その18 歪みと叫び
(18)
暗闇の中、喧騒が聞こえる人だかりを縫うように百眼は路地を進んでゆく。手にしたLEDランタンが進みゆく照らす世界。そこに浮かび上がるのは、オーギュスト・ロダンが創り出した地獄門に纏わりつくブロンズの如く、停電に驚く老若男女の顔達。
(暗闇の卍楼――、古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれた詩人ダンテの気分にさせる。まるでここは…)
――ほんま地獄や、此処は。
数日前の停電の時、介抱したサラリーマンの言葉が自分の思いの上に被さる。すると不意に口元に笑いが浮かんだ。
(正に…)
百眼はニヤリとする。
(この状況を劇団の友達に言ったら、是非、今度の劇の演出で使おうと言うかも)
百眼は暗闇を進み行く。途中、クリニックを過ぎた。ガラス張りの中からも客が闇夜を透かすように見ている。
(あの女医は…ここの…)
しかし百眼は思いに躓くことなく、ある場所へ向かって路地道を折れて進む。百眼が進む先――そこにこの『地獄』の深部がある。そして地獄で待つのは、誰か。
人か、
それとも魔物か、
いや、――地獄であればそこに居るのは…
(そうとも…)
思いを巡らそうとした刹那、ピタリと動きを止め、百眼は神経を集中させた。
耳を喧騒の中、澄ます。
それは喧騒の中に聞こえた何かしらの特別な声へ。
それは何処か奥まった場所で聞こえた。
素早くランタンで天を翳す。そこに見えたのは釣られた提灯群。
(――来た、提灯横丁や)
百眼は翳したランタンを提灯横丁の奥まった路面へと向けた。濡れた地面が見えたが、ランタンを素早く声が聞こえた正面へと向けた。照らし出した先に見えたのは、停電を気にして店から出て来た人の顔。卍楼の本筋じゃない小店が並ぶ路地だからか、人は疎らだ。
だが、その奥からこちらに急速に迫る気配音を風と共に百眼は感じた。気配音に巻かれる風が速い。
そう感じた瞬間、百眼は反射的に手を挙げ、迫り来る気配に叫んだ。
「駄目です。此処を走っては!!」
だが迫る気配は地獄の魔物にでも追われているとでもいうのか、百眼の制止を聞くことなく勢いを増して迫ってくるのが分かった。
切羽詰まった気配。
それがランタンの灯りで人影になったのを百眼が視認した時、彼は、――あまりの驚きで再び声を掛けるのを忘れてしまった。それ程、その人物の表情はムンクの叫び如く、自分の精神に迫る何かに怯えて歪んでいた。
…ずるっ
ゆっくりと卵が割れて殻の中から何か溢れ、溶け出してゆく。それが滴り落ちて広がる路面。やがてそれは悪魔が舌なめずりして唇を濡らし、大きく何かを咀嚼しようと垂らした唾液の如く、咀嚼を楽しむ夢魔が口を開いた世界。そしてそのぬるりと濡れた路面を革靴が踏んだ時――、世界は突如激しい轟音と共に、再び百眼の目前で正常の世界へ戻った。
百眼は叫んだ。
――魔物に追われた人物を。
「浅野さん!!」
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