第二十一話
§
村田さんの登場でわたしは少なからず沈んでいたようです。自然と言葉が少なくなっていました。
空はからっと晴れているのに、心は曇っているようでした。
「やちよ」
旦那さまとわたしは並んで歩いていましたが、不意に、旦那さまが立ち止まりました。
わたしも立ち止まり、旦那さまを見上げます。
「はい」
「ところで、ここは貴金属店の入り口なんだけど」
乳白色の壁面は、外国の様式を完璧に再現した店構えです。
大通りのなかでもひときわ目を惹く外観でした。
「結婚指輪を作ろう」
「……結婚指輪?」
突然の提案に思わず固まってしまいます。
それは、つまり、結婚したことを示す指輪でしょうか? とは流石に訊けませんでした。
「いらっしゃいませ」
待ち構えていたかのように、重厚な扉が店員さんによって両開きで開放されます。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
どうやら旦那さまは予約をされていたようで、名乗らなくても何者か判っているようでした。スーツ姿の店員さんが流れるような仕草で、わたしたちを個室へと案内します。
洗練された室内。
革張りのソファーに、わたしたちは案内され、隣同士で腰かけました。
お香か何かが焚かれているのでしょうか。どことなく、いい香りがしています。
お茶を用意してまいります、と店員さんが告げて部屋から出て行きます。
あらためて、緊張で冷や汗が滲み出てきました。先ほどは飲み込んだ問いかけが、つい口から漏れてしまいます。
「結婚指輪とは……」
「言葉通りだよ。ぴったりのサイズを作ってもらうためには時間が必要だからね。それに」
旦那さまがわたしの左手を取ります。
「君に触れる口実が欲しかっただけなんだ。僕が」
そして、旦那さまは。
わたしの薬指の根元を、そっと撫でました。
「!」
ぞわり、という初めての感覚。わたしの頬が、全身が一気に熱を持ちます。
旦那さまが楽しそうに笑いました。こんな旦那さまは、とても珍しいように感じます。
「そんなに緊張しなくてもいいんだよ?」
「む……無理です……」
「ふふっ。そういうところは二年半前と変わっていないんだね。思い出すよ、外商が来たときのことを」
そんなことも、ありました。
あのときも旦那さまは大量に買い物をしてくださったのですが、今は今で、状況が違います。違いすぎます!
わたしは涙目になりながら訴えます。
「あの、旦那さま」
「何だい」
「そろそろ手を離していただいても……?」
わたしの熱い手に反して、旦那さまの手は、ひんやりとしています。
旦那さまは事もあろうに体を動かして、ぴたりと、距離を縮めてきました。
「だーめ」
愉快そうな、旦那さまの囁きが耳朶を打ちます。
だめとはどういうことですか、とは流石に言えませんでした。
「……やちよ」
わたしはぎゅっと瞼を瞑りました。
こんこん、こんこん。わたしへの助け舟のように、扉が規則的に叩かれます。
「どうぞ」
「失礼いたします」
旦那さまはぱっとわたしから体を離しました。
わたしは必死で呼吸を整えます。
そんなわたしを見て、旦那さまはすました表情になっています。
女性の店員さんが、緑茶と茶菓子を給仕してくれます。
ちょうどいい温度の緑茶に口をつけると、動揺が収まっていくようでした。
「この度はご結婚おめでとうございます」
「ありがとう。色々とあって随分遅れてしまったが、妻に結婚指輪を贈りたい。今日はよろしく頼む」
「かしこまりました」
男性の店員さんが、恭しく頭を下げてくれました。わたしは慌てて背筋を伸ばします。
「よ、よろしく、お願いします……」
そして冷や汗をかきながら、甲丸の指輪を作っていただくことになったのでした……。
§
結婚式の準備は、着々と進んでいます。
「大神宮で神前式。それから、帝都ホテルで披露宴。すべての女性が憧れる結婚披露宴ですね」
「奥さまには文金高島田を是非!」
「既に入籍しているのにいいのかしら?」
桜花院家の広間にて、わたしは百貨店の外商さんたちに取り囲まれていました。
なすがまま、されるがまま。さしずめ、まな板の上の鯉といったところでしょうか。
現在は衣装の打ち合わせ中です。
一見ただの白無垢に見えるものの、よく見ると繊細で華美な模様や刺繍が施されているもの。
色とりどりの打掛は、どれもまさしく豪華絢爛。
広間はまるで呉服店のようです。
あたふたしているわたしを、旦那さまはにこにこしながら眺めていました。
「ヘルマンが異国のドレスを用意してくれるそうだよ」
「まぁ、ドレス。ドレスも素敵ですねぇ」
「お色直しは何回あってもいいですからねぇ」
「私たちも参加できたらよかったんですが」
外商さんたちも、ずっと楽しそうです。
わたしの存在がこうして周りに喜んでもらえる日が来るなんて、思いもしませんでした……。
「……どうしたんだい、やちよ」
「えっ」
眉尻を下げた旦那さまに言われて気づきました。
感極まったあまり、わたしの目の端には涙が滲んでいたようです。わたしは慌てて袖で目をこすりました。
「大丈夫です、旦那さま。うれしくて涙が出てきた、ただそれだけです」
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