第二十二話
§
夏を迎えて、わたし自身にもひとつ大きな変化が起きました。
なんと。
旦那さまに言われて、家の外で働くことになったのです。
仕事は、通訳事務所の事務員です。
異国語を理解する女性がそもそも少ないということで白羽の矢が立ったのだと、旦那さまからは聞かされました。
桜花院家から歩いて数分。路面電車に乗り一駅先の場所に、目的の建物はありました。
こぢんまりとしていますが堂々とした洋風建築。ガラス窓が、とてもかわいらしい意匠です。
そして、わたしは働くときは洋装で出かけることに決めました。完璧ではありませんが、化粧もしてきました。
「……ふぅ」
深呼吸を一回。
旦那さまが目覚めてから、緊張ばかりしているような気がします。旦那さまがいない場面でも緊張で手に汗が滲むとは思いもしませんでした。
扉の前で怖気づいていると。
「あなたが桜花院やちよさん?」
珍しい、短髪の女性が扉を開けてくれました。
「はっ……はい。桜花院やちよと申します。今日からお世話になります」
「私が内藤すみれです。よろしくお願いします」
内藤すみれさんは、わたしの雇い主である通訳者です。
ジャケットとスカートという洋装の組み合わせは、かっちりとしていてお似合いです。
さらに、きりりとした眉の持ち主。
この雰囲気をどこかで見たことがあるような気もするのですが、思い出せません。
「時間は限られています。早く中に入ってください」
「は、はいっ」
わたしは急かされるようにして室内に入りました。
桜花院家の書物庫と同じ、紙の、におい。
それだけでどこか安心できるような気がしました。
棚に並べられた本。部屋の端には応接用の机とソファー。人が生活するのではなく、働くための空間だということが伝わってきます。
「やちよさんには書類の整理をお願いするつもりです。仕分けの方法を教えますね」
「はい。お願いします」
内藤さんは淡々と、表情ひとつ変えずに仕事内容を説明してくれました。
わたしは必死に教わった内容を確認します。
「以上です。何か質問は?」
「えぇと……」
「やっている最中に不明点が出たら都度聞いてください」
「は、はい」
どさっ。
間髪入れず、わたしの目の前には書類が乱雑に置かれました。
旦那さまの顔に泥を塗る訳にはいきません。わたしは唾を飲み込み、与えられた仕事に取りかかりました。
§
「初日ならこんなものでしょうね」
ぴしゃり、と内藤さんは言いました。
褒められてはいませんが、怒られてもいなさそうです。もしかしたらわたしの願望かもしれませんが。
「あの……」
「明日からもよろしくお願いします」
内藤さんが言いました。
わたしの願望ではなさそうで、ひとまず胸をなでおろします。
「結婚したら家庭に入る女性が大半で、人手が足りずに困っていました。唯月さんが奥さまを紹介すると言ってくださったので、ありがたい申し入れだと考えて受けることにしましたが」
唯月さん、という言い方にわずかな親しみを感じて、わたしは首を傾げました。
「……? 内藤さんは、旦那さまと元々お知り合いなのですか?」
「何も聞いていないのですか?」
淡々とした口調で、内藤さんが尋ねてきます。
胸のなかで、なにか、もやっとした感情が生じたような気が……しました。
「唯月さんとは子どもの頃からの顔なじみです」
「そうでしたか……」
ちりんちりん、と外の鈴が鳴りました。
「唯月さんがお迎えに来たようですね」
「え?」
内藤さんの予想通り、外には旦那さまが立っていました。
「お仕事お疲れさま。迎えに来たよ」
「旦那さま……」
「すみれさん。やちよは働き者だろう?」
「えぇ、そうですね。流石は唯月さんの奥さまをしているだけあります」
「含みのある言い方だなぁ」
「含んでいますから」
内藤さんが淡々と返します。
「外に車を待たせてある。疲れただろう、今夜はゆっくり過ごすといい」
「では、また明日」
「はい。……よろしく、お願いします」
わたしは旦那さまに連れ出されるようにして事務所の外に出ました。
見上げれば、雲ひとつない強い青空です。
旦那さまの言葉通り、真っ黒な四輪自動車が停まっていました。
後部はまるでソファーが詰められたような空間。わたしと旦那さまは隣同士に座ります。
「お待たせ。出してくれ」
「かしこまりました」
ぶぉぉぉ、と奇妙な音と振動がして、車が走り出しました。
「どうだった?」
「色々と覚えることが多くて大変でしたが、やりがいがありそうです」
「それはよかった。すみれさんも、優しいから安心だろう」
「あの……」
ん? と旦那さまが言います。
「内藤さん、と旦那さまは、昔からのお知り合いなのですか」
「……」
旦那さまが、きょとんとした表情になります。
それから、ぷっと吹き出しました。
「旦那さま?」
「ごめんごめん。そういえば説明をしていなかったね」
吹き出した後は笑っています。一体、何がどうしたというのでしょう。
「彼女の旧姓は、西園寺。正のお姉さんだよ」
……え?
西園寺、さまの、お姉さん?
「えっ」
「あの眉毛の形なんてそっくりだろう?」
「言われてみれば……」
既視感の正体が判り、わたしは、内藤さんと西園寺さまの顔を脳内で並べました。
眉毛の形。
鼻筋。
への字の、唇。
内藤さんと西園寺さまの雰囲気は、とてもよく似ていました。
「……そっくりです」
「だから安心してほしい。すみれさんは、君の味方だ」
味方だから預けられるんだよ、と旦那さまは付け加えました。
§
和館から洋館に移されたわたしの部屋は、廊下を挟んで旦那さまの部屋の向かい。
寝室を共にする話も出たものの、結婚式までは別々ということになったので、実のところ安心したのは秘密です。……旦那さまは気づいていそうですが。
「おやすみ、やちよ」
旦那さまはまだ書斎にこもってお仕事をされるようです。
わたしは部屋に入り、明かりをつけました。
荷物は和館から持ってきましたが、家具は、西洋風のものばかり。
まだ慣れないベッドに腰かけます。
もしかしたら。
旦那さまが宝石病にならなければ。
内藤さんが旦那さまの許婚だったのでは?
一瞬頭をよぎってしまった想像です。
もちろん、そんなことはありません。
夕食の後片付けのときに、幸子さんから説明してもらいました。
【旦那さまったら、すみれ様のことを説明してなかったそうじゃないですか!】
内藤さんの旦那さまもまた、議員さんだそうです。
【ゆくゆくは大臣になられるともっぱらの噂です。もちろん、旦那さまも同じですけれどねっ】
「はぁ……」
仕事の疲れと同時に、恥ずかしさが内側から湧いてきます。
わたしは両手で顔を覆いました。
――一瞬とはいえ、勘違いとはいえ。
内藤さんに嫉妬してしまったのだと気づいた瞬間、顔から火が出そうでした。
わたしなんかが、嫉妬だなんて、おこがましい。そんな感情もまた、湧いてきてしまうのでした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます