File6:Side Phantom

 一人用の寝台に寝そべり、アデルは辰砂の首飾りをかざして見ていた。窓から入って来る月光に照らされ、赤い石は妖艶に光る。寝台に広がる白と銀の髪は、今宵の星空のように美しく輝いていた。


「……ラザール先生ならどうするかしら」

 月光に石を照らしながらアデルは独り言ちる。彼女はそっと瞼を閉じた。


「貴方は私を軽蔑しますか?」

 今でも脳裏にはっきりと刻まれている記憶。彼女が今手にしている辰砂の首飾りを大事そうに眺めていたラザールに言われた言葉だ。苦しそうな顔をして、アデルに問いかけたあの表情は今でも忘れられない。ラザールは、ずっと自分が大怪盗ファントムであった過去を背負って、エデルミナ孤児院で過ごしていたのだから。彼の気持ちを想像すると胸が苦しくなる。世間から見れば悪い奴なのだろう。だが、自分達をここまで育ててくれたこと、愛情をたっぷりと注いでくれた事は嘘だと思えないし、孤児院にいた頃の彼が本当の姿だったのだろうとアデルは思う。


 *


 あの日、アデルはラザールを呼びに彼の自室へと向かったのだった。スパロウが庭で畑作業をしている時に農具で指を切ってしまったからである。救急箱はラザールが持っていたので、彼女は借りに行こうとした。部屋の前に来ると、扉が少し開いていて、中にいるラザールの様子が見えた。決して覗こうとは思っていなかったが、彼が手にしていた赤い石がはめられた首飾りを見て、あっと声を上げてしまったのである。


 アデルが部屋の前にいた事に、ラザールは驚いた表情を一瞬浮かべたが、すぐにいつも柔和な笑みを浮かべて歓迎してくれた。手に持っていた首飾りを後ろ手で机の引き出しに戻しながら。

 昔から彼女は聡明だった。人の感情をすぐに察し、状況を素早く把握、そして機敏に対処できる人間だった。だからラザールが首飾りに触れて欲しくないことも、よく分かっている。しかし、アデルはどうしても聞いてみたくて、ラザールの気持ちを察しながらも聞いたのである。


「先生が今持っていた首飾りは“竜の血で作られた賢者の石”で出来た首飾りでしょう?」

 真っ直ぐに青い瞳を向けると、ラザールは分かりやすくたじろいだ。

「アデル、この首飾りを知っているのですか」

「見た事はないわ。でも、新聞で読んだことがあるの。確か教区にある図書館で読んだのだったかしら。保管されている昔の新聞に“亡きラズベリナの王女が所有していたとされる竜の血で作られた賢者の石の首飾り——現所有者はペストリー家——、大怪盗ファントムに盗まれる”と書いてあったの」

 するとラザールは驚きつつも嬉しそうに笑った。

「驚いた、君の年でもう新聞なんて難しい読み物を読めるなんて」


「私は頭が良いから。ねえ、大怪盗ファントムっていうのは先生のことでしょう?」

「どうしてそう思うんだい?」

「一介の孤児院の院長が持つ品じゃないから。前の所有者であるペストリー家って小貴族なのでしょう? 亡国の王女が持っていた品はラズベリナでの国宝。それほど価値があるものをただの庶民が持てるはずがない」

 アデルの推理に、ラザールが何故だか嬉しそうな顔を浮かべ続けるのが印象的だった。

「でも、私が誰かから譲ってもらったものかもしれませんよ」

「その可能性もあると思って、所有者の登録記録を見たわ。そうすると、ペストリー家の次に所有者になったのがエデルミナっていう女性だった。このエデルミナって先生の奥さんじゃなかった?」


 アデルが言うと、ラザールは本当に嬉しそうに笑いながら手を叩く。

「凄いですよ、アデル。君は本当に頭の良い子です。よく調べ上げましたね。君の言う通り、私が大怪盗ファントムでした」

 ラザールは徐々に顔から笑みを消していくと、苦しそうな顔になる。亜麻色の瞳には、後悔の色が浮かび上がっている。

「貴方は私を軽蔑しますか?」

 まるで聖職者が女神の前で懺悔するような、救いを求めるような声だった。いつも明るく、楽しく、アデル達に勉強や大切なことを教えてくれる時のような、幸せと自信に溢れた声とは正反対だった。


 アデルは一点の曇りもない青い眼をラザールに真っ直ぐと向けて答えた。

「いいえ」

 ラザールが息を吐くのが感じ取れる。アデルは言い加えた。

「軽蔑はしないわ。亡き国の王女が持っていたとされる石は、悪徳貴族によって強奪されたとの記事もあった。先生はそれを取り返したかったのでしょう? 怪盗ファントムが盗む宝はどれも貴族や富裕層が金に物を言わせて、誰かから強引に奪い取った品ばかりだったもの。それに——」

「それに?」

「この前、主要区へブルーベラ蜜のお菓子を運びに行ったとき、図書館でラズベリナ王国史を見たの」

 アデルの言葉にラザールが苦い笑いをこぼす。


「アデル……配達途中で油を売らないでください」

「ちゃんと配達した後の話よ。みんなは真っすぐ孤児院に帰ったけれど、せっかく主要区に来たのに帰るなんてもったいないじゃない。ところで、話を戻すけれど、王国史には王族の家系図も載っていた。家系図の最後には王女の名前が書いてあって、彼女の名前はエデルミナだった。エデルミナってブルーベラ王国ではあまり見かけない名前だし、ラズベリナ王国があった地域の民族が使う名前でしょう。だから先生の奥さんって亡国の王女じゃない?」


 ラザールはポマードでしっかりと撫でつけた頭を指でかく。どう答えたものか、と考えているようだった。しばらく黙っていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

「全て君の言う通りです。私の妻は亡国ラズベリナ王国の王族でした。彼女は女王の孫でした。君は生まれていなかったから知らないと思いますが、ラズベリナ王国というのは辰砂が採れる鉱脈を持つ場所だったのです」

 そう言いながら彼は先ほど、机の引き出しにしまいこんだ首飾りを取り出し、アデルの小さな掌に乗せてくれた。真っ赤な石は本当に竜の血のようで、見ているだけで吸い込まれそうなほど美しかった。


「辰砂を採れるのは世界でもラズベリナ王国だけでした。他国から狙われ、小国だったラズベリナはブルーベラ王国と統合する事でラズベリナの民は守られたのです。ですが、王族はラズベリナの民から“国を売った裏切り者”とされ、彼らは故郷に住めなくなったのです。それから彼らがどのように暮らしていたのかは分かりませんが、私と出会ったとき、エデルミナは修道女でした」

 その時に彼女がお守りとして、祖母の形見であるこの首飾りを大事に持っていたのだとラザールは話してくれた。彼女は早くに母を亡くしており、唯一の血縁が祖母だったのだという。


「ですが、訳あってエデルミナの首飾りはペストリー家に無理矢理献上させられたのでした。彼女は大事な祖母の形見が無くなった、と泣いていたのです」

「先生はどうにかしてあげたかった……」

「はい。私が怪盗ファントムとなったのは、ペストリーからエデルミナの首飾りを奪い取るのがきっかけなのです。首飾り事件が初めての盗みでした。今、思えばこの時に上手くいってしまったから調子に乗って大陸全土を渡り歩いて盗みをはたらいたのかもしれません」

 ラザールは自嘲するような笑みを浮かべる。アデルだけが真面目な顔だった。


「先生はずっと、ずっと過去を悔やんでいると思う。私はそのことを分かった上でお願いをしたいの」

 このタイミングでお願いとは何だろう、と言いたげな顔を浮かべるラザールに、アデルは自身の胸に手を当て、真摯に訴えかけた。

「先生の培った技術を私に教えて欲しい」

 アデルのありえない願いにラザールは目を丸くする。そして、勢いよく首を左右に大きく振った。


「そんなこと出来るわけがありません。絶対にしませんよ。私が培ったのは盗みの技術です。君達が得るべきものは、神に向かって堂々としていられるような、大人になるための知識と経験です。その中には盗みの技術は不要です。わざわざ日陰者になろうとしてどうするのですか」

 ラザールの言葉にアデルは怯むことなく、言い返す。

「先生も薄々気付いているでしょう。この世界は富める者が貧しい者を搾取して、どんどんと富を増やしていく。このルヴィアイの地はアイベリー候が善政を敷いてくれているけれど、それは今の当主だから出来ていること。次期当主が同じ質を維持できる保証もない。もし、今の状態が崩壊すれば真っ先に社会から切られてしまうのは、私達のような弱い立場の人間なのよ」


 そうなった時、とアデルは続ける。

「明日を生きるために手段を選んでいられない時が来るかもしれない。その状況になった時でも、どうするか選べる道を増やしておきたいの。それが日陰者の道だとしても生きるためなら私は構わない」

 ラザールはただ黙って聞いていた。長い間、黙っていた。難しい顔を浮かべてラザールは観念したように手を挙げる。

「本当に君は恐ろしい子どもです。頭がきれすぎて怖いくらいですよ。君が男性で家柄が良ければきっと良い宰相になれたでしょうね。仕方ない、技術を教えるだけですよ。決して、己の欲を満たすためだけに使わないでください。約束できますか?」

「ええ、出来るわ。私は自分と孤児院のみんなを守るために使う」

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