第一章 寝床を手に入れました!
温かくていい匂い。規則的に体が揺れるから、目覚めようと思っても、また眠りに誘われる。うつらうつらと微睡んでいると、誰かに頭を優しく撫でられた。
前世でこんな風に私の頭を撫でてくれた人はいない。もうとっくに目は覚めていたけど、誰かの手が優しくて、嬉しくて、目覚めたくなかった。
そうするうちにまた眠ってしまい、本格的に目が覚めると、周囲は森ではなくなっていた。その代わりに、私をじっと凝視する男の顔が間近にあった。
(ひぇっ! な、な、なにっ!?)
男は私が目覚めたことに嬉しそうな顔を見せた。そして頭を撫でられる。
(あ、この手……寝てるときに撫でてくれた人だ)
男は前世で言うところのイケメンだった。耳が隠れるほど長い黒髪、細く鋭い目は赤く、瞳孔が縦に開いている。
男が笑っていなければ、あまりに冷たそうな外見に、一目散に逃げだしていたかもしれない。それに、さっきから気になっていたんだけど、私の頭を撫でる手があまりにもでか過ぎる。男が巨人でないなら、私の体は男の手ほどしかないということだ。
「起きたか? 腹は空いてないか?」
そう言われて、私は思わずぴくりと耳を震わせた。それが伝わったのか、男の顔がふにゃりと崩れた。イケメンの顔がそれはもうでろでろに溶けている。
「そうか、ミルクを飲もうか。まだ固形物は食べられないだろうからな」
男は私の体を軽々と持ち上げて腕の中に抱き上げた。いい匂いだと思っていたのは男の体臭だったようだ。
銀のスプーンを口に近づけられて、私は舌を伸ばしてミルクを舐める。美味しかった。それはもう夢中になって飲み干してしまうほどに。
もっともっとと男の体に爪を立てる。怒られるかもしれないと、慌てて手を離そうとしても、爪が引っかかってしまい取れなかった。
でも、男の人はちっとも怒らなかった。それどころかなぜか嬉しそうな顔をする。
「大丈夫だから暴れるな。ほら、もっとほしいんだろう?」
男はちくちく刺さっているであろう私の爪にはいっさい意識を向けず、銀の器に入ったミルクをスプーンですくい、私に与え続けた。
「森で倒れていたときは、死んでしまうかと思ったが……生きていてよかった。たくさん食べて、寝て、早く元気になってくれよ」
泣きたくなるほど優しい声だった。
私に生きていてよかったなんて言ってくれた人は、この男だけだ。男の言葉が嬉しかった。それだけで猫に生まれ変わってよかったと思えた。
私は「ありがとう」と伝えたくて、男の手に顔を擦り寄せた。
「なんだ? 甘えてるのか? 腹がいっぱいになったら、またぐっすり眠った方がいいな」
私が男の腕の中でうとうとし始めると、男が立ち上がり、どこかに向かった。そのとき、男以外の声が聞こえる。
「ジークフリート団長。辺境での合同演習の報告書が提出されていないと宰相殿がお怒りです!」
「今、忙しい! 見てわかるだろう!」
「ちょいちょいちょい! なに真っ昼間っから子猫ちゃんと寝ようとしてんですか!」
男の騒ぎ声で目が覚めた。どうやら私を抱いているこの男はジークフリートというらしい。私はぱちりと目を開けてもう一人の男の顔をじっと見つめる。
「あぁ~! 可愛い子が起きてしまったじゃないか!」
「なにが可愛い子ですかっ! 仕事しろってんですよ!」
「報告書の作成くらい副団長のお前でもできるだろうが、クラウス! しばらく放っておいてくれ。俺には大事な仕事があるんだ」
「えぇ、えぇ、できますとも。やれと言われればね。でも、俺が仕事をしている間、あなたがその子猫ちゃんと一緒に寝てると思うと殺意が芽生えるんですよっ!」
クラウスと呼ばれた男も、ジークフリートほどではないが、整った顔立ちをしていた。青い髪に青い目。やはり瞳孔は縦に開いている。
元いた世界にはなかった髪色や目に驚きつつも、本当にアリスのように不思議な世界に落とされてしまったのかもしれない、と私は思い始めていた。
「当たり前じゃないか。まだこんなに小さいんだぞ。なるべくそばにいてやらねば不安になるだろうが」
なにを言っているんだとばかりにジークフリートが返すと、クラウスの額に青筋が浮かぶ。お仕事ならばちゃんとした方がいいんじゃないか。私はジークフリートの腕の中で、爪を立てないように彼の胸に手を押し当てた。肉球でぷにぷと押してみる。
「ふぁぁぁ、かっわいいなぁ……今の見たか!?」
その瞬間、またもやイケメンの顔がふにゃりと蕩けた。愛おしそうに目を細め、うっとりと私を見つめる瞳は、よく見るアレに似ている。猫の腹に顔を埋め、ひたすら狂おしげな目をしてひたすら匂いを嗅ぐアレ。妖怪、猫吸い。
「ちょっと! その顔で外出ないでくださいよ!? あなたは威厳あるアディンソン獣王国の騎士団長なんですよっ。国一番の強さを誇る魔獣人がそんな顔じゃ部下に舐められるでしょうがっ!」
「うるさいな、放っておけ。仕事はするから、書類はすべてこの部屋に運ぶように」
ジークフリートは、クラウスに視線一つ向けずに言った。彼の目はずっと私にある。
(もしかして、この人に気に入られてるうちは、ご飯と寝床に困らないんじゃない?)
ちょっと異常なほど可愛がられている気がするけど、彼の匂いも、優しさも悪くない。この暮らしがずっと続くように、なるべく迷惑をかけないように過ごさなければ。
私はジークフリートの膝から起き上がった。ジークフリートには仕事があるようだから、その邪魔をしないように、どこかで寝ていようと思ったのだ。
でも、彼の膝から下りようとした途端、大きな手のひらに腹部を掴まれてしまう。
「こらこら、どこに行くんだ。お前の寝床はこっちだぞ」
「も~団長! あとで仕事を持ってきますからね! 絶対に今日中に終わらせてくださいね!」
「はいはい、わかったよ」
ジークフリートはクラウスに背を向けて、私を抱きかかえたまま隣室に向かった。扉を開けた先にあったのは大きなベッド。そこに私を寝かせて、自分も隣に横になる。
まだ外は明るいけど、もう寝るのだろうか。ジークフリートの手に撫でられていると心地好くて、すぐにまぶたが重くなってくる。
(もうちょっと近くに……)
私はベッドの上でころんと寝返りを打ち、ジークフリートの首と胸の間にすっぽりと収まるような形で丸くなる。
「はぁ、本当に可愛いなぁ」
背を向けているから彼の顔はわからないが、またふにゃふにゃになった顔をしているのだと思う。私を見るジークフリートの目は、両親が私に向けていた目とはまるで違う。
深く息を吐くと、もうまぶたは開けられない。目覚めたときに、また彼の近くにいられますようにと祈りながら、私は眠りに落ちたのだった。
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