Side Detective
File8:Side Detective
扉が軽快な音を何度も立てる。深い眠りについていたエリックは、ぼうっとする頭で考える。
(あぁ、寝転んでそのまま眠ってしまったのか)
考え事をしていたはずがいつの間にか寝ていたらしい。
(そりゃあこんなにふかふかなベッドだったら寝てしまうぜ)
自宅の寝台はペシャンコで、掛け布団もスライスされたハムより薄いものである。冬の寒さには到底耐えられない。見かねたジョンが毛布を贈ってくれなければ死んでいたかもしれないほどである。
どうしてそんなにお金がないのかと思うだろうが、エリックは売れっ子の探偵である。
しかし、革靴やスーツに目が無いせいで手に入れた報酬を全て使ってしまうのだ。明日のことは明日に考える。彼にとって大切なことは、革靴とスーツと猫と、今目の前にある謎を解くことだけだ。
「エリック、いるかい?」
扉を軽く叩く音に続いてジョンの控えめな声が聞こえる。エリックは寝台の上から返事をして、寝癖がついたままの頭で扉を開けた。
「あと一時間後に祝賀会が始まるよ……って今起きたみたいだね」
美しい幼馴染は呆れたように眉を下げている。エリックは大きな欠伸をしながら頷いた。
「知らせてくれてありがとう。ボゴールさんが言っていた食事は無いのか?」
「軽食を用意してくれたけど、きみが起きなかったからわたしとボゴールさんだけで済ませたよ。それよりきみ、その姿で参加しないよね?」
「……」
きょとんとした顔のエリックを見たジョンは血相を変えて、自分のゲストルームに戻って行く。日頃の優雅な振る舞いはどこへいったのかと思うほどに、慌てた様子で櫛やポマード、剃刀と水桶などを手に持って来た。
「様子を見に来て正解だったよ! ぼさぼさの状態で祝賀会に出られたら恥ずかしいよ」
「まぁ、いつもジョンが何とかしてくれるから大丈夫さ」
彼に促されるまま、ゲストルームにある鏡台前に置かれた椅子に座る。
「わたしに何とかしてもらえるからって……」
ジョンは文句を言いながらもエリックの黒髪を櫛で梳かしていく。
「なぁ、聞きたいことがあるんだが」
「何だい?」
エリックは自分の体をジョンに全てを任せて、口だけを動かしている。
「クラリス嬢のことについて、どんなことでもいいから教えてくれないか」
ジョンは手を止めて少し考える様子を見せたが、すぐに再開した。
「わたしが知っていることは多くないけれど」
「問題ない」
「ボゴール家にはクラリス嬢だけしか子どもがいないんだ。クラリス嬢は女性ながら商才もあるようでね。酒造業や飲食業の商人や職人が加盟できるギルド“バッカスの盃”を作ったのも彼女なんだよ。初代ギルドマスターとして手腕を発揮したらしい」
「ほう、どんな功績を残したんだ?」
流れるような動作でぼさぼさだったエリックの髪は整えられていく。ジョンの手さばきにより、ポマードで固まった髪は流行を取り入れたお洒落な髪形になっていた。
ジョンは水桶を近くに置く。石鹸を取り出し、水で濡らしてこすり泡を作る。白く雲のような柔らかい泡が出来上がると、髭が生え始めているエリックの口元に塗り始めた。
「ルヴィアイの飲食店では、お酒を頼むことが出来るようになったんだけど、これもクラリス嬢がギルドを設立してくれたおかげだと父上が話していたよ。酒造業者と飲食業者が直接やり取りを出来るから、お酒の流通が進んで専門店以外でも取り扱えるようになったそうだよ」
口元に泡をつけながらエリックは問う。
「かなり優秀なマドモアゼルなんだな。商才があるなら婿でもとって彼女を後継者にすればいいのに」
「わたしも同じことを思っていたんだけどね、商売の世界は男社会だから、女性のクラリス嬢にとっては辛いことも多いだろうという親心で一般的な令嬢と同じ結婚の道を選んだんだと思うよ」
ふうむ、とエリックが息を吐くと泡が小さな塊になって鏡へ飛び散る。ジョンは文句を言わずに布で拭くと話を続けた。
「でもクラリス嬢と兄上は相思相愛の末の結婚だから、彼女にとって家庭に入るというのは、幸せな事なのかもしれないよ」
「決められた結婚をするのは庶民もそうだが、上流階級では好きになった人と結ばれることは特に難しいと聞くからな」
ブルーベラ王国では、親が決めた相手と結婚することが当たり前である。中には、自分の好きになった人としか結婚したくないという信念を貫く猛者もいるが、強行突破で結婚しようと思えば駆け落ちするしかない。そうなれば、お互いの家族とは絶縁となるだろう。
巷で人気の大衆小説でも、自分が好きになった人と添い遂げる話が人気である。現実ではなかなかうまくいかない事だからこそ、創作の世界に憧れや癒しを求めるのだろう。
王国の文化を考えると、クラリスとジョンの兄との結婚はかなり稀で幸せな事なのだ。本人たちが本当のところ、どう思っているかはエリックには分からないが。
「よし、出来た。自分で言うのもなんだけど、かなり男前に仕上がったんじゃないだろうか」
濡れた布で口元の泡を拭うと、陶器のような肌が現われた。鏡に映るエリックは貴族と言われてもおかしくないくらい、高貴な雰囲気を纏っている。
「身支度が終わったらちょうどいい時間帯だね。着替えたらこのまま祝賀会に参加しよう」
「着替えは持ってきていないぞ」
「ボゴールさんが既に用意してくれていたらしいんだ。ほら、そこにかけてある」
ジョンが示した方に顔を向けると、黒色の燕尾服がかけられていた。近付いて触ってみると、滑らかな手触りで光沢のある生地で作られているようだ。材料は高品質の絹だろうか。
(ほう、革靴まで用意しているのか。準備がいいな)
燕尾服に合うような黒色の革靴も置かれている。エリックは革靴以外、ボゴールが用意してくれた衣装に着替えると、廊下で待っていたジョンに合流する。そして、祝賀会の会場である応接室へ向かった。
「一時間前だというのにかなりの人が来ているな」
エリックとジョンが会場に着くと、大勢の人で応接室が埋まっていた。昼間に見せてもらった、声が響くほど広い空間が狭く感じるほどに人で溢れている。
「遅刻厳禁だからね。誰かさんと違ってみんなルールを守るんだ」
「俺は招待されているんじゃなくて、捜査している側なんだ。だからルールは適用されない」
エリックは屁理屈をこねながら会場に視線を這わせる。壁際に治安部とボゴールが雇ったのであろう護衛達が立っていた。
(ファントムが招待客や護衛に紛れていたとしても宝石を盗むのは困難だな。保管場所は密室だし、展示されている間でも周りの目がある。俺がファントムならここでは狙わない。だが、予告状を書いている。初代を尊敬しているつもりなら予告状の通りに盗みを働くはず)
エリックが一人で考え込んでいると、前の方から人の波を掻き分けてこちらへやって来る淑女の姿が見えた。
彼女はフリルがたっぷりとあしらわれた深い青色のドレスを身に着け、ヴェールがついた顔よりも大きい帽子を被っていた。祝賀会の主役ともいえる人物が帽子を被っている事に違和感を覚えたが、誰も指摘していないうえ、横にいるジョンはいつも通りなので、エリックは自分が流行に疎いだけなのだろうと思った。
「はじめまして、探偵さん。昼間はご挨拶が出来なくて申し訳ございませんでした。わたくし、ジャン・ボゴールの娘でクラリスと申します」
彼女は、ヴェール越しでも分かる美貌を持った女性だった。ジョンのように優雅な動作でスカートの裾を少しだけ摘まみ上げて、膝を曲げる。人に対して興味を持たないエリックでも見惚れるほどの気品があった。
「こんばんは、クラリス嬢」
隣に立っていたジョンが自ら挨拶をする。クラリスは少しだけ間を置くと、クスクスと小さく笑い声をあげた。まだ声は枯れたままのようで少し擦れている。
「まあ、お久しぶりですわ。以前にお会いした時はどのくらい前でしたでしょう?」
「兄上との正式な婚約が決まった時なので……五か月ほど前でしょうか」
ジョンとクラリスはお互いに顔を見合わせ笑い合うと、世間話に花を咲かせていた。すると、彼女の近くに眼鏡をかけた侍女がやって来て耳打ちをする。髪と同じ葡萄酒色の瞳には、憎悪の感情が浮かんでおり、話したこともないエリックに向けられた。
「ジョンさま、探偵さん。祝賀会が始まりますわ、楽しんでいってくださいまし」
帽子から覗く金色の髪がひと房、揺れた。
クラリスは眼鏡の侍女を連れて父の元へ歩いて行く。そして、ボゴールはクラリスを参加者に改めて紹介すると、大きな声で言い放つ。
「娘の誕生日を祝うものですが、みなさまも今夜はどうぞ楽しんでいってください。娘が生まれた時間には、我が宝をお見せいたします」
招待客は何度か参加したものも多いのか、ボゴールの言葉に楽しみだと口々に呟く。
(さて、怪盗ファントム。俺との勝負が始まるぞ)
エリックは己が解かなければならない“謎の種”に胸を躍らせる。口角が上がっていた事にも気づかないほどに。
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