その20 気狂い

(20)




 病室の窓から外を見れば、地下へと入り込む阪急線が眼下に見えた。

 だが病室から見えるのはそれだけじゃない。

 大阪の街衢がいくの上で空がパノラマ上に広がり、その空を横切るように伊丹空港へ着陸するジェット機が飛んで行く。

 もし此処が病室でなく、賃貸マンションなら、日がな一日、自分は借主として退屈せずに過ごせるだろうと百眼は思った。

 だがここは病室だ。面前でベッドから半身を起こす彼はそんな気分になれるだろうか?

 自分にとっては絶好の場所だとしても、彼には苦々しい治療の場であることに違いない。

 ましてや、実名を隠した自分を訪ねて来た人物の前では。


 ――浅野ではない、彼。


 百眼は視線を窓の外から戻すと、禿げた頭を撫でてサングラス越しに彼へ、ニコリと微笑んだ。

 その微笑みはどんな意味を持つというのか。

 それは微笑みを向けられた男には良く分かるのかもしれない。だからかもしれないが、彼は百眼が病室に来てから固く閉じていた口を開いて、落ち着いた口調で話し出した。

「…僕が運ばれた病院が良く分かったね?易者さん」

 彼はポツリと言った。

「そして、僕の実名も」

 言われて百眼は軽く手を振る。

「それは至極簡単です。浅野しゃん、――いや、木下しゃん。あなたは転倒して頭を直撃して気絶し、卒倒した。急いで僕が救急車を呼べば病院だけじゃなく、身元なんて――僕じゃなくても同伴する救急車の中で調べりゃ、救急隊員が教えてくれましゅよ。でも何故、あなたが変名を使っていたか、それは良く分かりませんが」

 口調は舌足らずのいつもの歯切れの悪さだが、内容は適切に相手へ説明をしている。

 百眼へ、彼は首を振る。

 そうだ、と同意するように。

「正に至極簡単な事やね」

 聞いてから百眼が頭を掻いた。

「そう、それは簡単なんでしゅが、…然しながらです」

「然しながら?」

 男、――木下が百眼へ振り向く。

「ええ、これで卍楼の連続事故がより深みを増したという事です。まるで卍みたいに渦巻きを巻いて、深く、深ぁく蟻地獄のように」

「蟻地獄か」

 木下は笑う。その笑いには何処か嘲りがあった。

 百眼は嘲りを見つめる。彼の嘲り、そこに何かが隠されている。それは、この卍楼で起きた連続事故に隠されている何か。

 ひょっとするとそれは、――自分が卍楼に居座る理由と関係しているのだろうか。

「せやな、やっぱあそこは僕等には地獄やった」

 木下の声が百眼の顔を上げさせる。上げると木下の顔が紅潮し始めているのが分かった。彼は沸き上がる興奮でわなわなと震えだしながら、百眼をぎょろりと見た。

「所詮、俺達は地獄を抜け出せなかった。運がどうのこうの言っても、所詮、この世の畜生道へ落ちた餓鬼は救われない」

(畜生道へ落ちた餓鬼!?)

 百眼は木下の意味不明な言葉に惑わされる。だが彼の目は血走っている。何という表情だろう。何かに追い詰められている人間が見せるような、目だ。

 では、何だというのだ。

 何に追われているというのか?

 あなたは地獄で、何に追われたというんか?

 百眼が口に出そうとする。しかし、木下は突如、頭を抱えると喚くように言った。

「そうとも、皆…、みんな、伊達さん…加藤さん、有馬さん、そして俺も所詮同じ穴のムジナなんや!!」

「木下さん!!」

 突然、豹変した木下へ百眼が声を掛ける。

 そんな彼の感情の起伏に反応して、設置されたバイタル検知機器が警告音を出す。すると看護士が部屋に駆けこんできた。

「何か?ありましたか?」

 だが、その時には既に木下は興奮を抑え、平然とした何事もない顔つきで看護師に向かって顔を横に振っていた。

 突然の急変と平然を同時に彼は瞬時に行った。まるで優れた演技者の如く。

(……!?)

 百眼は声が出ない。見事なほどの入れ替わりだ。まるで精神が急に裏返ったかのような、見事なまでの演技。

 故に今は平然とした彼の姿しか、見えなかった。

 看護士は暫くそんな彼をじっと見ていたが、何も変化が無いことを計器類で確認すると、二人へ向かって念を押すように言った。

「…何も、ないんですね?」

 言うと、それで看護士は病室を出て行った。

 すると彼が突如、低い声で笑い出した。


 ふふふ…、

 ふふふ…

 あはっは

 あはっは


 百眼は笑い出した彼を見た。その彼の顔はあの時、暗闇の提灯横丁で照らし出した時のように歪んでいた。事実、口の片方は釣りあがり、そして目は互い違い、どちらも向いていない。

 本当の狂人が其処に居た。

「僕は気が狂ってしもうたようやね」

 木下は言うとくるりと百眼を見た。

 自分を見つめていない左右非対称の目のまま、彼は言った。

「それで易者さん、君は僕を見舞いに来たのかい?それとも何か僕に用事があるのかな」

「えっ」

 百眼はドキリとする。

「なぁんだ、違うの?」

 百眼は暫し、沈黙をする。


 ――言っていいのか、こんな気狂いに、


 そんな思いが背にのしかかるが、やがて百眼は剥げた頭を撫でると、ぴしゃりと音を出して首を叩いた。

 気狂いだからこそ…、謎めいたことに手が届いているかもしれないという期待を込めて百眼は声を絞り出した。

「勿論、見舞いもですが、いや、あの…でしゅね、木下さん、知りません?」

「何を?」

「…いや、その卍楼に関係してるみたいなんですが…」

 百眼は目を上げて気狂いを見た。

「…『薔薇』と言われたら、ひょっとして何か、ご存じないですか?」

「薔薇?」

 彼はその瞬間、一瞬真面な顔に戻ったが、やがて首を傾げると再び狂人じみた顔つきになった。

「全然、知ぃらなぁいよぅ、薔薇なんて。だって卍楼に僕は初めて来たんだからさぁ」

 するとギラリとして彼は百眼を指差す。百眼は唾を飲み込んだ。

「そんな適当なこと言いやがって、本当は僕の事を探りに来たのだろう?あの――地獄の閻魔の使いでさ」

(…閻魔?)

 百眼は驚きを隠せない。いや、正確には驚きと言うよりも、何となく肌に感じていた彼の存在。

 それは、この木下と酔鯨で飲んだ時から感じていたこと。


 ――「あの男はいないな?」


 その時感じた肌触りが、今百眼の肌で泡立って現れる。

「バタフらぁい」

(えっ!)

 百眼は聞いた。

 抑制のきかない気狂いの声音で。

「そうとも、――そうとも、あの時君に言えなかったこと、此処ですべてバラしちゃうか、僕は気狂い、もう何もかも関係ない、社会的な地位も、将来もぜーんぶ」

 木下は舌を出して唇を舐めた。

「言うよ、言うよ。聞いてよ、聞いてよ、易者さん。どうせ、あいつは僕を許さない。そうとも十分復讐を遂げるための事はするだろからさ。あはははっ、――だから言ってやるさ、お前の正体を」

 彼は本当にどうにかなったしまったのかもしれない。百眼は耳を塞ぎたくなった。しかし彼の頓狂する声は鼓膜に響く。

「俺達は…、合意していただろ?違うかい、俺達は、愉しく、愉しく遊んだじゃないか。柔らかい尻肉に成長しない童の体。それをさんざんさんざん、愉しんで、愉しんで、そうともそうとも、伊達さん…加藤さん、有馬さん、俺達は、少年を愛でて愛した。特にひと際美しい、…なあ、天草四郎の如き神童の少年、そうとも、そうとも…、俺達は愛したよなぁ…バタフらぁい、

 でも…君は許さなかったんだ…恋人のジュリアンを僕等が快楽の果てに尻を激しく犯し責めたら、死んじゃったのを。だけど違う、違うよ、殺したんじゃない、快楽の中で僕等は共に天国へ昇ったんだ、ああ、至高の存在の元へ…、だから…」

(な、何を言ってるんだ!?)

 百眼が顔を上げ、木下が言葉を閉ざしたのを見た刹那、計器類が異常な反応を見せた。すると見る見る木下の唇が朱に染まり、口の端から粘り気のある血がぽとぽとと落ちて、白いシーツが鮮血に染まった。 

 それを見た瞬間、百眼は立ち上がって駆け出した。――看護士を呼ぶために。

 だが、ほぼ同時に看護士が駆け込んでくる。激しく百眼は看護士とぶつかると入れ替わるように病室を出た。背後は慌ただしく駆け込んでゆく医療スタッフの声が響く。

 百眼は急ぎエレベータのボタンを押した。そして開いたエレベータに乗り込むと一気に下へと落ちてゆく。

(なんやねん、全然自分の見当違いに巻き込まれたんちゃうか)

 動悸が止まらない心臓を押さえながら落ちゆくエレベータの中で記憶を揺さぶる声が聞こえた。


 ――葬儀屋を呼んだ方が早いやろな。


 記憶を切るように扉が開くと、百眼は首を振った。

(いや、葬儀屋じゃない、彼の運は『乱』なんだ。今も助かって、きっと生きながらえる。そしてこれからの人生は――ずっと、ずっと『乱』だ)

 百眼は病院を出て、振り返った。


 ――もう、此処に来ない。


 彼はスマホを取り出すと、電話を掛けながら病院へ背を向けて歩き出す。

 そう、夕暮れ時が迫る『卍楼』に向かって。





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