第9話:体育祭の陽炎

 初夏の陽気に包まれた学校のグラウンドは、体育祭の熱気で沸き立っていた。色とりどりの応援旗が風になびき、生徒たちの歓声が響き渡る。この晴れやかな雰囲気の中、篠崎小梅は輝いていた。


 小梅は小柄ながらも引き締まった体つきで、スポーツウェアが彼女の活発さを際立たせている。髪は機能的なポニーテールにまとめられ、額に巻かれたヘアバンドには「勝利」の文字が刺繍されていた。その姿は、まるで小さな戦士のようだ。


「小梅ちゃん、すごい!」

「マジでアスリートじゃん!」


 クラスメイトたちの称賛の声が、小梅の耳に心地よく響く。彼女は100メートル走、障害物競走、リレーと、あらゆる競技で抜群の成績を残していた。その度に、彼女の胸には誇らしさが満ちていく。つるぺただったけど。


(やった……みんなに認められた!)


 小梅の瞳は、勝利の喜びに輝いていた。普段は自分の小ささにコンプレックスを感じている彼女だが、この日ばかりは違った。みんなが彼女の活躍を称え、その存在を大きく感じてくれている。それは小梅にとって、何よりも嬉しいことだった。


 しかし、その喜びに浸る小梅の視線の先に、ふと向日葵の姿が映った。向日葵は体育祭用のジャージを着ていたが、その体型のせいか少しきつそうに見える。彼女は応援席の端っこに座り、どこか寂しそうな表情を浮かべていた。


(向日葵……?)


 小梅の心に、かすかな違和感が芽生える。いつもならすぐに駆け寄るはずの向日葵が、なぜか遠くに感じられた。その時、向日葵の隣に知らない女子生徒が座り、二人は楽しそうに会話を始めた。


「あ……」


 小梅の口から、小さな声が漏れる。向日葵はその女子生徒と一緒に立ち上がり、どこかへ歩いていってしまった。


 突然、小梅の心に寂しさが押し寄せてきた。さっきまで上機嫌だったのに、急に不安な気持ちが湧き上がる。周りのクラスメイトたちは相変わらず小梅を褒め称えているのに、彼女の耳にはもはやその声が届かなくなっていた。


(なんで……なんでこんな気持ちになるんだろう?)


 小梅は自分の感情に戸惑いを覚えた。向日葵がいなくなった途端、周りの称賛の声が空虚に感じられてしまう。そして、彼女の中で何かが決断を促すように動いた。


「ご、ごめん!」


 小梅は突然、クラスメイトたちの輪から飛び出した。彼女は小さな体を巧みに使って人混みをかき分け、向日葵が消えていった方向へと走り出す。


 グラウンドを駆け抜ける小梅の姿は、まるで風のようだった。しかし、その表情には焦りの色が浮かんでいる。向日葵の姿が見つからないことに、彼女の不安はどんどん大きくなっていく。


(向日葵ちゃん、どこ……?)


 小梅は校舎の周りを走り回り、体育館も覗いてみた。しかし、向日葵の姿はどこにも見当たらない。汗が額を伝い落ち、呼吸も乱れてきた。それでも、小梅は走り続ける。


 そして、学校の裏庭に差し掛かったとき。


「あら、小梅ちゃん、どうしたの?」


 不意に、向日葵の声が聞こえた。小梅は息を切らせながら振り返る。そこには、優しい笑顔を浮かべた向日葵が立っていた。いつも通りの優しい笑顔だった。彼女の隣には、さっきの知らない女子生徒の姿はなかった。


 小梅は何かを言おうとするが、言葉が詰まってしまう。どうして向日葵を追いかけたのか、なぜこんなに焦っていたのか、自分でも説明できない。ただ、向日葵を見つけた安堵感と、さっきまでの寂しさが入り混じって、複雑な感情が胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。


 向日葵は小梅の姿を見て、すぐに何かが違うと感じ取った。普段は元気いっぱいの小梅が、今は肩を落とし、どこか不安げな表情を浮かべている。その姿に、向日葵の心は優しさで満たされると同時に、どこか切ない気持ちも芽生えた。


 向日葵はゆっくりと小梅に近づいた。彼女の動作は、まるで小動物を驚かさないようにするかのように慎重だった。向日葵の長い髪が風に揺れ、その香りが小梅の鼻をくすぐる。


「どうしたの? 体調でも悪くなった?」


 向日葵の声は、いつもよりも心配に満ちていた。その声は小梅の心に染み込むように響いた。


 小梅は向日葵の声を聞いて、ようやく我に返ったように顔を上げた。彼女の大きな瞳には、まだ不安の色が残っていた。小梅は唇を少し震わせながら、やっと言葉を絞り出した。


「う、ううん……向日葵が、いなくなったから……」


 小梅の声は、普段の元気さがなく、か細く震えていた。その言葉を聞いた向日葵は、驚きと戸惑い、そして少しの喜びが混ざったような複雑な表情を浮かべた。彼女の心の中で、小梅への感情が静かに波打っている。


「ごめんね、トイレに行っていただけなの。心配させちゃったね」


 向日葵は優しく説明した。その言葉に、小梅の表情が和らいだ。安堵の色が浮かぶと同時に、自分の行動を恥ずかしく思う気持ちも見え隠れしている。しかし、まだ何か引っかかるものがあるようで、小梅は落ち着かない様子だった。


「あ……で、でもさっきの子は……」


 小梅は言葉を濁らせた。向日葵は首を傾げ、優しく問いかける。


「さっきの子?」


 その問いかけに、小梅はさらに言葉につまる。彼女の頬が少し赤くなり、目線も定まらない。小梅は自分の中に湧き上がる感情の正体が分からず、戸惑っているようだった。


「あの……その……さっき仲良さそうに喋ってた……ほら、女の子……」


 小梅の言葉は途切れ途切れで、まるで自分の気持ちを整理できていないかのようだった。その姿を見た向日葵は、小梅の心の中にある感情に気づき始めていた。それは、向日葵自身も経験したことのない、新しい感情だった。


 向日葵は小梅の言葉の奥に隠された感情を感じ取り、優しく微笑んだ。彼女は小梅の頭を優しく撫でながら、柔らかな声で答えた。


「あぁ、あの転校生の子ね~。トイレの場所がわからないっていうから教えてあげただけだよ~。小梅ちゃんが心配してくれて、嬉しいわ~」


 向日葵の言葉に、小梅の表情が明るくなった。しかし、同時に自分の反応を恥ずかしく思う気持ちも見え隠れしている。小梅は頬を赤らめながら、目を泳がせた。


「そ、そっか……ごめん、なんか変なこと言っちゃって」


 小梅の言葉に、向日葵は優しく笑いかけた。彼女は小梅の肩に手を置き、暖かな声で語りかける。


「気にしないで。小梅ちゃんの気持ち、嬉しいわ。私たち、大切な友達だもんね」


 その言葉に、小梅は安心したように頷いた。しかし、彼女の心の奥底では、「友達」という言葉に少しだけ引っかかるものを感じていた。それが何なのか、まだ小梅自身にもわからない。


 二人は並んで歩き始めた。向日葵は小梅の横顔を見つめ、彼女の中に芽生えた新しい感情を静かに見守っていた。小梅もまた、向日葵との距離感に心地よさを感じながら、自分の中の変化に戸惑いを覚えていた。


 体育祭の喧騒が再び聞こえてくる。しかし今、二人の心の中では、互いへの思いが静かに、しかし確実に育っていた。それがどんな形になるのか、まだ誰にもわからない。ただ、二人の関係が少しずつ、でも確実に変化していくことだけは、確かだった。


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