第三章 三食昼寝付きの生活を手に入れました!
目が覚めると、また私は同じ匂いに包まれている。この人の腕の中は温かくて、心地好くて、優しい匂いがする。ずっとそばにいたい気持ちにさせられる。
この温い幸せにどっぷりと浸かってしまったら、捨てられたときに立ち直れなさそうだから、一人で生きていけるようになるまではここに置いてもらえるようにならなければ。
とはいえ、この小さな体はとても疲れやすく、起きていることさえままならない。
私にできるのは、愛玩動物としての役割くらいだろう。だから、せめて彼に迷惑をかけないようにとは思っている。
(あ~いい匂い……なんか好き、すごく好きぃ……)
猫としての本能なのか、鼻がうずうずして、どうにも匂いを嗅ぎたくなったり、ぺろぺろと舐めたくなったりして我慢ならない。
(お腹空いた~)
そう声に出して言うと、みゃ、みゃと小さな鳴き声が聞こえる。おそらくそれが私の声なのだろう。よたよたと立ち上がり、端整なジークフリートの顔を舐める。
その感触で起きたのか、ジークフリートがうっすらと目を開けて、私を視界に入れた途端、顔を蕩けさせた。
「起きたのか? 腹が減ったか? 昨日より元気になったな」
ジークフリートは甘ったるい声でそう言って私を抱き上げると、額と額をくっつけた。間近に大きな顔があると少し怖く、思わず爪を立ててしまう。
(あ……っ)
しまったと思ったが、手を引こうと思ったときにはすでに遅く、私の爪が彼の額をかすった。
(これからご飯をくれるかもしれない人を傷つけちゃった……どうしよう……ごめんなさい! ごめんなさい!)
私はパニックになり、がむしゃらに手を動かし、彼から距離を取ろうとする。だが、それが悪かったのか、さらに彼の額をがりがりと引っ掻いてしまう。
離れてほしいのに、全然伝わらない。それに、どれだけ引っかかれようとも、なぜかジークフリートは顔を動かさなかった。
(愛玩動物として失格。もう捨てられるかも)
こんなことなら、もっとしっかり満腹になるまでミルクを飲んでおくんだった。
そう後悔しながら傷だらけになったであろうジークフリートの額をじっと見つめるが、どこを探しても傷一つない。
(なんで?)
手を動かすのをやめると、彼がもう一度額をくっつけようとしてくる。先ほどジークフリートを引っ掻いてしまったときのような怖さはない。
私が微動だにせずじっとしていると、やがて彼の額が離れていき、不満そうな目で見つめられた。
「なんだ、もう終わりか? この食べてしまいたいくらい可愛いお手々で、もう一度撫でてはくれ」
撫でてるつもりはなかったんですけど──っ!?
そんな私の叫びは当然、声にはならず、やたらと甲高い「にゃぁ~」という音に変わった。
「あぁ、なんという可愛い声だろうか」
それが彼のツボにはまったのか、愛おしいと言わんばかりに額を私のおでこのぐりぐりと押し当ててくる。
とりあえずジークフリートに傷がついてなくてよかった。というか、私の小さな姿が彼の父性を刺激しているのか、この状況を見ている限り、そう易々と捨てられないような気がする。まだ油断はできないけど。
「そうだ、食事を用意せねばな」
彼は私を優しく抱き上げると、隣に続く部屋のドアを開けた。隣室は豪華な装飾のある円テーブルと椅子が二脚置いてあり、チェスト、姿見、机、カウチなどが置かれている。華やかな柄の壁を覗けば、男性的でシンプルな部屋だ。
ジークフリートがテーブルにつき、置いてあるベルを小さく鳴らした。するとすぐにノック音が聞こえて、モーニングっぽい服を着た三十代ほどの男性が、ワゴンを押しながらおそらく廊下に面しているであろうドアから入ってくる。
「おはようございます、ジークフリート様」
「あぁ」
男性はテーブルの上に鼻孔をくすぐる美味しそうな料理を並べていった。給仕をする男性がいるということは、ジークフリートの身分はそれなりに高いのだろう。
そういえば、昨日の昼間、クラウスとか言う男の人が、ジークフリートを〝騎士団長〟って呼んでいた。なんとか王国とも。
ここは元いた世界じゃないと思う。私が知らないだけかもしれないけど、聞いたこともない国の名前だったから。
不思議なことはそれだけじゃない。昨日はじっくり見る暇もなく、ミルクを飲んでまた眠ってしまったけど、この部屋は異常なほど窓が大きく天井が高い。
元いた国どころか、世界のどの国でもあり得ないほどだ。
室内にあるカウチが一メートルほどだとすると、五メートルはあるのではないだろうか。私が窓から出ようと思っても、絶対に重くて開けられない。
まぁ異世界っぽいなとは思っていたし、そもそも自分が猫に生まれ変わっているという以上に不思議なことはないから、こういうものだと受け入れるしかない。
疑問を突き詰めてもお腹は膨れないものだ。
「あとは私がやるから下がっていい」
「かしこまりました」
ジークフリートがきりっとした顔つきでそう言うと、男性は一礼して下がっていった。ちなみに室内にあるドアは普通の大きさ。普通って私基準の普通じゃなくて、人基準の普通ね。今の私からすると、みんな巨人レベル。
「待たせたな。腹が減っただろう」
彼は自分のカトラリーを手にすることなく、銀食器に入った私用のミルクをスプーンですくう。私がミルクを飲むと、何度目かわからない蕩けた顔をした。
「はぁ~ちっちゃな舌も可愛いなぁ~」
クラウスという男性が、威厳あるなんとかとか、国一番の強さを誇るなんとか人とか言っていたが、この顔を見ていると、たしかにそんな威厳は欠片も感じられない。
「あぁ、そうだ。起きたら、お前の名前を決めようと思ってたんだ。ミルクを飲みながら考えようか」
私には
「〝ぽち〟はどうだ?」
よくなかった。どうやらジークフリートは徹底的にネーミングセンスに欠けているらしい。さすがに亜里澄からぽちはいやだ。しかも、ジークフリートなんてかっこいい名前を親からもらっているくせに、どうして〝ぽち〟が出てくるのだろうか。
(いや~! やめて~!)
私が叫ぶように言うと、ジークフリートはいやがっている様子なのがわかったのか、次なる案を出してきた。
「では、〝たま〟はどうだろうか。お前の可愛くて、ふさふさな白い毛にもぴったりだろう?」
(全然、全然! ぴったりじゃない! どこから出てきたの、たまっ!)
必死にぶんぶんと首を横に振ると、さすがに察してくれたらしい。
「ふむ、それもいやか……ならばどうするか」
私は仕方なく室内をきょろきょろと見回した。すると机に数枚の書類が置いてあるのが見える。しかし、すぐに疲れてしまう私が机まで行けるとは思えない。
ジークフリートに訴えるように手をくいくいと上げて机を示すと、彼はすぐに気づいてくれた。私を抱き上げたまま立ち上がり、机に向かう。
「ん? どうした? この書類か? これは遠征の報告書だぞ? お前が見てもおもしろくはあるまい」
私は彼の腕から抜け出し、そっと机に脚を下ろした。そして書類を覗き見る。
(読める! なんでだかわからないけど読める!)
彼の仕事用の書類を汚すのは申し訳ないが、背に腹は代えられない。私はなるべく書類がくしゃくしゃにならないように、〝ア〟のところにそっと手を下ろした。
「あぁ……自分でつけたい名前を教えてくれているのか? 生まれて間もないというのに、お前はとても知性が高いな。ふむ……〝ア〟の次は〝リ〟か。最後は〝ス〟? アリスとは変わった名前だな。でも可愛いお前にぴったりだ」
亜里澄という名前にはいやな思い出しかないけど、彼が呼ぶ〝アリス〟はクズな両親が呼ぶときとは発音も少し違う。
だから、自分の新しい名前を与えられたような気持ちになる。
私はなんとか彼に嬉しい気持ちを伝えようと、書類の上にある彼の手を舌で舐めた。なぜこんなに舐めたくなるのか、よくわからない。たぶん猫だからなんだと思う。
「アリス、嬉しいのか?」
(嬉しい!)
私が答えると、ジークフリートの顔が例の人には見せられない顔になる。なんだかその顔が面白くて、嬉しくて、私は胸がいっぱいだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます