無愛想な王弟は子猫を愛でる
本郷アキ
プロローグ
私は着の身着のままで家を飛びだして、走っていた。行くところなんてどこにもない。でも、あの家にはもう帰りたくなかった。
お父さんとお母さんが喜んでくれるならと必死に頑張ってきた。
でも、もう疲れたんだ。
だって、私がどれだけ頑張っても、誰も認めてはくれなかったし、褒めてもくれなかった。
私はただ、お父さんとお母さんから「頑張ったね」って言ってほしかっただけなのに。結局、一度だって、笑顔を向けられることも、褒められることもなかった。
搾取されていることに気づかないふりをしてたけど、本当はもう、ずっと前から気づいてた。私には利用価値があるだけで、愛されてはいないって。
もしも生まれ変わりがあるのなら、次は猫になりたい。うちの隣で飼われていた猫は、私よりずっと幸せそうだった。家族に愛されて、日がな一日、遊んで暮らしていた。
家族に甘えても罵声を浴びせられることなんてない。ずっと寝ていたって文句なんて言われない。お腹がいっぱいになるまでご飯を食べて、遊んで、眠る。
ただそれだけのことが、私にとっては夢のように素敵なことに思える。
目の前が真っ白になり、体に衝撃が走ると、ゆっくりと意識が遠退いていく。
頭も体も痛くてたまらない。それでも、これで終わりになると思ったら、痛みや苦しみよりも安堵が勝った。
願わくば次は、三食昼寝付き生活ができるといいな。
そう思いながら、私は目を閉じる。
目の前が真っ暗になり、蓋を閉じるように意識が途切れた。
そして──。
チチチッ……チチチッ。
いつもと違う目覚ましの音が聞こえてきて、私はゆっくりと目を開けた。
視界のすべてが私の背丈ほどもある草に覆い尽くされており、空を見上げれば、巨大な木々が鬱蒼と茂り、わずかな隙間から日射しが降り注いでいた。
(あれ、まだ夢? これ夢だよね?)
口を開こうとしても、なぜか言葉が声にならない。ぱくぱくと口を開けると、ふにゃふにゃと動物のような鳴き声が漏れるばかり。
(あ、そうか! もしかして天国っ?)
あのとき私は、トラックに跳ねられて死んだはず。でも今、どこにも痛みはない。毎日が寝不足で常に頭痛に悩まされていたというのに、頭の痛みも体のだるさも感じなかった。
(でも、なんか生きてるっぽいよ? 死んだ? 死んだよね?)
なにが起こったかを思い出そうとして、あのときの記憶が一気に蘇ってくると、苦しさや孤独、寂しさまで思い出してしまい、胸がぎゅっと詰まるような心地になる。
いやな記憶を追い出すように頭を振り、周囲をもう一度見回した。目の前は草が茂るばかりで、道という道はない。
(ここどこ?)
天国ならば、案内人とか、天使様が迎えてくれるとかないのだろうか。死ぬ瞬間まで必死に頑張り続けてきた私が地獄に送られた、なんてことはないはずだ。ないと思いたい。
とりあえずここを天国だと仮定して、誰かを探そう。私は手を伸ばし……愕然とした。
(はい? え、なんなの? うん? これって天国仕様?)
なぜ私の手がもふもふしているのだろうか。白いような銀色のような色合いで、それはもう触り心地がよさそうだ。
手を裏返して見ると、可愛らしいピンクの肉球。もしかして、と首を捻ると、尻尾がゆらゆらと揺れている。
もう一度空を見上げる。さっきから視界にはいるものすべてが巨大な気がしていたが、木が山のように聳え立っているわけではなく、私の体が縮んでいるのか。
四本の足で草をかき分けて歩いていくと、大きな池があった。私はひょいと水に自分の顔を映し、さらなる衝撃を受けた。
(やっぱり猫……猫になってる!)
真っ白で長い毛並み、耳はぴんと尖っていて、目はまん丸で愛らしい。
まるで、うちの隣で飼われていたメインクーンに似ている。色は白銀色で耳はぴんと立っていて、目はまん丸で碧眼色。それはもう目を瞠るほどの美猫である。
でも、隣のあの猫はすごく体が大きくて一メートルほどはあったと思う。今の私の体がどれほどの大きさかはわからないけど、顔立ちは子猫のようだった。
(もしかして、天国でもなんでもなくて、ただ単に猫に生まれ変わったってだけ?)
しかも生まれたときから独りとは。生まれ変わっても私はとことん家族に縁がないらしい。諦めにも似た気持ちでため息をつくが、口から漏れるのはわずかな吐息。
(白ウサギを追いかけて不思議な世界に迷い込んだって言うなら、アリスって名前のままだけどね)
私の名前、
世界的に有名なアリスさんのように、世界中を冒険することもなく、私は家と学校、家と職場という狭い世界で生きてきた。
そして、十八歳という若さで命を落とした。働き始めてまだ一ヶ月だった。
(はぁ、歩いても歩いても、草ばっかり……お腹空いたな)
生まれ変わっても空腹に悩まされるなんて。せっかく猫に生まれ変わったというのに、三食昼寝付きの生活はやはり夢だったらしい。
(とりあえず食べ物を探さないと)
目的もなくひたすら歩いていく。低い木に赤い実が生っているのを見つけたが、猫なのに木を登れなかった。
(つ……つら……っ、お腹空いた、眠い……っ、無理)
何時間歩いたのか。空腹と疲れで、私は動けなくなった。ちょうど寝心地の良さそうな木があったので太い根に寄りかかるようにしてまぶたを閉じた。
このままもう一度命を落としてもいい。そんな自暴自棄な気分だった。
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