故か信じていた。それも裏切られたら、なんて考えてみたこともなかった。

 「多分、あたしは……、蔵人の言う通り違う道があるかもしれないって思えてきたけど、彼は。あたしの一部だから。でも忘れる。安心して」亜子は笑った。

 僕は不穏な表情で、その場を迎えた。


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