その13 落ちゆく二人
(13)
店内の喧騒が天井で唸る扇風機の中に巻き込まれ、渦となり何処かへ落ちてゆく。だが何処へ落ちるのかと言われれば、それは阿吽の呼吸ともいうべき語りの呼吸へと言いたい。それは落ちどころとして浪華人の笑いになくてはならないからだ。正に落ちは笑いの破裂爆弾。
落ち――、が無けりゃ、浪華に極楽は無い。如何や、地獄さえも。
だが、落ちのない会話もあるだろうよ、お前さん。
じゃ聞くが…そりゃ、一体どこにさ?
言うねぇ。
そいつは…
――此処、
百眼と面前の男の会話さ。
「…でっ、…では、しょ、しょの時、伊達しゃんと此処で飲んでいて、あなたがトイレから戻ったら、伊達しゃんは顔を真っ青にして、あなた…浅野さんへ――急に店を出ようと言ったんでしゅね」
男は顔を頷いた。
そう、百眼と面を挟んで飲んでいるのはあの事件当時、現場に一緒に居た浅野だった。つまり、百眼の今日最後の客とは、この浅野だったのだ。
彼は易台の前に立つと、首を曲げるようにして百眼へ「飲みに行かないか」と誘い、彼は百眼を連れ立って、他の店に入ることなくここに来たのだった。まるで最初から意図しいた様に。
彼は席を取ると周囲に目配せしてポツリと「あの男はいないな?」と言って、瓶ビールを頼んだ。
(…あの男?)
何となくだが百眼はその言葉の裏を察した。おそらく、――燕の事だろうと。
禿げた頭を隠す鍔のあるブロードハットをぐっと被り直す。
敢えて百眼は口には出さなかったが、彼の手でビールがグラスに注がれると、喉奥に一気に流し込んで、不用意に彼の名が出ないように胃袋の奥底へ流し込んだ。
なんとなくだが、浅野の醸し出す雰囲気が、容易に口に彼の名を出すべきではないという注意深さを百眼に与えたからだ。
再び、浅野の手で空のグラスにビールが注がれる。
透明なグラスに注がれてゆく麦汁を見つめる百眼。
彼は――、思う。
田園に垂れる麦穂の苦みが人間の人生という苦味と交わるのは、自然界の持つ最も不思議な一つともいえるかもしれない。
誰が、この世界にそんな仕組みを造り給うたのか?百眼はビールを飲む度、思わずにはいられない。
それが今夜は特に百眼自身に思われる。
なかんずく、
面前の浅野――も、で、あろうと。
百眼は聞いた。
伊達の死について、先程、浅野の口から。
百眼は何も言わない。
思えばあの時、自分は亡骸になりつつなる肉体の抜け殻と共に側に居た。麦汁の苦みに混じる沈痛な面持ちを隠せない。
そしてあの時聞いた女医の言葉。
――葬儀屋を呼んだ方が早いやろな。
人に死が迫るというのを思わないではいられなかった自分の正直さを隠せない。それがグラスに注がれたビールの中に浮かぶ泡の中から鏡映しにして覗いて見えた。
(やはり、そうだったか…)
沸き上がる苦味をビールごと一気に飲み干すと、百眼はグラスを置いて浅野を見た。
「それで、ですが…」
不思議だがどもることなく、彼は浅野に言う。
「急に何故、そんなに急かすように店を出ようと言ったんでしょう?」
百眼の問いに浅野は、ぎくりとしてから、恐る恐る他のテーブルを見回した。それは何かを探しているような視線。
周囲の喧騒は二人の沈痛さを抱き合わすことは無い。喧騒の中を動いて戻る沈痛な眼差しが、何かを確信したように、しかし、声を立てず――小さくぼそりと言った。
「やっぱ、無いな…」
「え?」
百眼は聞き直す。
「何がですか?」
「あれや…あれを見たんや」
言うなり浅野は彼なりに懸命に言葉を探している。だが、何も彼の口からは出て来ない。
なんだというのだろう、何か馴染みのあるものに違いない。それは彼が先程、この周囲を見渡した時に、探していたからである。
百眼は考えながら、同じように周囲を見渡す。
立ち吞み屋のテーブル。彼は其処を覗いて探していた。
自分も居酒屋でバイトをしていたことがある。その時、ホールスタッフとして慌ただしく客の注文を取り、客が帰ればテーブルを拭き、新規の客を席につかせればおしぼりや箸、そしてそれを置く…、
(…あ)
――瞬間、何か閃くものを感じて、百眼は作務衣の内側に手を入れた。そしてその指先に触れたもの。
百眼はこれが一体何だったのか、ここで初めて答えが出た。自分が足袋裏で踏んで痛みで転んだ小さな塊。
(そうか…つまり、これは…)
百眼は周囲を見渡す。
そう、確かにこの店には無いものだ。しかし、有る店に有るもの。
それは客に出すか、出さないかだけの違い。
「浅野さん…」
百眼は言うと指先で摘まんだ物を作務衣の内側から出した。
「これ…ですね」
百眼の言葉と共に何かが置かれた。そして指が離れた時、それが姿を見せた。
浅野は凝視する。
百眼が得た答え。それを驚いた顔で追随する浅野が声を出した。
「これや…これ」
言うなり浅野がどうしてこれを持ってるんだ、という表情を見せた。百眼は軽く帽子を取ると剥げ頭をつるりと撫でて、帽子を被り直し、感慨深げに言った。
「あの時、伊達さんの側で拾ったんです。この――『箸置き』を」
言うと百眼は指で箸置きを摘まみ、天井から自分達を照らすLED灯に翳すと、そこに伊達の魂魄が僅かでも残っていないか探すように、目を細めた。
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