黒髪

明け方

黒髪

「時々ふと、考えることがあるんだ」


 そう、彼女は切り出した。彼女の名前は思い出せないけれど、出席番号が一桁台だったことは覚えている。それに黒くて長い髪も。他の女子は後ろで一つにまとめたりしているのに、彼女は頑なに黒髪ロングを貫いていた。いや、僕と彼女の関係性でそれを断言するのは少し気が引ける。頑なに貫いているように見えた、くらいが妥当だろう。


「別に何も特別なことじゃないんだけどね。ただ、私たちはこの先どうなっていくのかな、とか。どうして生きているのかな、とか。いつ死ぬのかな、とか。そういう感じの事」


「まあ、分かるけど」


「こうして海を見てるとさ、余計にね」


「感傷的になる?」


「まあね。ところで私たち、どうしてこんなところにいるんだっけ」


「さあ」


「こうして防波堤の上に隣あって座って、二人で話すような関係性だったっけ」


「いや、全然。名前も知らない」


「だよね。―いや、それはないでしょ。同じクラスなんだから、名前くらい覚えてよ」


 そういって彼女はその名を名乗った。か行から始まる特に珍しくもない地名姓を。


「今日って平日?」


「月曜日」


「ばりばり平日じゃん」


「ばりばり平日だよ。学校行かなくていいの?」

 

「それは君もでしょ」


「僕は良いんだよ」


「なんで」


「なんでも」


「ふうん―ま、いいけど」


 昼間の防波堤。眼下のテトラポッドにはペットボトルやレジ袋や木屑なんかが絡まっていて、お世辞にも綺麗とは言えない。そこに彼女は降り立って、よろめきながら海の方へと歩を進める。


「さっき今日が平日か聞いたけどさ、実は私知ってたんだ。ていうかまあ、知ってるよね。知ってて休んだの。学校」


「さぼり?」


 距離が離れた分、少し声を張って聞く。


「反逆だよ。レジスタンスだよ。かっこいいでしょ」


「この世界への?」


「そう!戦争とか汚職とか人殺しとか盗みとか差別とかいじめとかそういうのが蔓延ってるじゃん。そういうのに嫌気がさしたの。だからこれは、ささやかな反逆。月曜日に学校に行かなければならないという、世界の中の、そのほんの一部の社会のルールへの、反逆」


 そういう彼女は、楽しそうに笑っていた。心底楽しそうに笑っていた。笑いながら、歩を進めていた。


「あこがれてたんだよ昔から。念願叶ってようやくできたよ」


「それは良かったね」


「うん。大満足だよ。達成感で満ち溢れてるよ。もう大体の事は、どうでも良くなりそうだよ」


「本当に?」


「本当に!」


 あと一歩でも進めば海の中というところで、彼女は止まった。

 風が吹いた。黒髪が風に靡く。彼女の顔に、絡みつく。

 彼女の口唇が動く。波風のせいでその声は聞こえない。


「明日もさあ、学校あるよね」


「あるよ」


「明後日も、明々後日も弥の明後日も、きっとあるよね」


「あるよ」


「だよね」


 それは、当たり前の事だった。確認するまでも無いことだった。でもそれを聞いた彼女はほんの少しだけ、悲しそうな顔をした。さっきまでの満面の笑みは、いつの間にか泣き笑いに変わっていた。


「やっぱりなにも、変わらないよね」


 揺らぐ。


「もし私が死んでもやっぱり何も変わらないんだよね」


 揺らぐ。


「月曜日はやってくるし。戦争は終わらないし、靴の中に砂が入ってたり、無視されたり、髪切られそうになったり、そういうことは、変わらず続くんだよね」


 揺らぐ。


「どうせならもっと意義深く死にたかったなあ。何かを変えたかったなあ。でも無理だよね」


 揺らぐ。

 揺らいで、彼女の体は深い海の藻屑に―ならなかった。

 なぜか。

 僕がその手を掴んだからだ。


「・・・・・・・・・・・・止めるんだ」


「止めるよ」


「どうして」


「好きなんだよ。黒髪ロング」


「え?」


「君が死んだら、学校に行く意味がなくなる」


「生きてる意味は?」


「そこまでではないけど」


 彼女は笑った。

 波がテトラポッドに当たって砕けた。


 

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黒髪 明け方 @203kouchi

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