File13:Side Phantom
空は闇の帳をおろして星々を輝かせている。ティナはそうっと足音を忍ばせ、音を立てないように慎重に正門を抜けた。屋敷の外に出て振り返ってみると、ボゴールの部屋には灯りがついていた。まだ仕事をしている時間帯だ。対してクラリスの部屋は暗いのでもう眠ったのだろう。
他の使用人も眠っている者もいるが、執事やメイド頭などはまだ起きている。彼らに見つからないよう、ティナは静かに庭へと歩いて行く。
茂みの前に来たところでティナは辺りを見渡し、誰もいないことを確認してから声をかける。
「いる?」
すると、茂みの中からローランの声が返ってきた。
「おう」
ティナはローランを介してアデルと連絡を取っていた。アデルは、ローランを庭師として潜入させることでティナが動けない時でもボゴール家の情報を集められるようにしていた。ティナよりも自由に動くことの出来るローランは、自身が集めた情報とティナからの情報を定期的にアデルに報告している。そうすることで早く作戦を練ることが出来るのだ。
「情報は何かあるか?」
「クラリスお嬢様についての情報ならたくさんある」
「お嬢様の情報は要らないだろ。金になりそうなものはあったか?」
「屋敷の中に絵画や骨とう品とかいっぱいあるけど。アデルはどのくらいの価値があるものを狙っているの?」
ローランは声をひそめて答える。
「この屋敷で最も価値のあるものが欲しいと言っていたな」
「最も価値のあるもの……」
ティナは自分が知ったことを一つずつ思い浮かべてみる。
ボゴールが大事にしているものは、酒造権、従業員、契約先の農家、そしてクラリスだろう。反対に彼は価値のある芸術品には興味を示していない。屋敷にある芸術品は、みな亡き奥方マチルダが集めたものだと使用人に聞いたことがある。その中で“最も”を選ぶのは難しい。どれも同じくらい彼にとって価値があるはずだ。
「あたしは絵画や壺の価値なんて分からないから、一度アデルに見てもらった方が良いかもしれない」
「アデルも潜入するってことか。一度、話してみる」
「ええ」
茂みが揺れるとローランの気配は消えた。屋敷を出てエデルミナ孤児院へと向かったのだろう。
ボゴールの屋敷は周りを取り囲むようにして石壁が建てられているのだが、メグナコの森で小さい頃から遊んでいたエデルミナ孤児院の子ども達にとっては、簡単に乗り越えることが出来る。今まで培ってきた身軽さがここで大きく役に立つとは思わなかった。
ティナは自分の部屋に戻ろうと、身体の向きを変えた時だった。
女性の声ですすり泣く音が庭の奥から聞こえてくる。ぞっと背筋を凍らす音にティナは青ざめる。
(まさか幽霊とかじゃないよね……)
幽霊といった人ならざるものは昔から大の苦手だった。だけど、様子を見に行かなければ今晩は気になって眠れないだろう。ティナは慌てて部屋に戻り、ランタンを手にして音がした方へ向かった。
(確かこの辺りで……)
声のする方へ近づいてみると、女性のすすり泣きが鮮明に聞こえてきた。東屋の方から聞こえるらしい。ティナは恐怖を押さえながらランタンをかざす。そこにいたのは——
「クラリスお嬢様?」
声をかけると、美しい女性が振り返る。目は赤く腫れていて、いつもの笑顔はなかった。
クラリスは目に涙を浮かべたまま、ティナを見る。
「こんなところで一体どうされたのですか」
心配になりクラリスに駆け寄る。ティナはスカートのポケットから未使用のハンカチーフを取り出して、クラリスに渡した。何かあった時のために綺麗なハンカチーフをいつも持ち歩いている。ここで役に立つのは良かったとティナは思った。
彼女はティナからハンカチーフを受け取ると、目の端に溜まった涙を拭く。
「何かあったのですか」
クラリスにローランとの会話を聞かれていないか不安になりながらも、泣いている彼女を放っておけず、背中を優しくさすった。
「不安なの」
鼻がつまったような声でクラリスは答える。何が不安なのだろう、とティナが首を傾げるとクラリスはゆっくりと話し始めた。
「このまま結婚するのが……わたくしは不安なの」
「どうして? 婚約者が嫌なのですか」
「いいえ。グウィン様はとても素敵な方よ。わたくしもお慕いしているし、そんな方と結ばれるのは光栄なことだと思っているわ。でも」
クラリスは体を震わせながら泣き出す。
「わたくし、本当はお父様に愛されていないんじゃないかって思ってしまって。だからこのまま結婚してしまうのが怖くてたまらないの」
ティナは目を丸くした。第三者から見てもボゴールは娘のクラリスを大事にしていることは伝わる。だけど、当の娘が父からの愛情を疑っているとは考えもしなかった。
「昔、お母様がまだご存命だった頃にはお父様もわたくしとよく遊んでくださったの。本を読んでくださったり、一緒に馬に乗ってくださったり。わたくしはまだ幼かったけれど、よく覚えているわ。家族と過ごす時間が、わたくしにとって何よりの宝物だったの」
「……」
ティナは黙って背中をさする。母と父の顔を知らないティナにとっては、本当の家族と過ごす気持ちは想像できない。だが、思い出を楽しそうに語るクラリスの横顔を見ていると、彼女の記憶は大切なものなのだろうと感じられた。
「だけど、お母様が熱病で亡くなってからお父様は仕事ばかりで、わたくしとの時間を取らなくなってしまったわ。食事だって今は別々にとっているし、屋敷にいるのに会わない日だってある」
クラリスの目の下は何度も擦ったせいで赤くなってしまっている。
「わたくしは少しでもお父様とお話がしたくて、商いの勉強をしてギルドを立ち上げたの。そうすれば、仕事のことでもお父様と会話が出来ると思ったから。でも、うまくいかなかった……」
クラリスは寂しかったのだとティナは察する。父と娘の微妙にすれ違った関係がクラリスの寂しさを膨らませたのだろう。
「婚約が決まった時、お父様はとても喜んでくださったわ。わたくしも嬉しかったけれど、お父様は本当のところはわたくしを愛していなくて、政略結婚の道具として見ていたんじゃないかって思ってしまったの。もちろん、貴族のご令嬢や他の大きな商家のお嬢様だって政略結婚をするのは当たり前だから、わたくしの悩みは随分贅沢なことだって分かってる」
でも、とクラリスは続ける。握られた拳が震えていた。
「お父様が本当に思っていることを聞きたいけれど、聞いてしまうのが怖いの。でも、この不安な気持ちのまま結婚をするのは嫌……」
ティナはそっと震えるクラリスの手に自分の手を重ねる。彼女の悩みは随分と贅沢なものだ。両親から愛され、使用人からも尊敬されて生きてきた彼女だからこそ持つ悩み。眩しくて、少し妬ましくて。だけど、どろどろとした嫉妬心を抱かないのは、裏表がないクラリスが相手だからだろう。
この世界は残酷な面を持ち合わせている。自分の利益のために子どもを平気で売る親だっているし、子どもに愛情を注がない親なんてたくさんいる。そこに貧富の差は関係ない。決して綺麗なだけの世界じゃない。でも、クラリスはそんな世界を知らないで生きて欲しいとティナは強く思う。
(綺麗な貴女には綺麗なままで居て欲しい)
彼女は考えた。クラリスの悩み解消と二代目怪盗ファントムの目的を両方達成できるのではないか、と。クラリスの想いを利用してしまう形になるのは心苦しいが、何もしないよりましだと思った。
「クラリスお嬢様。あたしの知り合いなら貴女の悩みを解決できるかもしれません」
「本当に?」
「ええ。彼女に聞いてみます。答えが出るまで少し待っていてくださいませんか」
ティナの真っすぐな視線を受け止め、クラリスは頷いた。
「分かった。ティナがそう言うならわたくしは任せるわ」
「ありがとうございます」
「ティナ、ありがとう」
「お礼を言われるような事は何もしておりません」
ティナが答えると、クラリスはふっと笑った。いつもの彼女が戻ってきている。
「いいえ、貴女はわたくしに泣かせてくれた。他の使用人だったら“お嬢様は人前で泣かないものです”って叱ると思うの。でも、ティナは許してくれた」
「……どんな立場の人も、泣きたくなる時は平等に訪れます」
クラリスはふっと笑って自分の額をティナにくっつけた。至近距離で正面から見つめあう形になって、ティナは思わずどぎまぎしてしまう。
「本当に、本当に、ありがとう」
クラリスの感謝の言葉がティナの耳にずっと残っていた。
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