第二十三話

§



 


 旦那さまの言葉の意味が徐々に分かってきたのは、働き始めて数日経った頃のことでした。


「お先に失礼します」

「はい。明日もよろしくお願いします」


 わたしが事務所の外に出ると、今日は立派な入道雲が見えました。


「おい」


 ざらりとした悪意を含んだ声が、わたしを呼びました。


「……と呼ばれる心当たりはありませんが」


 わたしを待ち受けていたかのように近づいてきたのは、村田さんです。

 今日も着古したような洋装姿。ぼさぼさの髪をかきむしりながら、一定の距離を保ちつつ、話しかけてきました。


「奥さんも働きに出るとは、桜花院家は随分と近代的な家風なんだな。暮らしが苦しい訳でもないだろうに」


 わたしは事務所の扉へ視線を遣ります。

 助けを呼ぶべき?

 いえ、危害を加えられそうになったときの、最終手段にしましょう。わたしは背筋を伸ばして、両手を体の前で重ねます。


「何のご用でしょう」

「あんたにも話を聞きたくてな」

「それでわたしの仕事が終わるのを待っていたと?」

「おれみたいなのは、桜花院家の本邸にはなかなか近づけないんだよ」


 そうでしょうね、とは返しません。

 わたしは背筋を伸ばして、村田さんと向き合います。


「お話することはありません。旦那さまは、本物の桜花院唯月さまです」

「埒が明かないな」


 村田さんがわざとらしく溜め息をつきました。

 しかしこんなことで怯む訳にはいきません。旦那さまの名誉がかかっているのです。


「あんたの素性も調べさせてもらった。呪いの身代わり目的で生贄にされた可哀想な身の女だ」


 生贄。可哀想。

 その言葉に重点を置いて、村田さんが言います。


「それが今やどうだ。正妻の座に収まり、しかも、職業婦人ときている。桜花院当主が記事にできないのであれば、あんたを面白おかしく書くことだってできるんだ。大衆はいつだって悲劇と奇跡を求めている」

「何を仰りたいのでしょう」

「どうなるだろうと思ってな。世間はあんたを好奇のまなざしで消費する。あんたの肉声を聞こうと、自宅、職場かまわず殺到する。あんたは外に出られなくなる。仕事だってままならなくなるかもしれない。そうしたら、色んな方面に迷惑がかかる……かもしれないぞ」


 村田さんは明らかにわたしを脅していました。

 わたしは、旦那さまの真似とはいきませんが、わざと笑みを浮かべてみせます。


「天下の日々にちにち新聞の記者さまというのは、随分と人道に外れた職業観をお持ちなのですね」

「これでおまんまを食っているからな。多少のことはお天道てんとさんに目を瞑ってもらわんと困る」


 で、どうなんだ? と言いたげな村田さん。


「話になりません。繰り返しになりますが、職業とは、人道にもとる行為であってはいけません。あまりに悪質な振る舞いをするようであれば、警察へ通報させていただきます」

「……ちっ。こっちこそ話にならん。旦那が旦那なら、嫁も嫁か」


 がちゃり、と事務所の扉が開きました。

 現れたのは内藤さんです。


「立ち話が聞こえてきています。長くなるようであれば、どうぞ、中へ」


 無表情の内藤さんに見下されるような視線を向けられて、村田さんは、やはり気まずそうに舌打ちをしました。

 何も言わずに去っていきます。


「……ありがとうございます、内藤さん」

「いえ。道の往来であんなことをされたら、営業妨害ですから」


 内藤さんらしい返しです。


「あぁいう輩はまた絡んでくるでしょう。タクシーを呼びましょうか」

「ありがとうございます。今日はたぶん大丈夫だと思いますので、次があったらお願いします」

「分かりました」


 事務所の扉が閉められます。

 きっと内藤さんは助け船を出す機会を窺ってくれていたのでしょう。


「……ありがとう、ございます」


 わたしは建物に向かって頭を下げました。



§



 ある日のことです。


「あいたたたたたたたた!」

「幸子さんっ?」


 夕食の支度をしていたら、突然幸子さんに異変が生じました。わたしは慌ててお医者さんを呼びに行き、結果、幸子さんはぎっくり腰だと診断されてしまいました。


「すみません、旦那さま。奥さま……」

「たまには休めということさ。ゆっくり養生しておくれ」


 そして、迎えに来たご主人と一緒に幸子さんは帰って行きました。

 桜花院家の玄関で幸子さんを見送り、旦那さまが残念そうにつぶやきます。


「しばらくは出てこられないだろうね」

「寂しいですが仕方ありませんね」


 幸子さんが作りかけていた晩ごはんを仕上げて、わたしは食堂へ運びました。

 今晩の献立はライスカレー。香辛料の複雑で強い香りが食堂を満たします。

 一番大きなスープ皿に、白ご飯と、薄茶色のカレールー。

 カレーの具材は牛肉と大きめに切ってしっかりと煮込んだ根菜です。

 隅にはちょこんと福神漬けを乗せます。


 ぴかぴかに磨いた銀のスプーンを添えます。


「おや、今日はライスカレーか!」

「はい。玉ねぎだけじゃなくて、じゃがいもやにんじんも入っているんですよ」


 発売されたばかりのカレー粉末を買ってきたとうれしそうに話していた幸子さん。

 食べたかったでしょうに、残念です。

 戻ってきた初日はカレーを提案しようと密かに決意します。


「いただきます。……うん。辛くて、美味しい」


 旦那さまが美味しそうに召し上がるのを見て、わたしもスプーンを手にします。


「いただきます。辛っ」


 味見はしていましたが、ぴりっとした辛さに目を瞑ります。


「具材もやわらかくて噛まなくても口の中で溶けてしまいそうだ。幸子さんがいかに力を入れていたかが伝わってくる」

「そうですね。辛……」


 わたしがあまりに辛い辛いと言うからか、旦那さまは笑いをかみ殺しています。

 煽風機扇風機は回しているものの、汗が止まりません。


「君に元気があってよかった」

「え?」

「すみれさんから聞いているよ」

「……」


 旦那さまの、含み。

 村田さんが尋ねてきたことを指しているのはすぐに分かりました。


「どうして黙っていたんだ、とは言わない。君が僕に心配をかけさせたくないと考える性格なのは知っているから。それでも、僕は君を心配したいんだ。やちよ」

「……申し訳ありません」

「あの新聞記者のことはこちらでどうにかする。結婚披露宴の前に、不安の種はすべて取り除いておきたいからね」


 旦那さまも少し困っているように見えたのは、気のせいでしょうか。

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