その31 閻魔のボトム
(31)
コンビニのイートインコーナーから見える日常の風景が、突如、切り取られて捲りあがると、非現実へ剥がれ落ちてゆく感覚にロダンは襲われた。
その剥がれ落ちた先へロダンは視線を送る。その非現実世界に居るのは、――猿渡燕。彼の事を卍楼の案内人『閻魔』と言う。
そしてロダンは自ら卍楼で知り得たこの『閻魔』という意味を今更ながらに思いだした。
それは、いつか…
そしてその事を誰から聞いたのか――、ロダンの回想によれば、それはまだロダンが変装して百眼を演じる少し前。
そう、この卍楼の事件の一月前だ。
客として『酔鯨』で酒をひとり飲んでいた時、宵闇に包まれた店の木戸を開けて不意に入ってきた燕をロダンは見た。
彼の容姿は今と寸分変わらない。
ロダンの彼を追う視線。
燕は何かを調べているのか、ちょいと目線を何かに向けると店の主人へ手で挨拶して出て行った。
それはほんの何気ないことだったかもしれないが、ロダンには燕という存在がそれだけで非常に印象に強く残った。
いや、強く残ったのは店の主人が彼に言った言葉の所為かもしれない。
――ご苦労さん、閻魔はん。
その言葉がビールを飲みかけたロダンの手を止め、さらに興味を引いた。
(――閻魔やて?…中々に殊勝なあだ名やないか)
興味が湧くと自分を押さえられない。ロダンは店の店員を呼ぶと、何故、あの男を閻魔と言うのか聞いた。
若い店員は隠す素振りもなく、ごく当然のようにロダンへ言った。
――あ、あれ?閻魔さん、昔から卍楼ではそういう人が見回りでおんねん。最近はクーラかけすぎてないか…、ブレーカーが弱いからね、見回りに…
言われてロダンは驚いた。そんなしきたりがこの卍楼にあるとは。
実は自分は或る事が卍楼に関連していないか、ちょっと調べ事をしていて、その継いでに今ここで一人飲んでいるが、その事は置いといたとしても、実に今聞いたこの卍楼のしきたりは面白いし、『閻魔』というのはユニークだ。
翌日その面白い興味を持ってロダンは西願寺の所へ行き、昨晩自分が聞いた事を尋ねた。
すると事実として『閻魔』というのは卍楼に居て、この西願寺と関係しているという事を聞いて、増々驚いた。
ほう、と唸って顎を撫でるロダン。
そして興味を持って、再び尋ねた。
尋ねられた人は言う。
――だが、案内人の事を『閻魔』と言うのは卍楼の古くからを知る者達だけやな。
では『古く』とはいつの頃か?とロダンが尋ねると、それは戦後、空襲で一部が焼け残った卍楼に闇市が出来た頃だという。
ロダンは思う。
その頃の日本は物資の乏しい時代。
そんな乏しい時代の物資の集まる闇市とはいえ、戦中戦後は物が集まらず、生活は困窮していた。そして物が不足することが、犯罪者を生む。
ならばその闇市へ物を流し込み、物と銭を公平に差配する者が居れば、物資を皆に分配でき、犯罪に手を染める者が減るのではないか――、そして卍楼は西願寺の所有だ。
仏は現世利により衆を救うことに否定できぬ本願がある。
焼け落ちて残った卍楼という西願寺の別院を衆に開放し集まる人々を平等にあまねく救済することは僧行基が遥かな御代に衆救済として事業を起こした如く、仏門の大家西願寺が戦後の闇ともいえる地獄世界を現世の華厳として照らすこととして現世における意味がある。
そして西願寺が率先して闇市を差配することは、ある意味、仏が地獄へ使者を使わすことであり、そして仏が地獄へ遣わし差配する者に相応しい者とは誰あろう…
――そういう事なんや。分かるやろ?
浪華の洒落と洒脱、そして笑いを受ける遣い人として相応しい名は…
尋ね人はロダンへ答えた。
彼は理解する。
そんな地獄への遣いに相応しいのは一人しかいない。
それは…
――閻魔。
これらを上方の洒落だと言えばそうかも知れないが、然しながらある意味、洒落にしては噺落ちもあり的を射ている。
以来、卍楼を差配する存在を閻魔と言った。
ロダンがより深く尋ねると、初代『閻魔』は下間家から卍楼へ使わされたそうだ。
下間家は西願寺の家宰一切を取り仕切る家。
結果として遣わされた閻魔は見事に差配を取り仕切り、見事に西願寺の面目躍如となり、そうしたことが現代の西願寺の信仰のボトムとなっているのだろう。
そして時が下り、今は酒の主郭『卍楼』の差配者は下間家となっているが、卍楼の『古き』を知る者は案内人の事を親しみと諧謔を込めて『閻魔』と現在も言う。
その現代の閻魔の眼差しがロダンの言葉を貫いている。
いや…貫いたのはロダンの言葉かもしれない。
貫かれた言葉はやがて非現実の世界でひらひらと風に舞うと、再びリアルに燕の鼓膜に響いた。
「――犯人はあなた。『閻魔』であるあなたですよ」
言うとロダンは頭を掻いた。だが、どこか可笑しみがあるのかぷっと一人笑い出した。その様子を見た燕が言う。
「…何が、可笑しいんや…ワレ」
燕の言葉にロダンは手を激しく横に振った。
「いや、すいません。あまりにも短慮過ぎた自分がおかしくなったんですよ」
「短慮やと?」
ロダンはすっと背を伸ばしてカップを口へ運ぶ。
「そうそう、いや、そう思った方が、この事件というシナリオ、脚本は面白いかと思ったんです。でもね…」
言うとロダンは燕を振り返る。燕の切り揃えられた茶髪の隙間からピアスが陽に反射して、輝いた。
「違ったんです、そう、あなたは犯人やない」
ロダンはカップをくるくると回す。回しながら渦巻き状になってゆくコーヒーに浮かぶ自分の顔を見ながら、ポツリと言った。
「いや、犯人ではないが、そうとは言い切れない。ならば無関係という訳でもないですしね、あのグループとは…違いますか?」
言うとロダンはカップを回していた指をピタリと止め、燕を見た。
ロダンが見つめる視線の先、昼下がりの夕暮れ間近の陽に照らされた燕は、どこか酷く美しい。
華奢な躰が紫色のスーツに良く似合うだけではない。まるで人間の属性たる『性』を超えた中性的な雰囲気が、格別に全身から匂い立つのだ。
口を開けば、河内訛りのような強い口調が響くが、唯、黙然とこうして座っているのであれば、ドナテッロ作の艶めかしい少年像『ダヴィデ』のようだ。
正に美少年、というべきか。
彼を愛する
まるでそれは『
だからだろうか?
ロダンが――燕に対してあの集団と漏らしたのは。
唇が動く。非現実の世界で現実をつながるために。
「…だとしたら?君は、僕をどういう風に扱うつもりさ」
問い掛ける燕の言葉は酷く丁寧で、そして今までの燕とは違う、何かが顔を出してきたようにロダンは感じた。
そしてその感覚は病院で浅野から感じた――気狂いに似た感じだった。
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