Side Phantom
File12:Side Phantom
ティナは両開きの扉を軽く叩いてみる。
「お嬢様、おはようございます」
扉越しに声を掛けてみるが、返事はない。彼女は扉に耳を当て中の音を拾おうとする。何も聞こえない。まだ寝ているらしい。
彼女は扉を開けて中へと入る。部屋はピンクと白で統一された、可愛らしい内装だ。天蓋付きの寝台には、ティナの主人であるクラリスがまだ寝ている。天蓋越しに見えるシルエットが寝がえりを打つ。
ティナは窓に近付くとカーテンを開けた。日は昇ってから数時間経つので、眩しいくらいの太陽の光が部屋へと注ぐ。しかし、クラリスはまだ起きない。ティナは仕方がないな、と思いながら天蓋を開けた。
ふかふかの寝台の上で寝そべるクラリスは、上質な絹で作られたネグリジェを着ている。海外から取り寄せたらしい高品質の羽毛布団は、彼女によって蹴り飛ばされて床に落ちていた。
(寝相だけ目をつむればお人形さんみたいよね)
ティナはだらしない主人の寝相にふふっと少し笑って、クラリスの耳元に顔を近付ける。
「お嬢様、朝です。起きてください」
「ん~、あと五分」
クラリスはティナの背後にある窓から入ってくる陽光に、眩しそうに顔を顰めていた。
「五分も待ちません」
「ティナの鬼~」
鈴を転がしたような可愛らしい声ですねるクラリスに、孤児院の子ども達と接しているような感覚になって、ティナは少し寂しさを思い出した。
彼女はアデルの作戦通り、スパロウに偽の身分証を作ってもらい、ボゴール家の侍女募集に応募したのである。偽造した身分は、北の辺境にあるキーウィーで海産加工業をおこなっている商家ハムリンの長女となっていた。が、ハムリンという家名はでっちあげである。
ボゴールが気付いたら作戦は水に流れてしまう、と思ったが、アデル曰くボゴールはキーウィーまでは手を広げていない。その為、向こうにあるギルドとやり取りをしないし、伝手がないから出来ないだろうと。万が一、交流があったとしてもボゴールの業種は酒造業。海産加工業とは商売をしないだろうから、そこまでは調べないはずだと言っていた。これが農家や醸造設備を作れる職人の設定にしたらまずいけどね、とアデルが笑っていたのを思い出す。
実際、面接ではスパロウが作った身分証を提示してボゴール川が写しを取っただけで終了した。ティナが応募者の中から選ばれたのも、ボゴールがティナの身元を詳しくは調べていない証拠である。全てがアデルの目論見通りであった。
(面接に来ていた他の人も、アデルが言っていたみたいにきちんとした作法を知らない子ばかりだったな)
彼女が言っていたようにボゴール家よりも格が下がる商家の娘ばかりだった。中には男爵位を持つ家から来た者もいるが、没落貴族のようで金がないのかその娘には学も作法も教えていなかったようである。ティナが教わったような作法は誰も身についていなかった。
本当の身分だけで言えば孤児のティナが一番格下であるはずなのだが。
ようやく体を起こしたクラリスの背中に手を添え、彼女が再び寝台に沈まないようにしてやる。まだ開ききっていない目で起き上がる。ティナはクラリスの手を取り、鏡の前にある椅子へと誘導した。
クラリスを座らせるとティナは櫛で主人の髪を梳かす。美しいブロンドの髪は、櫛で梳かされたところからどんどん輝きを増していく。彼女は愛おしいものを扱うように、そっと大事に髪を梳かす。
「ティナはわたくしの髪を梳くのが上手よね」
無邪気に笑うクラリス。ティナは少し微笑みを浮かべた。
(作戦のためというのを抜きにしても、あたしはお嬢様と居られる時間が楽しい)
ティナが侍女になってから間もないが、すぐにクラリスのことは好きになった。豪商の娘でありながら、我儘を言う事なく、素直で、誰にでも気さくに接してくれる。常に笑顔を浮かべて楽しそうに過ごす彼女に、ティナは好感を持っていた。クラリスも年が近いティナを気に入ってくれたようで、何をするにしても付き添わせてくれる。
使用人と侍女、怪盗とターゲットの間柄ではあるが、彼女達の間には絆が芽生えていた。
「クラリスお嬢様の御髪はとても美しいですから、梳いている時間が楽しいです」
「まあ、ありがとう。わたくしもティナの髪と瞳の色、好きよ。葡萄酒みたいで綺麗だわ。今は肩上くらいの長さだけど伸ばしてみることはしないの?」
クラリスは後ろを振り返ってティナを見上げた。彼女の少し灰色がかった銅色の瞳に困ったように笑っているティナが映る。
「あまり髪が長いと邪魔ですから」
「お洗濯やお掃除のときに髪をあげなきゃいけないものね。それは確かに邪魔かも」
クラリスはうんうんと頷いてみせる。お嬢様だから家事は知らないはずなのに、と思ったが、少し前にティナを手伝おうとして洗濯、掃除をやっていた事を思い出す。クラリスはボゴールに注意されたが、はにかむ彼女は本当に優しくて眩しかった。
「そういえば、お嬢様。本日のご予定ですが、朝食が終わりましたらドレスのデザイナーと打ち合わせがあります」
ドレスはクラリスが結婚式で着る花嫁衣裳のことである。王都で有名なデザイナーと契約して特注で作ることになっていた。
「……分かったわ」
両想いの人と結ばれるはずなのに、最近のクラリスは物憂げな表情をよくしている。少し声に陰りがあるのが気になったが、ティナは詮索しなかった。
「ねえ、ティナはどんな人と結婚したい?」
「え、あたしは……」
空気を変えるようにクラリスが話題を変えてきた。戸惑うティナにクラリスは、いつもの明るい笑みを浮かべて答えを期待する眼差しを向ける。
「あたしは……出来れば結婚はしたくないです」
「えっ、どうして?」
クラリスは口に手を当てて驚く。彼女の仕草の一つ一つが絵本から出てきたお姫様みたいで愛らしい。
「あたしは男性が苦手なので」
苦手というのは少し嘘をついている。本当は嫌いなのだ。近付くだけでも吐き気がするし、近付かれると蕁麻疹が出ることだってある。
エデルミナ孤児院にも男はいるが、彼らのことは家族と思っているので問題ないのだが、初対面やあまりよく知らない男性のことは大嫌いだった。
今はハムリンという商家の娘という設定なので、男が苦手と答えるのは間違っているのは分かっている。しかし、嘘はつけなかった。
ティナが男性に何かをされたわけではない。娼婦だった母が客の子を産み、エデルミナ孤児院へ捨てていった、自分の出生を知ってからだ。ティナがどうやって孤児院に来たのかを知りたがって、ラザールに聞いた時の顔が忘れられない。“自分の出生を知っても気持ちの良いものではありませんよ”と何度も言われた。それでも自分はどこから来たのか知りたくて聞いた。ラザールは悪くないし、聞き出したのは自分だが、自分の出生が今の性格を作り出したのは事実であった。
(まぁ、孤児院の皆は決して恵まれた出生ではないからあたしじゃないけど)
アデルの母は許されない恋から彼女を産んだし、ローランは不義の子である。スパロウは口減らしに男娼に売られたところを縁あって孤児院に来た。誰もが幸せな家庭から生まれたわけじゃない。己の境遇を不幸と感じたことはないが、クラリスを見ていると羨ましい気持ちはあった。
「じゃあ、どんな大人になりたい?」
クラリスはティナの言葉を否定することなく、話を変えてくれた。天真爛漫で人に優しいクラリスは、目立たたない配慮が出来る人間だ。ティナが彼女を妬むことなく、大好きになったのはこうした部分があるからだ。
二人で未来の話に花を咲かせつつ、クラリスの身支度を終えていく。朝食は部屋に運ばせた。
「ティナはもう朝ご飯食べた?」
「まだです」
クラリスがデザイナーと打ち合わせしている時くらいに取ろうと思っていたが、彼女が空いている席にティナを座らせた。
「じゃあ、一緒に食べましょう」
「で、できません! 旦那様にまた叱られますよ」
使用人が主人と同じテーブルで食べるなんて考えられないことである。ティナは珍しく表情を表に出した。
「叱られるのはわたくしだけだから良いの。それに、今は商家の娘同士の朝食会ってことにすれば問題ないわ」
悪戯っぽく笑うクラリスに思わずティナは笑ってしまう。
(どうか、この素敵な人が幸せになりますように——)
ティナは意識の端でそう願ったのだった。
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