第4話:小さな手、大きな手

 秋の澄んだ空気が校舎を包み込んでいる午後。篠崎小梅は、一歩一歩階段を軽快に降りながら、少しだけ後ろにいる向日葵の存在を意識していた。彼女がいつもマイペースで歩くことはわかっていたが、なぜか今日は少し急ぎたくなる気分だった。体育の授業後で、まだ体が熱を帯びているのも理由の一つかもしれない。


 小梅は、一瞬だけ自分のスニーカーを見下ろした。白いローカットのデザインに、赤のラインが入ったもの。スポーツショップで見つけて一目惚れして買ったお気に入りだ。それに合わせて、今日の服装もシンプルなジーンズに、フード付きのパーカーというカジュアルスタイル。彼女にとって動きやすさは重要で、特に今日のような日は、活発に動くことが自然に感じられた。


 しかし、ふとした瞬間、小梅の視界がぐらりと揺れた。階段を降りる足元が不安定になり、身体がバランスを崩しそうになる。そのとき、後ろにいた向日葵の手が、小梅の腕をしっかりと掴んだ。


「……大丈夫? 小梅ちゃん」


 向日葵の声は、いつも通りのんびりとしていたが、その中には確かな心配が込められていた。彼女の手は大きくて柔らかく、その温もりが小梅に安心感を与えた。小梅は小さく息を整えながら、向日葵の手を握り返した。


「ごめん……ありがとう、向日葵ちゃん」


 小梅の声は、いつもより少し控えめだった。彼女は自分の小さな体がたまに不安定になるたびに、向日葵に助けられることが多いことを知っていた。しかし、それを認めるのは、自分の中のプライドが許さなかった。


 それでも、向日葵の手を握ると、不思議と心が落ち着いた。彼女の手は、まるで小梅の全ての悩みを吸い取るかのような優しさに満ちていた。


 小梅の心臓は少し速いリズムで鼓動していた。階段でバランスを崩しかけた瞬間の恐怖がまだ胸の奥に残っている。そんな時、向日葵の手が彼女の小さな手を包み込んでいることに気づき、その温もりが彼女を安堵させる。向日葵の手は大きくて、ふんわりとした柔らかさがある。その柔らかさは、まるで小梅のすべての悩みや不安を吸い取ってしまうかのような包容力を持っていた。


 二人は手をつないで階段を降りる。階段の一段一段を踏みしめるたびに、小梅は向日葵の手の温もりが指先から心の奥底まで染み込んでいくのを感じた。その手が握られていることで、小梅の胸の中で湧き上がっていた不安や焦りが静かに消えていく。彼女は向日葵の手が持つ魔法のような力に驚きつつも、同時にその心地よさに甘んじていた。


 階段を降り切り、二人が並んで廊下を歩き始めると、小梅は自然と向日葵の手をさらにしっかりと握り締めた。手のひらから伝わる向日葵の体温は、小梅を暖かく包み込むように感じられる。そのぬくもりは、小梅にとっていつも頼りにしている温もりであり、何度でも求めたくなる心地よさがあった。


「……向日葵ちゃんの手、好きだな」


 小梅はぽつりと呟くように言葉を漏らした。向日葵の手を握ることで、心が落ち着くだけでなく、自分の存在が小さくないと感じられるからだ。向日葵の手が自分の手を包み込んでくれるその瞬間、彼女は一人ではないと実感できる。その感覚は、小梅にとって何よりも大切なものだった。


 向日葵はそんな小梅の言葉に、優しく微笑みながら応えた。


「小梅ちゃんの手も、すごく可愛いよ。握っていると、私も安心できる」


 向日葵の穏やかな声が、小梅の耳に柔らかく響いた。彼女の声には、いつも温かさと優しさが溢れていて、小梅を心地よい気持ちにさせる。まるでその声自体が、彼女を包み込むかのように、小梅は目を閉じて向日葵の手の温もりに集中した。


 二人はそのまま手をつないで歩き続ける。すれ違う生徒たちの視線を感じても、小梅は気にすることなく、向日葵の手の感触に意識を集中させていた。向日葵の手が、自分を守ってくれていると感じるその瞬間、小梅は自分の小ささや弱さを忘れてしまう。それは、まるで向日葵の大きな体と優しさが、彼女のすべてを包み込んでくれるかのようだった。


 向日葵の手を握っていると、時間がゆっくりと流れていくように感じられた。

 その一瞬一瞬が、小梅にとっては永遠に続いてほしいほど心地よかった。彼女は向日葵の手を離したくないと思った。その手が、自分にとってどれほど大切かを改めて感じながら、小梅はそのぬくもりを心に刻み込むように、強く手を握りしめた。


 向日葵は、小梅のその強い握り返しに、少し驚きながらも、さらに優しく手を包み込むように応えた。二人の手が重なり合い、その温もりが互いに伝わり続ける。まるで二人だけの世界がそこに広がっているかのように、周りの音や景色が遠のいていく。


 小梅はその瞬間、向日葵の手の温もりが、自分にとってかけがえのないものだと確信した。彼女の中で何かが変わり始めていた。向日葵と手をつなぐことで、彼女は自分の弱さや不安を超えて、もっと強く、もっと優しくなれるような気がしていた。


 二人はそのまま手をつないで階段を降り、自然な流れで教室へと向かって歩き始めた。すれ違う生徒たちは、二人の姿に微笑みを浮かべながら言葉をかける。


「ほんとに小梅ちゃんと向日葵ちゃんは仲がいいねぇ」


「いつも一緒で羨ましいよ」


 小梅はその言葉に一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔を作り直した。彼女にとって、向日葵と手をつなぐことは特別なことではない。ただの友達として、そして大切な仲間として、自然にそうしているだけだ。しかし、他の人々にとってそれがどう映るのかは、彼女自身にはよくわからなかった。


 一方、向日葵は微笑みを浮かべつつ、特に気に留める様子もなく、小梅の手を握り続けていた。彼女にとっても、手をつなぐことは自然な行動であり、それ以上の意味は持たないと思っていた。しかし、その握る手の力強さや温もりは、向日葵にとって何よりも心地よいものだった。


 教室にたどり着いた二人は、ようやく手を離した。その瞬間、教室の中に柔らかな光が差し込み、二人の表情を優しく照らした。小梅は一瞬だけ、自分の手のひらを見つめ、その温もりを感じた。彼女の心には、向日葵と手をつないだ感覚がしっかりと刻まれていた。


「小梅ちゃん、今日も頑張ったね」


 向日葵の優しい声が、教室の静けさの中に響いた。小梅は照れくさそうに笑いながら、カバンの中からノートを取り出した。


「うん……ありがとう、向日葵ちゃん」


 その言葉に、向日葵は微笑みを返し、静かに自分の席に座った。彼女の手元には、小さなハンドクリームが置かれていた。シンプルなデザインの容器に、ほんのりとしたフローラルの香りが漂う。向日葵はそれを手に取り、ゆっくりと手のひらに伸ばした。その香りが、彼女の心をさらに穏やかにしてくれる。


 二人の間には、言葉にしなくても伝わる信頼があった。小梅は向日葵の手を握ることで、いつも以上に自分を強く感じ、向日葵は小梅の存在によって、より安らぎを感じていた。それは、ただの友情ではなく、もっと深いところでお互いを理解し合う特別な絆だった。

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