第5話 裏切り者の影

ブラックローズとの接触から数日後、玲奈の中で焦燥感は一層強くなっていた。彼女はブラックローズから渡されたUSBメモリに記録されていた情報を幾度となく解析し、消えたエージェントたちの足跡を追い続けていた。だが、その情報は非常に断片的で、全てを繋ぎ合わせるにはまだ多くのピースが不足していた。


玲奈は、自宅の暗い部屋でパソコンのモニターを見つめていた。そこに映し出されるのは、消えたエージェントたちが最後に接触した任務の詳細だった。任務内容は極秘扱いであり、その全貌は未だに掴めない。しかし、共通しているのは、全員が別班内部のある一人の上司と接触していたということだ。その上司の名前——中村陽介。


玲奈はその名前を見た瞬間、胸の奥に氷のような冷たさが広がるのを感じた。中村は、彼女が最も信頼していた上司であり、別班での彼女のキャリアを常にサポートしてきた人物だった。彼が裏切り者であるはずがない——そう信じたかった。しかし、ブラックローズからの情報が示すところでは、彼こそが消えたエージェントたちの行方に深く関与している可能性があった。


玲奈は苦しげに息を吐き出し、頭を抱えた。彼女の思考は混乱し、心の中で信頼と疑念がせめぎ合っていた。だが、もし中村が裏切り者であるならば、玲奈自身も危険に晒されることになる。それに気づいた彼女は、すぐに行動を起こす決意を固めた。


翌日、玲奈は中村がオフィスを離れるタイミングを見計らい、彼のデスクに忍び込んだ。別班のオフィスは無機質な灰色の壁に囲まれ、外界とは遮断された世界だ。そこには冷たさと緊張感が漂い、誰もが感情を隠して仕事をこなすことに徹している。玲奈はその空気に慣れきっていたが、今日はどこか違和感を覚えた。まるで、その場の全てが彼女を監視しているかのようだった。


玲奈は慎重に中村のデスクに手を伸ばし、彼のコンピュータにアクセスした。彼女は一度も彼に対して疑念を抱いたことがなかったため、彼のパスワードは予測しやすかった。素早く入力すると、予想通り簡単にログインすることができた。


彼女は震える指でデスクトップに保存されたファイルを開いた。その瞬間、画面に現れたのは、失踪したエージェントたちに関する極秘のレポートだった。玲奈の心臓が早鐘のように打ち始めた。そこには、彼らが最後に接触した場所、そして中村との詳細な通信記録が残されていた。


「嘘だ……」


玲奈は思わず呟いた。その記録はあまりにも明白だった。中村が彼らを危険な任務に送り出し、そして彼らが姿を消した後も、一切の報告を行わなかったことが示されていた。彼は一体何を隠していたのか。玲奈はその記録をさらに深く調べ、彼が何者かと頻繁に接触していた痕跡を見つけた。その通信は暗号化されており、玲奈の技術では解読することは不可能だった。しかし、確かなことは一つ——中村は何か重大な秘密を抱えているということだった。


玲奈はその情報をUSBメモリにコピーし、急いで中村のオフィスを後にした。彼女は今、信頼していた上司が裏切り者であるという疑念を抱きながら、冷静に次の一手を考えようとしていた。だが、その思考は乱れ、感情は混乱していた。


彼女はオフィスの外に出た瞬間、誰かに見られているような視線を感じた。振り返ると、廊下の遠くに立っている影が見えた。すぐに消えたその影が誰であったのか、玲奈には確認することができなかったが、その存在が彼女の不安をさらに増幅させた。


玲奈は自分が追い詰められているのを感じた。彼女が真実に近づけば近づくほど、危険が迫ってくる。別班の内部にいる誰かが、彼女を監視し、彼女の動きを封じようとしているのかもしれない。玲奈は、誰が味方で、誰が敵なのかさえ分からなくなってきた。


その夜、玲奈は自宅に戻り、深い沈黙の中で自問自答した。中村は本当に裏切り者なのか? 彼が消えたエージェントたちに何をしたのか? そして、彼が追い求めているものは一体何なのか?


玲奈は、USBメモリを手に取り、再びその情報を確認しようとしたが、心の中で何かがブレーキをかけた。彼女はすべてを知る覚悟があるのだろうか? その答えを見つけたとき、自分がどんな行動をとるべきなのか、まだ決めかねていた。


しかし、時間は彼女を待ってはくれなかった。玲奈は深く息を吸い込み、意を決して中村に直接問いただすことを決めた。彼に裏切りの証拠を突きつけ、真実を引き出すしかない。


翌朝、玲奈は中村のオフィスに足を踏み入れた。彼はデスクに座り、書類に目を通していた。玲奈の存在に気づいた中村は、顔を上げ、彼女に微笑みかけた。その笑顔には、いつものように親しみが込められていたが、玲奈にはその裏に隠された何かを感じずにはいられなかった。


「田島、どうした?」


中村は穏やかな声で尋ねた。その声には、いつものように温かさがあり、玲奈を安心させるような響きがあった。だが、玲奈はその裏にある冷たさを感じ取り、心の中で警戒を強めた。


「少しお話ししたいことがあります。」


玲奈は静かに言った。彼女の声は冷静だったが、内心では緊張が高まっていた。中村はその言葉にわずかに眉をひそめたが、すぐに微笑みを取り戻した。


「もちろん、どうぞ。」


玲奈は彼の目を見つめながら、USBメモリを取り出し、デスクの上に置いた。その動作は慎重であり、まるで爆弾の導火線に火をつけるかのような緊張感が漂っていた。中村はそのメモリを見つめ、顔の表情を変えないまま、玲奈に問いかけた。


「これは?」


玲奈は息を整え、心を決めて答えた。


「中村さん、これは失踪したエージェントたちに関する記録です。そして、あなたが彼らに何をしたのか、その痕跡が残っています。」


その言葉に、中村の目が鋭く光った。彼の顔に浮かんでいた穏やかな表情が一瞬で消え、冷たい無表情に変わった。その変化はあまりにも速く、玲奈は息を呑んだ。


「田島、君は何を言っているんだ?」


中村の声は低く冷たく、まるで氷の刃のように玲奈の心に突き刺さった。彼のその声には、これまでに感じたことのない威圧感が含まれていた。玲奈はその視線に怯むことなく、言葉を続けた。


「私は、あなたが何をしているのかを知っています。そして、その理由も……」


玲奈の言葉が途切れる前に、中村は立ち上がり、彼女に向かって一歩近づいた。その動作は威圧的であり、玲奈は一瞬後退りしたが、すぐに踏みとどまった。


「君は何も分かっていない。」


中村の声には怒りが混じり、彼の目には冷たい炎が宿っていた。玲奈はその視線に負けまいと必死に立ち向かった。


「それでも、私は真実を知るつもりです。たとえそれがどんなに辛いものであっても。」


玲奈の決意がその言葉に込められていた。彼女は全てを賭けてこの戦いに挑む覚悟を決めたのだ。中村はしばらくの間、玲奈の目をじっと見つめていたが、やがてその視線を外し、深いため息をついた。


「いいだろう。私が何をしていたのか、その理由を教えてやろう。」


その言葉に、玲奈の胸が大きく鼓動した。中村が何を語るのか、それを聞く準備ができているのか、玲奈自身もまだ分からなかった。しかし、彼女はもう後戻りできないことを理解していた。


真実が、今、明らかになろうとしていた。中村の口から語られるその言葉が、玲奈の信念を根底から揺さぶるものになることを、彼女は直感的に感じていた。

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