Episode.7...goodbye myself and come again for love.

 昨日。

 深い闇の水底に浮かんだ無数の透明な泡が、溢れ出す。そう、それは、僕の夢の中に浮かんでいた。水晶で閉じ込められた世界は、無数のプリズムが形成されている。光は様々な極彩色が差し込み僕を幻想の檻に収容してしまうような感覚。

 僕は、そんな夢を見た―――心の向こう側の自分に囁かれたとかそういうのではなく、ただ、まっすぐに前を向いて道に進もうとかそんな真面目くさった風潮ではなく、亜紀に会いたくなったというだけの話。

 ―――そんな鮮やかな色を放つ檻の中で、彼女を閉じ込めてしまいたくなったというだけの話。

「なあに?どうかしたの?クスッ―――蔵人って分かりやすい。悩んでいるんだよね?」

「僕は、どうしたらいいのか分からなくってさ」

「―――何が?私達との関係とか?」冗談交じりに気さくに声を掛けてくれるその笑顔には裏表のない屈託さが自慢と言いたげの表情で。

 夏は、白かった。

 淡い日々が愛しい。

 君と僕の関係とか。

 向き合ったときに見せる表情は、止まったように。

 僕の想いが、僕の思考が、君をかき乱したいという気持ちを抑えてしまうくらい何かが僕を抑えつける。

 そして……、君の本当の笑顔とか。

 すっごく綺麗な宝石のようなキャンドルの存在だって。

 ヒカリがすっごく小さな粒々の粒子になっているっていうのも多分君は知らなかったよね―――?

 岩に水しぶきが当たるような泡が、生まれるように、僕らの関係は膨らんではどこかへ消えていく―――。

 そんな関係をいつまでも続けている僕らは、多分半永久的な関係になりつつある。感情的になったりする時もあったりして、そんな日々がずっと愛おしいと思えるかが不安で不安定な気分になったり、そういう蟠りの一端の存在が僕自身の気持ちだった。

「違うんだ。僕は何に向かって進んでいるんだろう?って。僕は君といるだけで十分だとは思わないし、満足できないんだと思う。でもどこかでもっと何かになりたくって動いている進んでいる自分が愛おしく思うときもあって、そんな自分っていったい何なんだろうって―――どうした?」僕は途中で言うのを辞めた。彼女が抱きついてきたからだ。

「私もね。同じこと思ってた。蔵人だって私だって前に進んでいる。その気持ちは変わらないんだって純白なままの自分の弱さを認め前に進んでいけているって信じていた。だけどね。どうしても壁にぶち当たった時、壁が見当たらない時、ふと不安になるの―――私、貴方といて、貴方だけが私を孤高の旅人という舞台の立ち位置から引きずりおろしてくれるんじゃないかって、そんな詩人みたいな建前で救ってくれるんじゃないかってずっと信じているんだ」水木亜紀はそういって自嘲した。ブドウジュースをそっと一掬い飲む姿は女神がキリストの血を飲んでいるような錯覚を抱いた。

 何故なら、単純に自分と同じ境地に居ることを弱みを包み隠さず明かしてくれてまだ自分という存在にいざとなったら頼っているというこの状態を僕は男としては頼りになる存在だとしても、結局僕は一介の戯曲に準えたストーリー上でいえばモブのような立ち位置でしかない。そんな僕を頼って救ってくれると信じている、そしてなおかつまだ自分で悩んで道に光を求め彷徨っているという事を知り、この人は強いと思うと同時に僕を頼ることで何を求めているのか、それを知っておくべきだろうかと思った。

 冗談や冗句にも似た妄言を言っただけであって、余計なお世話のような藪蛇かもしれないな、と思い直した。

「―――どうして、私が貴方を頼っているか尋ねないの?貴方なら咄嗟に訊くかと思ってた」

「―――聞いていいの?何で僕を頼っているのか。そんな悩んだ先に空虚や虚像で埋めることでしか君を救うことはできないんだよ」

「その琥珀のような空虚が貴方と私の心を繋ぐ鍵だと信じている。だから私を信じて。貴方も私を救って。それで助けあった関係を変えたり、立ち位置や存在を入れ替えたりする余地があったりするの?貴方」

「……いや、多分ない。これからも今までもずっと亜紀一筋だと思う」

「多分、貴方だって悩んでいるんだと思う。全てを無かったことにしてしまえば、悩む必要なんてなかったんだとその場を仕切って親の総取りのように場を取りまとめて全て無にしてしまえば、多分そんな空虚や琥珀だのそんな無駄なことを考えなくなってちょうどいいんだと。そんなゴミを捨てるように消しゴムで消せる関係じゃないんだって。―――私は信じている。貴方も―――ついてくる?私の想いに」

「君のその答えを聞いて返事を取りやめるほどガキじゃないよ、僕だって」

 僕らは、イーゼルに立てかけられた真っ白な洗いざらしのキャンパスみたいに純粋だった。彼女が求めた関係に近いだろう。これからもずっと遅いも早いもなく、そっと寄り添っていける。

『―――なあ、心の向こう側の僕。面白い話をしてくれよ。やっと面白くなってきたからさ、全てが都合よく回り始めているんだよ』

『だったら、もし龍が住んでいる家があったら、君はどうするんだい?僕だったら、彫刻のようにして飾っておくけれど―――』

『―――僕は、僕だったら、龍の存在が暖かい。人生で、そんな設定のいらない、価値観のいらない動物とは思わない。だから、ずっとそばに従者として従えておくし、ペットのように飼うかな。それのどこが面白いんだい?』

 『彼女なんて想像上の人間みたいだと思わないかい?伝説級の、とびっきりどこにでもいる龍みたいな―――』

 「ああ、確かに言えてるな」僕は言った。

 「えっ、何だって?」亜紀は言った。まるで、全てがこれから晴れていくように、道は開けていく実感がある。

 「君って、いつか、天使になれるよ。その笑顔さえあれば」そう言って、僕は亜紀にキスをした。

 亜紀も止めなかった。

 全ての巡る時が一瞬だけ止まっていて欲しいと願った。目の前の時計塔は3時33分と指している。

 コートを着た僕らは、手袋をはめた片手をそっと握り、彼女も握り返した。呼吸を確かめ合うようにゆっくりと。

 僕らの関係はこれからも地平線の果てまで続けていける。

 そんな遥かな永遠を感じさせる。

「ねえ」僕は言った。

「何、蔵人」亜紀は微笑んだ。心のカラーは多分、夕日にも似たオレンジに染まって。

「これから、することも決まったし、そろそろどこか行かない?」

「そうね、どこがいい?」

「うーん。何処に行ってもいいんだけど、単純に絵美理に会いたい。助かったし」

「何が助かったの?」

「いや、何でもない」

「……英吾にも会わないと駄目だよ」

「マフラー巻いていたら暑くなってきたから、亜紀に貸してあげる」

「ありがと」

 そう言って、亜紀は僕のダークイエローのマフラーを巻く。それは、あまり決まっているとは言えなかったので、僕は笑った。

「あぁ、笑ったな」

「だって、それだとかっこ悪いよ、貸してみて」

 そう言って、僕はマフラーを取り上げ、亜紀に巻いた。口元には口紅が付いているので巻かないように気を付けて、ゆっくりと。

 すると、僕の顔に何かが触れた。

 それは亜紀の香りがする髪だった。

 亜紀が大事にしていた口紅は首筋に少し痕が残った。

「どうしたの?」僕が訊いた。

「これからずっと一緒にいれたらいる事……必ずだよ」そう言って、亜紀は店の立て看板に近づいた。「ここいいんじゃない?」

「え、あ、うん。そうだね」僕は一呼吸おいて事実を整理した。やっと友達以上恋人未満から卒業したのか。その事実にびっくりしたと同時に、何が起きたんだろう、と再確認する日々が続きそうだ。

 ―――熱が出るかもしれない。

「ねえ、今のって彼女になったってことでいいんだよね?」

「だったら、条件が一つあるよ」

 そう言って蔵人に近づいた。

「蔵人が悩まなくなったら、私の恋人になること。ずっと恋人でいること。この二つが守れないと、いつまでも、私の恋人にはなれないぞ」そういって、蔵人の肩を小突く。

 そうか……。

 そうだったのか……それが彼女の本音だったんだ。

「じゃあ、行こうか。パスタがいい?」

「うーん、グラタンがいいかな。後、ピザ食べない?私ピザのサイズ大きくて半分くらいしか食べられないけど」

「いいね。僕は、ほうれん草のキッシュにしようかな」

「じゃあ、決まり」

「でもさ……何で、僕らって先に進む恋していないんだろうね?」

「まだ」

 ―――えっ?

「まだ、待って欲しかった。蔵人って大人だから、私との恋に飽きたりしない?例えば、さ。私が猫被って猫飼っても平気?」

 たわいのない話だな、と思って一段落したが、かなり妖しい話になってきそうな気がする。だって、亜紀の事だから。何もかも知りつくしたような見透かしたような、透明なグラスの縁を横から眺めたときのように鮮やかな色をしてる質問をすぐに答えたりするような彼女がこんなに単純な女の子を演じられるだなんて驚いたと同時に辟易する。

 僕の彼女は一流だ。

 僕の彼女としてでなく、女の子の可愛いとこを知りつくして、僕を陥落させようとするんだろう。し…かし、僕は、亜紀のそういうとこではなくて、僕は彼女には別の感情がもたげてきた、それが彼女に対する“悲しみ”だ。

「平気だよ。君が独り猫被った演技をしていたって、僕は君の事は忘れたりしないから。君は、単純な所なんてあるのか、大人な部分だけしかないのか、子供のふりをしているだけなのか、それは分からないけれどね。君って後で一人反省会とか開いたりしてない?例えば、今朝僕になんて言ったとか、なんて言われたとか、そんな分析して一人過ごしてない?君一人で世界背負っているんじゃないんだよ。君だけのものでもないし、僕との世界だけだからって君で一人何もかも抱え込んでいたら、君の管理によって僕との人生が決定されてしまう。そんなのってズルいよ。ちゃんと目を見て話せられないんなら、僕の方から君との人生にエンドロールを設けるだけだ」

 そう言って、僕はキッシュを頬張って、代金を半分だけ払って、僕の方から失礼した。彼女は黙って僕の言う事を聞いていたけど、言う事意味分からない、とかそんな罵倒が来るのかな、とか色々考えて身構えていただけにあっさり黙ってしまった彼女に僕はどうしていいのか分からなかった。

「……でもね」亜紀は言った。「蔵人ってそんな事言うけどさ、楽しくしないと、演技しないと人生楽しくないじゃん。反省会って結局はキャラ作り?とか何か気取っているわけでもなくって、人生の家庭作り。ロールプレイ通して、今日一日張り切って会話して、キャラでも何とでもいい、言われるままでも良いけど、私との恋愛すっごいモノにしたいから、猫被っても良いのかって……、聞いてんのよ!」バンと叩いて、テーブルの水は揺れた。蝶々の翅が飛ぶ時のように。ゆらゆらと漲るように揺れる水を見ながら、僕は立ちつくした。

「君には悲しみしか感じないよ……、有り余った悲しみに肩甲骨から羽根が生えてきそうだ。生まれたての姿に純白の羽根が写し絵のように生えてきて、きっと君は連れ去ってくれるのかもしれない。どこか外国の湖の見える遠くの地方で、異邦人によるすごい恋愛をしているおしどり夫婦のように。そういう在り方を目指しているのでもないのかもしれないけれど、単純に君の中の恋愛って多分綺麗なままなんだね。もう喧嘩は辞めよう。少なからず、昼食に喧嘩は似合わない。―――君の恋愛には喧嘩なんて文字はないんだろう?」

「まだ私の質問を答えていないから。猫飼っても平気なの、平気じゃないの?」

「君のそういうところに単純に乗っかるほどバカなわけじゃないけれどね。一つだけ言っておくことがあるとすれば、もっと単純で居ようよ、僕ら。バカみたいにバカやってバカな夫婦を演じていればきっと君は強くなれる。多分、君は頭が良すぎる。何をするのか一々決定権が自分にあると思っている。僕に任せていて。僕は君の全ては知らないし、何も知るつもりはないけれど、僕は君に任せるし、君は僕に任せて欲しいんだ。バトンをどちらが持つかで言い争っちゃ多分この船は沈んでしまう」

「氷山にぶち当たったわね。私達獣みたいになっちゃうのかしら?」

「そうはならない。多分、船は止まり方向転換するだろう。タイタニックほど間抜けな展開を望んだ映画はないだろうけれどね」

 そう言って僕は亜紀の手を握った。冷たかった手は次第に温まる。会計は一緒に払った。恋愛御法度ポリスなんていたら逮捕されて監獄にいれられるかもしれない。監獄からの大脱出をマジシャンのように行いながら、この店ごと出て行ってしまうのが僕らの常套手段。

 まだ、足りないものは僕らに残されている。彼女の恋愛には、多分喧嘩の傷跡ばかり蓄積されて碌なものになりはしない。それでも白旗を上げることはしなかった。

 それだけの権利は僕らに残されていたみたいだ。

 さあ、行こう。道は人の上に作られるものだとてっきり思っていたけれど、多分人の目の前にその道は存在する。僕の道の先には手の鳴る方に“君”がいて。亜紀は、僕のことを見ていなかった。真っ直ぐ前を見て、ただ歩くだけの人形と化していた。それが僕らを理性の部屋へと戻す手段だった。

 さあ、何をしよう。すべきことは既に終わっている。後は喧嘩をしないように注意しながら船の舵を取るだけだ。

「お腹減ったね」僕は亜紀のお腹を触る。「何か食べる?」

「何で私のお腹触るのよ、本当わざとだって知ってるけど、おっかしい」亜紀は笑った。「チーズティー飲まない?最近お店出来たって。ご飯はさっき食べたから我慢して」

「良いね。チーズティーの飲みすぎで君に子供ができたらどうしようかと思ってさ」

「え?子供?……あぁ、太ったって言いたいわけね。また一暴れしようかしら」

 やめてくれ、と言う口を何かが塞いだ。

 柔らかいものが口の中で弾けた。

 静かな十秒間の内に、喧騒が辺りに拡散した。

「じゃあ、いこっか」亜紀は囁くように言った。

「……そうだね」僕は、このシーンをおさらいする時はもう二度とこないだろう。「どこがいい?」

「私、決めているとこがあるんだ」

「どこ?」

「私の両親の石碑」

 そう。彼女の両親は交通事故によって亡くなった。あっけない最期に混濁する意識の中、最後に呟いた言葉を教えてもらった。それは。

「……良かった、だね」

「そう。よく覚えているね。お酒は禁酒生活をしていたから、うんとサービスしようかな」

「僕も、行くべきところがあるだろうな」

「どこ?」

「友人の石碑」

「え……死んじゃったの、この若さで」

「光のようにあっけないスピードでね。冷たい夜、熱にうなされてそのまま」

 僕は嘘を吐くほど愚かではない。愚直なまでに正直に語った。

「じゃあ、いこっか」僕は言った。山彦みたいに。

 さあ、最果ての土地に進もう。僕らの冒険の最期ははやり決まっている。勇者とお姫様だって、きっと間違ったことをするだろう。

 それは、あの時の死を弔うことだ。

 多分、もう見る必要はないと思っている彼らの死をどうして見舞わなくちゃならないのか、と考えているほどだ。

 その友人の日記を見たからだ。

 しかし、どうして……とは聞かなかった。またお前と現実で会うの、正直どうでもいいから、あの世で乾杯しようぜ?と書いてあったからだ。

 僕は彼女を見舞って、現実の世界で酒宴を交わす。

 ダチに僕の彼女を見せた方がカッコいいじゃん?

 たったそれだけの悪戯をしに、やってくるだけだった。

 もう未練はない。

 亜紀の手は冷たかった。

「じゃあ、お互い様だねっ!」

「僕は彼女を連れてくると彼に約束したんだ。嘘だけどね」

「その嘘信じてもいい?」

「僕のことを結婚してもいいくらい好きだったならね」

「……多分、そうだと思う」

 その声は喧騒にまぎれて聞こえなかった。未完成なパズルを埋めるように空白の時が過ぎた少年時代を僕は刻んできたが、その御褒美が亜紀なのだろう、と神に感謝した。

「グッドバイ……」

 誰に言ったの、と聞くと、僕はこう答えた。神様と、自分にだよ、と言った。

 あの時の空虚な僕と、ちっぽけな神様に、さ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る