その21 卍的卍戟

(21)




 黄昏時――、『卍楼』が灯る。

 それは路地を照らし、やがて大阪の北に文字を浮かばせることだ。

 それは『まんじ』――、この呪言的象徴文字はサンスクリット語であるが、その語源は分からない。古くから西方東方世界のあらゆる紋章や宗教的象徴として、この文字は『形』として存在している。

 話を突如、うらないに変えるが、北は吉凶占いの方位神において『かん』、また万物の始まりとも言われる。ならば卍楼は浪華世界に於ける万物の始まりともいうべき呪言的象徴、この世界の初源であろうか。


 ――いや、ちゃうな


 易者はサングラスをしながら考えた。

(大きな水が方位を切っている、つまりその水によってここの地運は流れ出ているんだ)

 これを持論と言いたいが、正確には自分へ知恵を貸してくれた友人の考えだ。自分はそれを聞いて、友人の考えに十分頷ける余地があった。


 ――『水』そのものは『死』を繋げる――つまりこの世とあの世の『境』を暗示するよね?


 頷く自分へ友人は言う。


 ――ならば卍楼のある十三は、謂わば淀川という『境』を挟んだ浪華世界の対岸だから、地運は『境』を挟み、運ばれることなく水に流れ続ける流転の地だよ。ここは浪華世界の『北』だけど、一方では、浪華世界の対岸。つまり良くも悪くも正邪混じる『運』が届かないともいえない?だから此処で起きることは、浪華世界へ影響がでない、そんな背水の陣の如き土地なのさ。


(彼は良くやるなぁ)

 易者は手本を膝上に置いた。

(本当は違う事、お願いしたのに。めっきり僕の領分、占星術というか占いの世界にどっぷり浸かってる)

 笑みがこみあげながら顔を上げて、禿げた頭を撫える。週末でない黄昏時、人は疎らだ。サングラスのフレームを一寸直して背筋を伸ばす。

 このサングラスを掛けること、これも友人のアイデアだ。


 ――占う時、やっぱ目の動きを見られない方がいいよ。じゃないと占いの時、目に正直さがでるからね。


(ほんま、彼は正鵠を突く)

 くすりと笑う。

(流石は…)

「百眼!!」

 易者は急に自分の名を呼んだ声の方へ振り向く。

 見れば、そこにスーツ姿の男が立っていた。

 髪型は大きく襟首から頭頂へ巻き上げられ、軍鶏の鶏冠みたいになっている。

 易者は、サングラスを僅かにずらして上目遣いに覗き込み、色彩を網膜に送る。

 細身の華奢な体に紫色のスーツ。そして鶏冠の髪は明るいオレンジの掛かった茶色、そして内側から覗くシャツは黒。

(…どこのホストや?)

「おい、百眼」

 男が再び名を呼んだ。

 自分の名を呼ばれて答える。

「はい、何です?」

「何ですやない」

 言うと男は顔をにゅっと面前へ突きだす。鼻腔の奥で男の香りを嗅いだ。何とも甘美な花の蜜のような匂い。夜の香気を感じさせる。

 突きだされた男の唇が動く。

「たっぷり、稼いだみたいやな」

 百眼はピンとする。

「えらい当たる易者やゆうことで、連日ひっきりなしの大盛況やったやないか。ワイなぁ、見てたんやで」

 言うなり男は易台の前の椅子を引くと足を組んで座った。

「…誰のおかげか?ようよう、お考えになりなはれよ、百眼はん」

 さも、自分の手柄だと言わんばかりに男は、ニヤリと笑う。それからそこで何かに気付いたのか、ほうと呟いた。呟くと背を伸ばす。

「なんや、サングラス…か?どういうこっちゃ、そんなんしてたら、怪しいであんた」

 言うなりケラケラ笑う。

 すると百眼はサングラスのフレームに手を遣りながら答える。

「そうですやろか?」

 瞬間、(ん)とした顔に男はなった。それからまじまじと百眼を見る。見ながら眉間を寄せる。そして、訝し気に彼は言った。

「おい、百眼」

「はい」

 百眼が答える。

「声…、ちゃうであんた」

「…そ、そうですか?」

 百眼の声音に不信感を露わにした男は百眼へ早口でまくし立てるように大声で言った。

「さしすせそ!」

 急に言われて、百眼がたじろぐ。

「百眼!!」

 言って男が再び言う。

「さしすせそ!!言ってみろ!!」

「ええ!!さ、さしすせ…そ」

 聞くや、男が言う。

「オマェ!!」

 強制的に言わされた百眼へ男の手が伸びるとサングラスを奪った。そして百眼の顔を見た男は――、驚きの声を上げた。

「…お前、誰や!!」

 サングラスを奪われた男の眼差しが怯えながら小声で言った。

「百眼です…が…」

「…何!?」

 すると男は作務衣の胸倉をむんずと掴み、脅しながら百眼を睨んだ。

「…こら、ワレ!!本名を言うてみン!!」

「え?誰の」

「お前のや!!」

 言いながら男が激しく首を揺らした。百眼の首がぐらんぐらんと前後に揺れ、手が慌ただしく、男の手を制止しようと動いて手首を掴む。しかし強い力で揺らされているの為、掴んだところで、どうすることもできない。唯一、止める為にできることは、声を張り上げるしかなかった。

「ぼ…僕は西願寺…!!西願寺亮介と、言います!!」

「なんやとぉ!!」

 言うとぐっと力強く引き寄せ、勢いよく易台の方へ男は放り出した。バランスを崩して倒れる百眼。

 その百眼を見ながら男はスマホを取り出し、急いで何処かへ電話を掛ける。コール音が響き相手が出るのを待つ間、男は百眼を睨み続ける。

「ええな!!今から下間さんにビデオ通話してお前を見てもらう。西願寺と下間さんとこは今もまだ馴染みらしいじゃないか。だから下間さんは、――西願寺の家の者が此処で占いをするのを知ってワイに面倒見るよう言ったんや…それなのに、お前はどんな理由があってワイをコケにしたんか!!分かるか?

 …あっ…下間さん?燕です。すいません、突然。おい、ちょっと待て。お前、動くな…、…あ、はい、実はですね。例の西願寺ンとこの件ですけど…、何か変なもの掴まれそうなんです。今ちょうど、本人が此処に居るんで、悪いんですが面通ししてコイツを確認してくれませんか?何の確認かですか?ええ、今から電話に出る人物が…西願寺の亮介、そう、あそこのボンボンかどうかです」

 そして男はいきなりスマホの画面を百眼へ向けた。

「出ろ!!お前」

 既に鬼面の形相になった軍鶏な男――、燕に飲み込まれてしまった百眼は、言われるままスマホを手にして電話に出た。そしてスマホの画面を見る。

 その横で男が電話口の下間へ言った。

「どうです?下間さん」

 百眼は怯え切って、もう言葉が出ない。唯、画面の前でぶるぶる震えているだけだった。

 するとスマホから声がした。


 ――燕さん、確かに彼は西願寺の亮介君やで


 突如、沈黙が出来た。

 だが沈黙の中を手が伸びてスマホを手にした。沈黙が今度は驚きになった。

「え…!?」

 開いた口のまま燕は下間に言った。

「ほんまに?」


 ――ほんまもほんま。本人や。ほな、燕さん、ええかな?これから店が開くからさ、忙しいねん。


 言うと通話が切れた。

 再び沈黙が蹲る。

 だが、燕はその沈黙ごと百眼の襟首をむんずと掴んだ。

 低い唸るような声が、香水の香りと共に百眼を包む。

「――てめぇ。…」

 どす黒さが燕の前身から漂う。

 何とも言えない深い闇の底から漂う妖気。表面に見せるものではない、何か、深い地底の底から湧きあがる蠢く触手の如く、それがゆっくりとまるで蛇炎の如く昇り始め、やがて長身の百眼の首を掴んで体を浮かせた。

「ひ、ひぃ…!!」

 絞められて百眼が足をバタつかせる。

「…て、めぇ…よくもワイの顔に泥、塗ってくれたな…」

 人も疎らな通りで行われ始めたこの戟へ、関心を誰も寄せてこない。遠くに人影が見えるが、余程の関心が無ければ、手を伸ばすものはいないだろう。


 ――そう、関心が無ければ。


 ぐっと燕が力を籠めた。

 その瞬間――、不意に誰かが自分達へ声を掛けて来た。

「すいません、お取込み中」

 その声に燕は鬼相の如き軍鶏面で振り返った。振り返った面前にサングラスを掛けた男が一人立っている。

「なんや、テメェ」

 怒声交じりに声に、男は何となくこの状況を察したのか、大変すまなさそうな顔になって長身を折り曲げると、もじゃもじゃのアフロヘアを掻いてから、二人の顔を指差して言った。

「あのぉ、ちょいと伺いやすが。どちらが良く当たるという評判の百眼先生で…、またどちらがこの卍楼の『案内人ガイド』閻魔さんでしょうか?」










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