第2話 おじさんの覚醒。


 どうしよう。

 大学生が遊びにいくような場所なんて知らない。


 「君くらいの子と、どこ行っていいか分からないんだけど……」


 女子大生と遊びにいく機会なんて、もう死ぬまでないかも知れない。俺は必死に、風化しかけている学生時代の記憶を手繰り寄せる。


 すると、るりは顎に指を当てながら言った。


 「わたし、海を見に行きたいなあ」


 さりげなくの助け舟。

 そして、俺にもできそうな選択肢。


 ……この子、すごくいい子な気がする。


 海か。

 車がないとしんどいな。


 「車でもいい? 知り合ったばかりだし、心配なら他の方法考えるけれど……」


 すると、るりは俺を足先から見上げ、顔のあたりに視線がきたころ、ポンと手を叩いた。


 「うーん。郁人くん、いい人っぽいし。別にいいよ。きっと、わたしみたいなガキに興味ないだろうし?」


 るりはそう言うと、口角を頬の方まで上げてニーッと笑った。


 正直、興味津々なんだけれどな。


 ストッキングに頼らずとも、つやつやした太もも。くびれたウエスト。控えめだが自己主張のあるバスト。なんかいい匂いがするし。気を抜くと、身体ばかり見てしまいそうだ。


 俺みたいな小太りのおじさんには眩しすぎる女の子。


 だけれど、視線は向けない。

 そんなことをしてしまったら、この時間は、たちどころに終わってしまいそうだから。



 幸い、うちの車は敷地外の駐車場にとめてある。俺は、るりと並んで電車に乗って、車を取りに行った。


 うちの車はセダンで、国産だが、そこそこの高級車だ。るりくらいの年の子には、物珍しいのだろう。


 両手を広げて「わぁ」と言っている。


 俺は心の中でガッツポーズをする。


 ……見栄を張って120回払いのカーローン組んでまで買って良かった。


 車が走り出すと、キラキラした眼差しで俺を見ている。見るもの全てが新鮮なようで、るりは革張りのダッシュボードを撫でては喜び、ナビが話す度に、なんどもニコニコした。


 聞くと彼女は19歳で、大学2年生ということだった。文学部に通っていて、美術部に入っているらしい。


 途中でドリンクを買って、第三京浜で海を目指す。さっき知り合ったばかりの可愛い女の子と、俺はこうして話している。朝、家を出る時には、思いもよらなかったミラクルだ。


 娘よりはずっと年上で、でも自分よりはずっと年下の女の子。その一挙手一投足が、煌めいているような気がして、一緒にいて自分の心が軽くなっていくのを感じた。


 彼女は屈託なく、色々なことを話してくれる。


 家のこと。友達のこと。学校のこと。俺も、仕事のこと、学生時代のこと、友達のことなど話す。だけれど、家族のことは話さなかった。いや、今の時間が無感動な現実に引き戻されてしまう気がして、話したくなかった。


 るりもなんとなく察したのか、俺が線引きしているところからは踏み込んでこない。その事実に、なんとなく少しガッカリしている自分がいた。


 『そうだよな。おじさんのことになんか興味ないよな』


 ようやく海につき、車を海がよく見える高台に止める。すると、フワッと海風が吹き込んできて、るりの後ろ髪を吹き上げた。るりは、前髪を押さえながら、風を避けるように俺の後ろに立ち、片目を瞑って身体を寄せてくる。


 「郁人くん。かぜつよいよー」


 俺は、中学の時に初めて女の子とデートしたような高鳴りを感じながら、ただただ、るりの風よけになった。

 

 浅瀬の白波は、音もなく打ち寄せ、海面の煌めきに、るりの瞳もキラキラしているようだった。そして、風に向かって、まっすぐ水平線の向こうを見つめるその顔に、俺は何の根拠もなく、るりという女の子の事が分かった気がした。


 きっと、女子を観察するオジサンCPU。半世紀近くのディープラーニングの成果だ。


 それにしても、こんなに可愛らしい女子大生と、スーツを着た中年の男。はたからはどんな風に見えるんだろうか。


 その答えは、誰かに指摘を受けるまでもなく分かりきっていて、俺はその場に存在していることを申し訳なく感じた。


 俺が車に戻ろうとすると、るりが手を握ってきた。


 「いっくん。もうちょっと、ここにいよーよ」


 俺は名前が愛称に変わったことに気づき、少しだけ口元を綻ばせた。


 「何か食べようか」


 また車に乗り込み、学生の頃によく行った海岸沿いのカレー屋を提案した。


 るりは白い服だったので、少し心配になって聞いてみると、下から覗き込むように白い歯を見せてニカッと笑って、俺の顔を覗き込んだ。


 「カレー、好きだしいいよ。でも、いっくんが学生の時のお店って。もうないんじゃないの〜?」


 た、たしかに。

 最近、お気に入りのお店が消えていることが、結構多い。


 俺はドキドキしながら、海岸沿いを走る。


 すると、カーブの向こうに懐かしい看板が見えた。


 「よかった。まだあった」


 すると、るりは俺の頭を撫でるような仕草をした。


 「いっくん、子供みたいな顔してるよ?」


 それはそうさ。

 海なんて、何年振りにきたんだろう。


 うちは、妻は紫外線を天敵としているし、アウトドアを好まない。昔はめげずに誘っていたのだが、そのうち、断られた時の惨めさに耐えられなくなって、誘うことをやめてしまった。


 この店だってそうだ。

 妻と知り合ってからは、一度も来ていない。


 だから、本当に久しぶりで。

 俺はすごく嬉しそうな顔をしていたんだと思う。


 懐かしい丸太の椅子に座り、懐かしい木板のメニューを物色する。


 いい歳して何をしてるんだか、と思いながらも、るりとの食事の時間は楽しくて、アッと言う間だった。


 るりは、少しお酒を飲みたいと言ったが、未成年だから、2人でジンジャーエールを飲んだ。


 ……口うるさいオジサンと思われたかな。


 昔を思い出すと言っても、若返った訳じゃないんだな。そんな当たり前のことを思った。


 店から水平線の向こうに吸い込まれる太陽を見届けて、名残惜しい夕食を終える。俺が車に向かう階段を降りていると、るりがシャツの袖を摘んだ。


 「……いいよ。大人は、ご飯のあと、そういうことするんでしょ。やっぱ、何かお酒飲めばよかったカナ……」


 俺はびっくりして、るりを振り返る。

 すると、るりは左手を袖口まで隠し、耳まで真っ赤にして俯いていた。

 

 「いや、そういう事は……」


 るりは、美しい海岸沿いには不似合いな、遠くの方に煌々と光るネオンを指差した。それは、ラブホテルだった。


 車に乗り込み、るりが指差したホテルを目指す。るりは、黙って、俺の左手の上に右手を重ねてきた。その手は、熱を帯びて汗ばんでいて、るりの心音が聞こえてきそうだった。

 

 ホテルの前について車をとめる。

 空から茜色は退き、辺りは暗くなっていた。


 無言の車内には、虫の鳴き声が響く。


 俺はるりに声をかけた。


 「ほんとにいいの?」


 すると、るりは、視線を逸らすように右を向いて、緩やかに左を向いて。俯くと、彼女の頬に、ツーッと涙が流れ落ちるのが見えた。


 俺はいった。


 「そうか。やめよう」


 きっと学生の頃の俺なら、ここぞとばかりに連れ込んでたと思う。でも、俺は、現実を離れた1日を過ごせて、十分だと思っていた。これ以上は欲張りすぎる。


 車はホテルから遠ざかる。


 るりは一言。

 「ごめんなさい」と。


 俺は車の中で自分に嘲笑していた。


 独身の頃の俺は、不倫なんてクズがすることだと思っていた。今の俺は、若い時に自分が見下していたクズそのものなのだろう。


 だけれど……。


 無味乾燥な毎日の中で、変化を渇望していたのだと思う。変化が許されないと知りながら、その欲求を、目が届かぬ無意識に押しこめ、燃え上がる渇きに見て見ぬ振りをしていた。


 「それが結婚」と言われれば、そうなのだろう。でも、それは。牢獄のようだと思う。


 るりと一日一緒にいて、心が軽くなった気がした。解放される気がしてしまった。


 あと一歩を踏み出してしまったら、坂道を転がり落ちるように、戻れなくなるのが分かる。だから、これでいい。


 俺はるりのうなじのあたりを撫でながら、「これでいいんだよ」と言った。


 すると、るりは、しばらく俺の手の甲にすり寄るようにして、目を瞑っていた。


 だが、不意に声を出した。


 「いっくん。わたし、花火したい!!」


 俺はそんな突拍子もない彼女を、好ましく思った。


 コンビニで間に合わせの花火を買い、浜辺で2人で花火をする。小さな打ち上げ花火、手に持つ棒状の花火。駆け回りながら、一通りの花火を終え、残すは線香花火だけになった。


 2人で線香花火を手に持つ。るりの花火から火種をもらって俺の線香花火もパチパチと燃え始めた。


 あたりに、芳ばしい火薬の匂いが立ちこめる。


 風が吹けば消えてしまいそうな、小ぶりな火花を見つめながら、るりは言った。


 「わたし、昨日、失恋したんだ。ずっと想ってたのに、あっけなく振られちゃった。だから、今日は学校にいきたくなくて。だから……、いっくんに連れ出してもらって嬉しかった」


 真っ直ぐなその目は涙ぐんでいたけれど、花火が映り込んで燦々さんさんとしていて。俺には失恋すらも眩しく見えた。



 「そろそろ、帰ろうか」


 俺はそう声をかけると、彼女を助手席に乗せてハンドルを握る。


 妻や家のことは頭になかった。俺は酷い人間なのだろう。ただただ、この時間が終わってしまうことに、胸に穴が開くような寂しさを感じていた。


 彼女の家まで、あと数分という信号で車が止まった。


 るりは、ボソボソと言った。


 「いっくん。また会いたいかも。でも、いっくん、もしかして、けっこ……」


 信号が青になり、車がまた走り出す。

 るりが続きを言うことは無かった。


 家の近くまで送り、るりが助手席から降りる。すると、たたっと運転席に回り込んできた。


 ウィンドウをノックされて、窓を開けると。


 (チュッ)


 気づいた時には、俺の唇に瑠璃の唇が押し付けられていた。


 「今日はありがとう。お礼に……、わたしの初めてをあげる。優しい優しいお兄さん。さようなら」


 瑠璃は、今日一番の笑顔で手を振った。


 俺は唇を押さえて、瑠璃の余韻を感じながら、ただその場を走り去った。


 人生、何が起きるか分からない。

 普通に電車に揺られていた朝は、女子大生のファーストキスをもらう夜に続いていた。


 って、ファーストキス? 

 あれっ。


 ってことは、処女?


 まじか。

 もったいないことをしたかな。


 ……人間はどこまでも増長するものらしい。


 駐車場につき、助手席に小さなノートがあることに気づいた。ノートを開くと、折り畳まれた数千円の現金が挟まっていた。


 A6程の小さなノートには、落書きがたくさんあった。猫のようなもの。人のようなもの。きっと、るりは、暇な時に落書きをしているのだろう。


 るりの可愛らしい置き土産だ。微笑ましく思って、パラパラと巡ると、最後のページにメッセージがあった。


 「ありがとうございました。今日は色々とお金を使わせてしまってごめんなさい。きっと受け取ってもらえないと思うから、お金をお返しします。もし。もし。また会いたいと思ってくれたら……。水嶋 瑠衣 xxx-xxxx-xxxx 」

 

 って、瑠璃って偽名かよ(笑)

 ほんとは、るいちゃんなのね。


 俺は苦笑した。


 しっかりしてるからこそ、偽名なのだろう。今日、垣間見えた彼女の少しだけでも、俺には眩しすぎた。全部みえたら、俺はきっと、勘違いをしてしまう。それは怖い。


 だから、もう瑠璃に会うことはないだろう。


 ……ふぅ。


 俺はため息をついて、車を降りて、家に向かって歩き始めた。


 


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