第二十四話

§



「はい。いつものお豆腐です」

「ありがとうございます」

「幸子さん、ぎっくり腰なんですって? 奥さまもお忙しくて大変だと思うけれど、頑張ってくださいね」

「お気遣いありがとうございます」


 わたしはお豆腐店のご主人に頭を下げました。

 水を張った丸い器の中には、真っ白なお豆腐が沈んでいます。


「あとは、お野菜を買って……」


 旦那さまと内藤さんの意見により、幸子さんの腰がよくなるまでわたしは仕事を休んで家事をすることになりました。

 仕事は十四時までなので両立できると思うのですが、素直に従うことにしたのです。


 さらに旦那さまは、この機会に家事使用人をもうひとり雇うか悩んでいました。


【今後のこともあるしね】

【旦那さま。幸子さんは、まだまだお元気ですよ】

【いや、そういう意味じゃなくて】


 あのときの旦那さまは珍しく歯切れが悪そうでした。

 そんな会話を旦那さまと交わしたのは数日前のことです。


 ころころころ……。こん。


 足元に、玉ねぎが転がってきました。

 屈んで拾うと、道の向こうから、困り顔のおばあさんが歩いてくるのが見えました。

 状況からしてこの玉ねぎはおばあさんのものでしょう。

 わたしから近づいていき、玉ねぎを差し出します。


「どうぞ」

「あぁ、助かった。袋の底が破けてしまって」


 腰の曲がった白髪のおばあさんは、しわくちゃの両手で玉ねぎを受け取ると、大事そうにさすりました。


「親切なお嬢さんに拾ってもらえて助かったわ」

「とんでもないです」

「もしよかったら、そこでお団子でも食べていかないかしら? お礼をしたいの」


 おばあさんが、わたしの後ろにある甘味処を指差します。


「お気持ちだけいただきます。まだ買い物の途中なので」

「ちょっとくらいは大丈夫でしょう? これも何かの縁だし」

「えっと……」


 どう断ろうか悩んでいると、視界の端に村田さんが見えました。

 村田さんもわたしに気づいたようです。


 どきん、と心臓が跳ねました。

 ちょっとくらいなら、緊急避難なら、いいでしょうか?


「分かりました。でも、自分の分は自分で払います」


 わたしたちは甘味処へ入りました。


「いらっしゃいませ~」


 矢絣の着物とフリルのついた前掛けが可愛らしい店員さんが、席に案内してくれます。

 店内一番奥の、半個室です。

 わたしたちは向かい合って座りました。


「遠く離れたところに孫がいるんだけどね、ちょうどお嬢さんと同い年くらいなのよ」

「そうでしたか」

「ふふっ、うれしいわ。まるで孫と来たみたい」


 わたしはみつ豆を、おばあさんはお団子を頼みました。

 硝子の器に彩りよく盛りつけられたみつ豆は、とても美味しそうです。


 みつ豆は家でも作れるでしょうか。

 今度旦那さまに作ってあげたいと、記憶に書き留めておきます。




 たわいのない会話をして、さて、店を出ようとしたとき。


 ぐらっ。


 立ち上がった瞬間に足の力が抜けて、わたしはそのまま椅子に座り直すように落ちます。


「……え?」


 感じたことのない強い眠気。視界が急にぼやけていきます。

 おばあさんの曲がっていた背中が、ぴんと伸びたのだけは、見えました。


「悪く思わないでおくれよ。薬を飲ませたら、金がもらえるって言われたんだ」


 どうして。

 誰が、何のために。


 声は意識と共に、暗闇へと引きずられていきました――



§



 再びわたしが目を覚ましたとき、四肢に違和感がありました。

 両手、両足。

 後ろで縛られて床に寝かされていることに気づきます。

 じめっとしたいやなにおいが充満した空間。

 これは……。

 背筋がぞっとしました。


 わたしは知っているからです。この状況が、何を意味するのか。




「お姉さまがいけないのよ。忠告にしたがって、離縁しなかったんですもの」




 はっきりとしたよく通る声が、絶望を確信させます。


 暗く閉ざされたせっかん部屋。

 里見家の地下室に、わたしは閉じ込められていました。


 さらに、ワンピースは脱がされて、下着姿。

 だからこそ床の冷たさがより感じられるのかもしれません。


 木でできた檻の向こうで、市佳さんはわたしを見下ろしています。


「安心してちょうだい。お姉さまに分不相応なワンピースは、洗って、しっかりと消毒して、あたしが着てあげるから」

「……」

「ふふっ。ワンピースなんか着て、おめかしなんかしちゃって。お姉さまごときが、笑っちゃうわ」

「……手紙を出したのは、お義母さまと市佳さん? お父さまはこのことを知らないの?」


 ぴく、と市佳さんの眉が動きます。どうやら図星のようです。

 わたしは言葉を続けることにしました。


「これは流石にやりすぎだと思う。お父さまに、いえ、世間にばれたら里見家はただでは済まないわ。ワンピースは市佳さんにあげる。ここでのことは誰にも話さない。だから、今すぐここから出して」


 わたしは冷静さを意識して、市佳さんへ語りかけます。

 里見家が取りつぶしとなれば困るのは市佳さんやお義母さまです。


「……ッ! 誰に向かって口を聞いてるの!?」

「あら、目覚めたの」


 お義母さまが、市佳さんの後ろに姿を現しました。

 市佳さんはお義母さまに抱きつき、わたしを指差します。


「お母様! この女ったら、あたしたちを馬鹿にし出したわ。生き延びたからっていい気になっちゃって、何様のつもりかしら。もう許せない」

「安心しなさい、市佳。ちゃんと算段はついたから」

「まぁ!」


 市佳さんは勝ち誇ったように言いました。


「喜びなさい。あんたを売る店が決まったわ。最下層の妓楼よ」

「……え?」

「病気でも何でももらって苦しんで死ね! ばーか!」

「……」


 絶句、とはまさに今のこと。


 わたしは……。

 今まで、こんなひとたちに、虐げられていたのだと。

 会話が通じないことが、あるのだと。

 遅すぎるかもしれませんが、初めて、……解りました。


 遅すぎるといえば。

 わたしはまだ、旦那さまに、直接想いを伝えていません。

 二度と旦那さまに会えないまま、わたしの気持ちを伝えずに終わるなんて――


 

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