第7話 部長の悩み
「…隣いいかしら」
「どうぞ」
「タバコはどのくらいお吸いに?」
「いえ、吸ってないですけど」
「あそこにベンツが停まっていますね」
「停まってないですね」
「あそこに一軒家が二つありますね」
「あんまり一軒家を二つって言い方しませんけどね」
「今までタバコを吸っていなければあれくらい買えたかもしれませんねぇ」
「仮に吸ってたとしても家二軒は無理じゃないですかね」
「あなた最近良いことあったでしょ」
「いえ、特には」
「そう」
「なぜですか」
「絶対浮気してると思って」
「そうですか」
「これを聞いて怒らないということは貴方浮気してるのね」
「あんまり付き合って二日目のやつに浮気疑うことないけどね」
夏も過ぎた気がしていたけれど最近の日本はずっと暑い。こんな日なのに月はいつもより、どうも明るくて、それは果たして君の横顔より綺麗だった。
「私さ、文豪の言葉に靡くほど安い女じゃないって思ってたんだけど、案外月が綺麗なのはその通りなのかもね」
そう話してくれたのは幼馴染だった。もういないけど。
中秋の名月のこんな日にあなたと私月を見に行きませんか。そうメールが来ていたから僕はすぐに自転車に跨った。
「久しぶりね、悟」
「今朝ぶりだね、石見」
「もう。嘘ばっかり」
「…そうだね」
石見とは高校から一緒になった。お互いもうすでに2年生も半ばを過ぎている。出会いのきっかけや仲良くなった理由はなんだったか、
「初めて会った時も。こんな夜だったよね、私たち」
多分だけど日中だったと思う。
そうだ、体調の悪さを訴えた石見を保健室まで送り届けたんだった。お互い高校に入って初日だったし、ろくに友達がいるような性格でもないこともあり心細さが通じ合ったかなんだったかで教室から保健室までの道中本当にたまたま仲良くなった。
「月が見たかったの?」
「違う」
「じゃあなぜ僕を読んだんだい」
「月を見せたかったの」
「それは、嬉しいね」
「知ってた?錦帯橋近くのロープウェイは中秋の名月の日だけ営業時間が伸びるの。あの場所であなたと月を眺められたらそれはとても素敵なことだと思わない?」
前を歩く君はイタズラが成功した子供のような笑顔で僕に振り返る。その可愛さに当てられて少しだけ高鳴った心臓を抑えるように。僕はまた歩幅を広げて彼女に追いつく。
「素敵だと思う。うん。今の僕たちに必要なのは穏やかな静寂と月だけだ」
「いえ、そこまでポエミーな事は私望んでいないのだけれど。」
二人は自転車を置いた駐車場を後にした
「そういえば」
唐突に話し出したのは僕らがロープウェイ乗り場の待機列に並び始めた時だった。
「昔のことよ、私は友達の距離感を掴むことがとても苦手な人間だったの」
「そうなんだ」
「えぇ。何度もミスを重ねたわ。心無い言葉をかけてしまったことだって何度もある。本当はそんなこと言いたくないの。でも口から出た言葉は取り消せない。きっと私は怖かったのよ。傷つくのが。そして傷をつけられるのが」
「そうだね、僕もそのタイプかもしれない」
「相手を傷つける事を言うことで相手から投げられる心無い言葉に理由をつけたかった。自分がこんな事を言ってしまったから相手から悪口を言われても仕方がないって思いたかった。自分を。守りたかった。弱い人間よ私は」
「そうかもしれない。だけど、君はもうそうじゃないんだろ」
「いいえ、違うわ。私は変わらないの、わかってるつもりなだけ。幼い頃から染み付いてるのよ。変われるわけないじゃない。性格が悪いの私は、だってそうでしょ、誰も最初から私を傷つける事を言うやつなんて居なかったのよ。勝手に臆病になって勝手に人を傷つけているの。そしてあなたに言葉をぶつけることで、また私は救われようとしてるの、卑怯な人間なの私は」
「だから僕をここに誘ったの」
「そう」
「懺悔のために」
「そうよ。救われたかった。自分を守るために卑屈になった。でもそれは卑屈になったんじゃなくて単に性格が悪くなっただけ。そして今は自分の後悔や懺悔をあなたに背負わせて私だけ助かろうとしてる。もういや」
「そっか」
いつのまにか列は消えていた。
僕たちは今ロープウェイ頂上、時計台の下にいる。
「君は優しいんだね」
口をついて出たのはそんな言葉だった。
彼女はハッと顔を上げる。その顔は困惑。
「性格が悪い奴ってのはさ自覚がないんだ。自分が性格悪い奴だなんて思っても見たことがない、本気でわからないだから性格が悪いんだ。いいかい。いまから僕が言う事は言ってしまえば気休めだ。こんな事を言われたところで君の気持ちは晴れないし晴らす気持ちももしかしたら僕には無いのかもしれない。それでも聞いてほしい、君は確かに思っても無い事を本来言うべきじゃ無い事を言ってしまう事を悔いているのだろう。だけどその悔いていることが大事なんだ。もちろんダメな場合もあるだろう人間同士だし間違いがあれば衝突も起きる。その時は謝ればいい、大抵のやつは実は言葉如きで一生の溝を作る奴なんていない、僕が保証するよ。だからさ、自分は性格が良く無いからと言ってそこまで塞ぎ込む必要はないんじゃ無いかな。むしろそこまでただ良く無い言葉を吐いてしまったくらいで俯けるんだから君は本当に心が綺麗なんだろうね」
僕はそう思うよ。
それは確かに私にとって今後忘れることのない一夜のうちの一つだった。
自分の体にまとわりついていた気持ちの悪い重さがふっと少しだけ軽くなるような気がした。それはきっと本当に気のせいで、次の朝目覚めたらきっと私はまたうなされて陰鬱な自分に戻されてしまうんだと思う。でもそれでもいいとその瞬間だけは確かにそう思った。
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