第12話:初めての一緒の夜
夕暮れ時、向日葵の部屋で二人きりになった小梅の心臓は、まるでハンマーで叩かれているかのように激しく鳴り響いていた。彼女の小さな体は、緊張と期待が入り混じった複雑な感情で震えている。一方、向日葵はいつも通りのマイペースな様子で、何事もなかったかのように振る舞っていた。
小梅は向日葵の部屋を改めて見回した。淡いピンク色の壁紙に飾られた可愛らしい小物たち、柔らかな光を放つテーブルランプ、そして大きなベッドに並べられた様々な表情のぬいぐるみたち。全てが小梅にとっては新鮮で、心躍る光景だった。
「小梅ちゃん、お夕飯なに食べたい~? あたしが作ってあげる~」
向日葵の声が、小梅の思考を現実に引き戻す。向日葵は優しく微笑みながら、小梅の反応を待っている。彼女の長い黒髪は、夕日に照らされてほのかな艶を放っていた。
「え、えっと……向日葵ちゃんの得意料理でいいよ」
小梅は少し慌てた様子で答えた。向日葵の料理の腕前は評判で、小梅自身もそれは時々分けてもらうお弁当でしっかり味わっていた。
「わかった~。じゃあ、ちょっと待っててね」
向日葵はそう言うと、エプロンを身に着けて台所へと向かった。小梅は一人部屋に残され、どうしていいか分からずにいた。
「あれ? これ、アルバム……?」
小梅は向日葵の本棚の中に革製の豪華なアルバムがあることに気がついた。
小梅の指先が、アルバムの表紙に触れた。その瞬間、彼女の心臓は小さく跳ねた。向日葵の過去を覗き見るような後ろめたさと、知りたいという好奇心が交錯する。
おずおずとページをめくる小梅。パラパラと過ぎていく写真の中に、突如として幼い向日葵の姿が現れた。
「あっ……」
小梅の口から小さな声が漏れる。そこに映っていたのは、5歳くらいの向日葵だった。
大きな瞳が、まっすぐにカメラを見つめている。その瞳には、今の向日葵と同じ優しさが宿っていた。頬はまだ幼さが残り、ふっくらとしていて、思わず触れたくなるような柔らかさを感じさせる。
髪は今よりも短く、肩につく程度のボブカット。額に少し乱れた前髪が、子供らしい無邪気さを際立たせている。
そして何より印象的だったのは、その笑顔だった。両端が少し上がった、控えめでありながら心から楽しそうな笑顔。その表情には、まだあどけなさが残っていて、見る者の心を温かくする不思議な力があった。
小梅は、その写真に釘付けになった。彼女の目は、ゆっくりと写真の細部を追っていく。向日葵が着ている淡いピンク色のワンピース、首元にかけられた小さな花の形のペンダント、背景に映る緑豊かな公園……全てが鮮明に、そして柔らかく小梅の心に刻まれていく。
(向日葵もこんな小さい時あったんだ……可愛い……)
小梅の心の中でつぶやいた言葉は、驚きと愛おしさが入り混じったものだった。いつも自分を見守ってくれる、大きくて優しい向日葵。その向日葵にも、こんなに小さくて可愛らしい時期があったのだと思うと、不思議な感動が込み上げてきた。
小梅の胸に、温かな感情が静かに広がっていく。それは、今まで感じたことのない、新しい種類の親近感だった。向日葵の過去の一片を知ることで、二人の距離がさらに近づいたような気がした。
小梅は、その写真を見つめながら、自然と微笑んでいた。向日葵の幼い姿に、自分の幼少期を重ね合わせる。二人はまったく違う場所で育ったはずなのに、どこか共通するものを感じた。
そして、小梅の心の中に、ある願いが芽生えた。
(もし……もし私が、この頃の向日葵と出会えていたら……)
その想像は、甘くて切ない感情を呼び起こす。出会えなかった過去と、今この瞬間に確かにある現在。その狭間で、小梅の気持ちは揺れ動いていた。
小梅は、そっとその写真に指を這わせた。まるで、幼い向日葵の頬に触れるかのように、優しく、慈しむように。
そして、小梅は決意した。これからもっと向日葵のことを知りたい、もっと近くで見守りたい、そう強く思った。
アルバムを見ていた時間は、ほんの数分だったかもしれない。しかし、その短い時間で、小梅の中の何かが確実に変化していた。向日葵への思いは、友情とも違う、家族とも違う、何か特別なものへと変容しつつあった。
小梅の胸に、不思議な温かさが広がる。向日葵の過去を垣間見ることで、彼女への親近感がさらに強まったような気がした。
やがて、美味しそうな香りと共に向日葵が戻ってきた。
「お待たせ~。できたよ」
台所からほのかに漂う香りに誘われるように、小梅は向日葵の後を追ってダイニングに足を踏み入れた。そこで目にした光景に、小梅は思わず息を呑んだ。
テーブルには、まるで絵画のように美しく彩られた料理の数々が並んでいた。中央には大きな白い皿に盛られた、焼きたての若鶏のハーブロースト。黄金色に輝く皮の下には、じっくりと火を通された柔らかな肉が顔を覗かせている。その周りには、鮮やかな緑のパセリとローズマリーが添えられ、香りと彩りを添えていた。
左側には、虹のような色とりどりの野菜サラダが鎮座している。赤いトマト、オレンジ色のニンジン、紫のビーツ、緑のルッコラが織りなす色彩は、まるで宝石箱を開けたかのような輝きを放っていた。上から振りかけられたバルサミコドレッシングが、キラキラと光を反射している。
右側には、ふわふわと膨らんだキッシュ・ロレーヌが置かれていた。黄金色のパイ生地の中には、ベーコンとチーズ、ほうれん草が絶妙なバランスで詰め込まれている。その横には、スライスされたバゲットが添えられ、カリカリとした食感を予感させる。
テーブルの隅には、ガラスのピッチャーに入った自家製レモネードが置かれていた。レモンスライスと新鮮なミントの葉が浮かび、清涼感あふれる光景を作り出している。
小梅は目を輝かせながら、その光景に見入った。彼女の瞳には、驚きと期待、そして喜びの光が宿っていた。小さな鼻先が少し動き、立ち込める香りを嗅ぎ取ろうとしている。
「わぁ……」
小梅の口から、小さな感嘆の声が漏れた。それは子供のような無邪気さと、美しいものに心を奪われた時の素直な反応だった。
向日葵は小梅の反応を見て、優しく微笑んだ。彼女の瞳には、小梅の喜ぶ姿を見られた満足感が浮かんでいた。
「どう? 気に入ってくれた?」
向日葵の声に、小梅はハッとして我に返った。彼女は頬を少し赤らめながら、向日葵に向き直る。
「う、うん! すごく美味しそう! 向日葵ちゃん、こんなにたくさん作ってくれたの?」
小梅の声には、感謝と驚きが溢れていた。向日葵は照れくさそうに頭を掻きながら答える。
「うん、小梅ちゃんに喜んでもらいたくて。さぁ、座って食べよう?」
二人はテーブルに向かい合って座った。小梅は、まるで宝物を見るかのように料理を見つめている。その瞳には、これから始まる食事への期待と、向日葵への感謝の気持ちが溢れていた。
日葵の料理の味は、小梅の想像以上だった。
「はい、小梅ちゃん、あーんして~」
突然、向日葵が箸で料理を掲げた。小梅は一瞬戸惑ったが、すぐに顔を赤らめて首を振った。
「じ、自分で食べられるからいいよ!」
小梅は慌てて自分で食べ始めたが、その様子があまりにも可愛らしく、向日葵は思わず微笑んでしまう。
「あ、小梅ちゃん、ほっぺにご飯粒ついてるよ~」
向日葵は優しく手を伸ばし、小梅の頬についたご飯粒を取った。そして、何の躊躇いもなくそれを自分の口に運んだ。
「美味しい~♪」
その瞬間、小梅の顔が真っ赤に染まった。向日葵の何気ない仕草に、小梅の心臓が大きく跳ねる。
(な、なんで……こんなにドキドキするんだろう……)
食事が終わると、二人で協力して片付けを始めた。狭いキッチンで肩が触れ合うたび、小梅は少しずつ緊張が解けていくのを感じた。
皿洗いを終えた二人が再び向日葵の部屋に戻ると、向日葵が突然小梅に声をかけた。
「小梅ちゃん~」
「何?」
「一緒にお風呂入ろうよ~」
「!?」
小梅の頭の中で、大きな爆発が起きたかのようだった。
まさにビックバン。
向日葵の言葉に、彼女の全身が熱くなるのを感じる。
(い、一緒にお風呂……? 向日葵ちゃんと……?)
小梅の心臓は、まるで飛び出しそうなほどに激しく鼓動していた。向日葵の無邪気な提案に、小梅はどう反応していいか分からずに立ち尽くしていた。
向日葵は小梅の反応を見て、くすっと笑った。
「どうしたの? 恥ずかしい?」
向日葵の声には、からかうような調子が混じっていた。小梅は必死に言葉を探した。
「そ、そんなことないよ! ただ……ただ……」
小梅の言葉が途切れる。向日葵は優しく微笑んで、小梅の肩に手を置いた。
「大丈夫だよ。私たち、女の子同士じゃない」
その言葉に、小梅は少し安心したような、でも何か物足りないような複雑な感情を覚えた。
「う、うん……」
小梅はついに頷いた。向日葵は嬉しそうに笑顔を見せ、バスルームへと小梅を導いた。
この夜、小梅と向日葵の関係は、新たな段階へと踏み出そうとしていた。二人の心の中で、まだ名前のない感情が静かに、しかし確実に芽生え始めていたのだった。
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