第57話 因縁の正体:3

どこかに消えた白い猿型〈ヴータリティット〉を探して、慌ててミーナはキョロキョロと周りを見る。しかし猿の姿は左右にはない。正面に見えるのは何かを見て顔を青くするゴドウィンの顔──────。


「危ないッ!」


その声に反応して前に飛び出すとほぼ同時に、背中寸前から風切り音が聞こえた。そして背中から突き飛ばしてくるのは、巨大な衝撃。空中にいたことで、踏ん張ることもままならぬままゴドウィンの方へ勢いよく吹き飛んだ。内臓がひっくり返るような浮遊感のすぐ後、腕の皮膚に削れるような痛みが走っていく。


「キャァァァッ!」

「だ、大丈夫か、ミーナ!」


慌ててゴドウィンが駆け寄る。その声色は震えていて、恐怖と心配が綯い交ぜになっているのがわかった。何とか痛む手を伸ばして、立ち上がる。頭の中は何故という疑問符が無尽蔵に湧き出てるし、身体中がズキズキと、訴えるように痛む。しかしそれら全てに無視を決め込んで笑顔を浮かべた。自分に悲痛な顔は似合わない。


「大、丈夫!それよりも!」

「ウキィィィ……」

「……アイツだな。一体全体どうやって俺の氷を抜け出したんだ?」


後ろの床を完膚なきまでに破壊した、白猿を睨みつける。その身体は未だに儚い煌めきを纏っていて、体力が大きく減じている感じもまったくなかった。奴の人間のように見えつつも全く違うようにも見える猿の顔は、喜色に歪んでいる。

何故、かの〈ヴータリティット〉はゴドウィンの強固な氷を抜け出せることができたのか。そこが分かれば、奴の姿が掻き消える攻撃も読めるはず。そこまでミーナは思考して、一つ思い至る。


「脚、かな?」

「脚だぁ?どう関係するんだよ」

「あくまで私の想像だけど!間違ってたら、ごめん。あの〈ヴータリティット〉、姿が消えるたびに風切り音がしてた。ってことは、何かが移動しているわけじゃん。姿が消えることも加味すれば、異常な脚力による高速移動、って感じじゃない……?」


ミーナが閃きを伝えきると、ゴドウィンも納得したようだ。一つ頷いてから、猿を再度睨みつける。奴輩の身体をよく見てみれば、腕はひょろりといった擬音が似合うほど細いのだが、足腰に関しては鍛え抜かれた太さをしている。

奴の能力がミーナの想像通りであれば、一時も警戒を怠ることはできない。魔力をしっかりと意識しながら鎚矛を構える。ゴドウィンも杖を引いて、臨戦態勢だ。


「いつでも来いよ、今度は絶対抜け出せないくらい氷漬けにしてやる」


ゴドウィンの煽りの言葉がトリガーとなったように、奴の姿が再三消える。やはり風切り音とともに。即座にゴドウィンは素早く魔力を放出する。魔力はそこに有るだけで現実の事象をその持つ性質へと歪める。出ている魔力の多寡によって発生する現象をコントロールし、望んだ指向性を持たせるのが『魔法』なのだ。今回ゴドウィンから放たれた魔力は壁状に配置されていく。パキンという甲高い音とともに、それら全ての魔力が凍り付いた。否、凍り付いたのは魔力の近くにあった大気中の水分子……水分だ。

凍り付いたことで正面とゴドウィン側とを遮る壁となった魔力に、ミーナは笑みを浮かべる。ゴドウィンがこの魔法を使ったときは、それすなわち反撃カウンター狙いである。


「キィッ!!」


不快気な鳴き声が飛来する。壁がミシリと悲鳴を上げた。どうやら白猿の突貫は音の速さを超えているらしい。そして氷壁がビリビリと震えて、こちら側まで振動が伝わってきた。どうやら伝わってきた順番としては、猿、音、衝撃波らしい。そんな簡単な事実が、いかに猿が規格外の速度を誇っているのかが伺えるだろう。氷壁の半透明の向こう側には、ガンガンと拳を訪問者のように叩きつけてくる猿。そのガツンガツンという衝撃のたびに、氷にヒビが走っていく。


「ここにいてもジリ貧だ!どうする!もう一回氷漬けにするか?」

「ううん、警戒されてるだろうから駄目。だって、一直線にゴドウィンの方に向かってきたじゃん」


煽りの言葉が言われたからゴドウィンを狙いに飛んできたのでは流石にないだろう。先程の氷漬けを猿側も危険視していて、優先的にゴドウィンを狙いに来たに違いない。ではどうするか。


「だから、一度も攻撃を当ててない私が必殺の一撃を叩き込むべき」

「当てられるのか?」

「私だって速度は出せないことはないし、それにゴドウィンが狙われているでしょ?」

「……俺を囮にする気か。まあ、お前よりかは防御に使えるからな」


彼の魔法は水属性。そして、ミーナは風属性だ。風よりも水のほうが時間稼ぎに向いているのは明白だろう。やっとこさ作戦会議が終わり、ミーナは壁の後ろを走り出す。氷壁はもう限界で、いつ壊れてもおかしくないどころか、今まさに砕け散ったところだ。パリーンという澄んだ高い音を横に聞きながら、氷片を避けつつ進む。氷の壁があったところを抜けて、猿の背中を視界に捉えた。ここからは耳に入らせないように、静かになおかつ迅速に猿に近づく必要がある。

まるで密偵スパイね、なんて呑気なことを思いつつ、魔力を励起させた。


「【精風波ヴィットリブ・ウィンデ】」


小声で魔法名を溢しつつ、魔力を出す。魔力が世界を書き換えていって、足裏と背中に風が強く吹き付ける。ふわりとした浮遊感を内臓に感じながら、無音で飛翔する。正確には風切り音がするが、猿が動くだけで風切り音はするものだ。わざわざ増えていても気になることはあるまい。

鎚矛は重く、ゆっくりと振り上げなければ音を出してしまう。慎重に持ち上げていると、ゴドウィンの低音が、聞こえてきた。


「やっとこさ氷砕いてお疲れさん。でも、一枚だけなんて誰も言ってねぇよな!【精氷壁アイス・ワンド】!」

「キィィィッッ……!」


奴は氷の壁を砕いて即座にゴドウィンに肉薄したようだ。その両の腕は高く掲げられていて、今にも振り下ろして潰すと言わんばかりの構えの猿。そこに、ゴドウィンの魔力が走る。再度、腕を遮る角度で氷の壁がドームのように展開された。再三に渡る耐久ゲームに、さしもの猿も嫌悪と苛立ちを隠せない。今やその顔は憤怒に染まりかけていて、ゴドウィンのみが視界に入っているようだ。


(今こそチャンスね。一気に肉薄して、勢いのまま脳天に振り下ろせばいいわ)


刹那のうちにそう考えて、魔力の出力を少しずつ高めていった。それに比例して、足元を支えるかのごとく吹き付ける風が苛烈に猛る。姿勢を上手く制御して、一気呵成に猿の上空を狙って飛翔していく。静かに、だがしかし速攻で、文字通りの上を取った。


「さ、そろそろ反撃に回ってやるよ。俺の氷で、死にな」


猿を更に焚きつける言葉を吐いて、ゴドウィンが不敵に笑んだ。ミーナが飛んでくるのが見えたらしい。ミーナもその言葉を合図に、背中からの風を強くして、自由落下よりも迅く落ちていく。どんどんと近づいてくる猿型〈ヴータリティット〉の後頭部に笑みを浮かべて、メイスを振り抜く。









───────惜しむらくは、彼らの無知か。それとも、不運か。

ゴドウィンもミーナも、この猿型〈ヴータリティット〉のが“舜烈の賢猿ヒヒ”であることを知らなかった。この仮想の化け物ヴータリティットのチカラが、素早さだけであると思い込んでしまっていた。










メイスがその頭に届く数舜前。


「う、嘘……」

「オイ、どういうことだよ……」


は、ニンマリと嗤った。

そして、空いている右手が霞んだと認識した刹那。ミーナの身体を圧迫感が包みこんだ。


「ッ!?」

「キィィィィー……!!」


よく見なくとも分かる。空中から落ちてきたミーナを、猿が右手でがっしりと掴んだのだ。

どんどんと強まっていく圧力に、ミーナの口から声にならない吐息が漏れる。骨がミシミシと軋んで、血管は圧迫されて浮き出てくる。包まれたことによる熱が、じわじわとミーナの不快感を煽っている。


「っ、なんでミーナの襲撃が分かったんだ……、いや、今はそんなことじゃない!ミーナを助けるほうが先決だ!【氷刃射アイス・キリンゲ】」


生み出した氷の壁を再利用しようと、ドームをゴドウィンの魔力が舐める。氷はグニャリと形を変えて、まるで三日月のような形になった。片側は鋭く研ぎ澄まされていて、氷を加工した刃だ。ひとりでに回転、射出。まさに丸ノコとばかりの刃は、今もミーナを戒め続ける猿の手に一直線に飛んでいく。

だが。


「──ウキッ!」


いともたやすく、態とらしいゆっくりとした動きで避けられた。その間にも手の内に掴んでいるミーナを左手で弄り倒していて、二人に苛立ちが募っていく。なんとか抜け出そうとしても片腕を掴まれて不可能。

間近の猿のその顔は愉悦にこれでもかというほど歪みきっていて、更にその瞳に悪い類の光が瞬いた。


「キィーッ……」

「ちょ、ちょっと待っ……キャアアアアアアッ!」


掴まれている右の腕。ギリギリと引っ張られる感覚が、尋常ではない痛みとともに襲いかかってきた。思わず悲鳴を上げてしまう。

そして。

ブチ、と信じられないほど呆気ない音が、ミーナの右腕から響いた。いや、もう右腕の形をしている肉の塊となっているので、身体からという方が正しいか。

右腕があった場所から血が止めどなく溢れて、ジンジンという熱を帯びた痛みという名の刺激が感情を激しく揺さぶっていく。絶叫を上げそうであげられない精神はもう真っ白で、視界もぼんやりと夢見心地だ。


地表にいるゴドウィンが何かを叫んでいるように聞こえた。もう、音は殆ど聞こえない。


プツン、と思考が切り替わった気がした。

そしてミーナは、微笑った。

その明るい顔に、自らの血を付けながら。


「に、げて……わた、しが……いじられて、るあいだに……」


ゴドウィンがまた何か叫んだ気がする。ゴドウィンの魔力が膨れ上がるのが分かった。


「わた、しは……き、みが……生きてほしい……」


助からない私を助けないで、と薄っすらとした世界で思った。ミーナは魔力を絞って、風を送った。

それはもう、そよ風のような。

近づこうとしていた気配はそんな風でなくなって、ゴドウィンと思しき気配は辿々しい走り方で、消えた。

ミーナは、消えそうな意識の中で、思う。


(ゴドウィン、この塔で叶えたかった私の願いは、もう叶ったよ。私のことを想ってくれる、王子様を見つけるっていう。)


その王子様に、トラウマを植え付けたことを自覚しないまま、ミーナの意識はそこで途切れたのだった。

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