第二十五話

§



「病気でも何でももらって苦しんで死ね! ばーか!」




「それは困る」




 澄んだ声が澱んだ空間に響き渡りました。

 それは、ここにいるはずのない人物の声。わたしはぱっと顔を上げました。


「なっ……」


 誰よりも声を震わせたのはほかでもない市佳さんでした。

 ぺたん、と床に座り込みます。


 現れたのは――まさかの旦那さま本人でした。


 朝と同じスーツ姿で、乱れはひとつもありません。

 薄暗がりでも分かります。

 旦那さまはいつも通り微笑みを浮かべて、せっかん部屋の入り口に立っていました。




「こんなところで死なれたら困る。やちよは桜花院の墓に入るんだから」




「な、何故ここが分かったのですか」


 お義母さまが旦那さまに向き合います。


「詰めが甘いんだよ。そもそも嫁入りの理由がだったからね」


 旦那さまの声は穏やかですが、ぞっとするような何かを孕んでいるような気がします。


「里見家は、言い方は悪いが没落士族で、権威に弱く金に困っている。西園寺家とリヒター家の名前を聞いた時点で、あなたのご主人はこの件から身を引くことを決めた筈だ。実際、本当に事情を知らなさそうだった。ということは?」


 一歩旦那さまが進むと、お義母さまは一歩下がります。その顔は、恐怖に満ちているように見えました。 


「ご主人の今後を保証する代わりに、思い当たる節を洗いざらい吐いてもらえばいい。赤子の手をひねるより簡単なことだ」

「……ッ」


 お義母さまは壁に背中をぶつけて、市佳さんと同じようにへたり込みました。

 俯き、何も言いません。


 それを見た旦那さまは、今度は市佳さんへと話しかけます。


「さて。今後を保証するために、僕はもうひとつ条件を出した。何だと思う?」

「な、何よ」

「僕の妻を乱暴な目に遭わせた犯人への報復の……許可」

「きゃっ」


 旦那さまは市佳さんの前でしゃがむと、そのまま右腕を掴み、軽く捻りました。

 今や、市佳さんの瞳は、涙で潤んでいます。

 対照的に、旦那さまは穏やかに微笑んでいました。


「嫌……嫌よ……」

「冥途の土産に教えようか。僕は宝石病から回復したんじゃない。まだ、呪いは身の内にくすぶっているんだ。だから――」


 旦那さまが市佳さんへ耳打ちします。

 わたしにも聞こえる、囁きを。




「君を呪って、宝石病にしてあげる」




 がくっ、と市佳さんは気を失いました。


「市佳さん!」

「……やれやれ」


 旦那さまは市佳さんの持っていた鍵を取り上げ、檻を開けました。

 それから、中に入ってきてわたしの枷を外してくれます。


「旦那さま……」

「そんな恰好じゃ寒いだろう」


 旦那さまは、上着を脱ぐと片膝をつきました。

 脱いだ上着を、ふわりとわたしにかけてくれます。

 わたしは起き上がって上着をしっかりと羽織ります。ほのかな旦那さまの残り香に、つい、わたしは涙を浮かべました。


「助けてくださって、ありがとうございます」

「いや、むしろ、遅くなってすまない。傷物にされる前で本当によかった」


 わたしは気を失った市佳さんへ、視線だけを向けます。


「市佳さんは……」

「安心しておくれ。呪うだなんて、そもそもそんなことができる訳、……ない」


 旦那さまが肩を竦めます。

 わたしは、胸をなでおろしました。


「よかった……です」

「まったく。君は人が良すぎる。こんな妹でも庇うのかい」

「……わたしはどんな人でも、理不尽な目に遭うのはいやです。それに」


 わたしは旦那さまを見上げました。


「旦那さまに似たんですよ。人が良すぎるのは」


 見つめ合って、わたしたちはどちらからともなく笑いました。


「旦那さま」

「ん?」

「助けていただいてありがとうございます。それと、……お慕いしております。好きです」


 旦那さまは虚を突かれたような表情になりました。

 そして、ようやく、心からの笑顔を見せてくれました。


「うん。僕も、君が好きだよ」




 ばたばたっ、と複数の足音が近づいてきます。

 叫んだのはお父さま。


「市佳っ! 梓っ! なんてことを!」


 その後に、西園寺さまが現れます。

 せっかん部屋の状況を見渡して、旦那さまに話しかけます。


「おい、殺して……なんだ失神か」

「勝手に気を失っただけだよ」

「お前なぁ……」


 西園寺さまが呆れています。

 それからわたしを見ました。


「怖かっただろう、こいつ唯月

「え、えぇと」


 怖かったか怖くなかったかでいえば、怖かったです。

 とはいえ旦那さまはわたしを助けるためにそうしてくださった訳で。

 市佳さんも、怪我をしてはいませんし。

 答えに困っていると、からっとした声で旦那さまが言いました。


「やだなぁ。ひとを化け物みたいに」

「化け物だろ。宝石病から回復したんだから」

「あ。それもそうか」


 はらはらさせられる軽口の応酬です。ふたりだからこそ成り立つのかも知れません。


「やちよ」

「は、はい!」

「帰ろうか」


 旦那さまが手を差し伸べます。

 わたしは、その手を迷うことなく取りました。

 ひんやりとした手のひら。

 旦那さまが宝石なのか人間なのか、まだ誰にも分かりません。

 それでも、旦那さまは――旦那さま、です。


「はい。帰りましょう」


「その恰好で帰らせてどうする。すぐ着られる服を見繕ってもらって、着せてもらえ」


 確かに、西園寺さまの意見は、真っ当なものでした。


「すまないね、後を頼む」

「西園寺さまは一緒に出ないのですか?」

「今後のことについて君の父上と話し合わねばならんからな」


 お父さまはうなだれて、やつれていました。


「すみま」

「謝る必要はない。悪いのはあんたじゃない。ほら、風邪を引く前にさっさと帰りな」



§



 わたしは市佳さんのワンピースを借りることになりました。

 脱がされたワンピースは、洗濯されて干されていたからです。


 これでもう、二度と実家を訪れることは、ないでしょう。

 門をくぐって外に出ると、わたしは、心から頭を下げます。


「……今度こそ、本当に、お世話になりました」


 日中は雨が降っていたようで、地面は濡れています。蒸すような、土のにおい。

 少しじめっとした空気。

 日没が近いのでしょう。

 くすんだ青空を、橙色の雲が覆っています。


「近くに車を待たせてある。でも、その前に。やちよ」


 旦那さまはわたしの名前を呼ぶと同時に、ぎゅっとわたしのことを抱きしめました。


「旦那……さま?」

「許してほしい。こんなこと、二度と起きないようにする」

「大丈夫ですよ、旦那さま」


 わたしはそっと、旦那さまの背中へ両腕を回します。


「もう終わったんです」


 市佳さんたちがわたしに危害を加えることは、二度とないでしょうから。


「……」


 旦那さまは無言でわたしから離れました。

 黄昏に包まれても、旦那さまは美しさを曇らせることがありません。

 薄灰色の瞳が泣きそうに見えるのは。

 子どものように見えるのは。気のせい、でしょうか。


 わたしは背中に回していた右腕を、旦那さまの頭上へ伸ばしました。


「決して、わたしは旦那さまの前からいなくなりませんから」

「……やちよ」


 微笑むわたしの唇に、旦那さまの唇がそっと――触れました。

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