その16 不気味さと不味さ

(16)




 百眼は箸置きを手に取った。そして浅野へ、蝶の図案を見せて言った。

「いかがです?」

 浅野は強張る頬をぴくぴく痙攣させて震わせている。百眼は自分の答えに確信を持ちながら、痙攣する浅野の神経へと言葉を掛ける。

「なんだという言うんです?――蝶って」

 百眼は思案する。

 この蝶が何故、伊達を急がせたのか――、黄泉の狭間、『死』という時の終わりへと。まるで蝶が羽ばたき導かれたように、伊達はこの店の木戸を開けて卍楼の路地へ出た。そして提灯横丁へとその歩みを進め、そこで彼は――。


 パチンと音がした。

 その音に百眼は我に返る。

 見れば浅野の頬が赤く染まっている。自らの頬を平手で打ったのだ。そしてそれをもう一度、行う。

「…浅野さん?」

 心配げに声を掛ける百眼へ浅野が軽く手を上げる。

「いや、良いんだ。どうも…いけない。緊張しすぎて顔が強張ってるから、ちょっと叩いただけさ」

 言うと浅野はグラスを手に取り、ビールを喉に流し込む。喉が動いて、やがてグラスのビールが無くなると、彼はちょっと息を吐いてから百眼に向き直った。

「実は今日、此処に来たのは色んな事を確かめたくて来たんや」

「色んな事?」

 問いかける百眼。

「そう。あの時、伊達さんはこの箸置きを見て、トイレから戻った僕へ――、外へ行こうと言った。そして僕等は此処を出た。丁度その時だよ、停電が起きたのは」

「停電?」

 ならばそれは恐らく九時半の筈だ。あの時、易台で見た時刻を百眼は思い出す。

「そう、それで…」

 すると慌てて百眼が手を挙げて話を制止する。

「あ、ちょっとすいません!!浅野さん」

 話を切られた浅野が開いた口のまま百眼を見ている。

 百眼は彼に問いかける。

「箸置きです。この箸置き、浅野さんがトイレに行かれた時、テーブルに在ったんですか?」

 開いた口を閉じた浅野は僅かに眉間に皺を寄せた。記憶を探っているようだ。そしてやがて彼は顎に手を遣り、短い過去へのトリップから戻ると、口を開いた。

「そこが、実はあいまいでねぇ…」

 それを聞くや、百眼は側を通りかかった店のスタッフに声を掛けた。

「あ、君!」

 近寄るスタッフに百眼は、断りを入れて箸置き見せる。

「注文やないんやけど、これ…さ。このお店のもん?」

 呼び止められたスタッフがまじまじと見るが、首を横に振った。それを見て百眼が呼びつけたスタッフに謝罪を言いながら浅野へ言う。

「いや、ありがとう。ごめんね、呼び止めて…、うん、後でまた頼むよ。……と…なるとですね、浅野さん。これはどうやら此処の物じゃないから、浅野さんが席を外した時に置かれたのか?いや、ちゃうなぁ。ちゃちゃう。誰かが、浅野さんが居ない時に此処へ、誰かが…持ってきた…?」

 最後は自らに問いかける。


 ――どうだ?


 その問いに浅野が反応する。

「かもしれへん」

 すると百眼は帽子を取り、つるりと禿げた頭を掻いた。毛もないのに頭を掻くというのは滑稽だが、しかし人というのは、在りし日々の癖が抜けないものかもしれない。

「ならば、顔を青ざめてくように伊達さんが此処を出たのは、そこに――理由がある。でもね…」

 百眼が掻く手をピタリと止めて、浅野を見た。

「浅野さん」

 問いかけに目を向ける百眼へ浅野。百眼はその目を見る。

「あなたもこの蝶を見て、此処を出たくなったんじゃないですか?でなきゃ、普通楽しくお酒を飲んでる最中、急に相手が――理由もなく顔を青ざめて出ようなんて言われたら嫌じゃないですか、でしょ?」

 そこで百眼はまじりと浅野を見た。

「そうでないと僕が――『蝶』と言った時に見せた浅野さんの強張りの説明が出来ず、僕は路頭に迷い込みます」

 浅野は百眼の力強い視線に何かを断念するかの意志を浮かべた顔つきになった。そして彼は「あー」と何か気の抜けたような、いや、何か不味いなぁというような感じで百眼へ顔を向けると、酷く低い声音でゆっくりと言った。

「…君さ、占ってくれない。僕の…『運』をさ」

 百眼の鼓膜を震わす浅野の声は、とても不気味に聞こえた。











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