夏 -Sommer-

第二十話

§



 緊張、します。


 今。

 わたしは、人生で二度目の帝都ホテルに来ています。

 洋装ワンピースではなく着物を選んでしまうのは、着慣れているからでしょうか。幸子さんの目利きで、上等なものを選んでもらいました。

 お化粧をしているのもあるからか、とにかく落ち着きません。


 さらに、今日はなんと一階のロビーからピアノの演奏が聞こえてきます。

 温かなコーヒーは美味しいと思えなかったのですが、冷やしコーヒーは喉を心地よく過ぎていきます。

 少しでも緊張をほぐそうと、わたしは深呼吸をします。


 そこへ、鮮やかな青色のスーツ姿の眉目秀麗な男性――旦那さまが近づいてきました。

 わたしは立ち上がって頭を下げました。


「待たせたね」

「いえ。お仕事、お疲れさまです」


 近づいてきた給仕係に向かって、旦那さまは「僕も彼女と同じものを」と告げます。

 運ばれてきた冷やしコーヒーを口にして、ほぅ、と息を吐きました。


「こうも暑いと冷たいものが染みる」

「今年は例年よりも暑くなるそうですね。幸子さんが氷冷蔵庫を新調したいと言ってました」

「老朽化してきているし、検討した方がいいかもね。氷で冷やすのではない最新版を」


 旦那さまの視線がテーブルの上に落ちました。

 読みかけの、異国語の小説です。


「しかし、君には驚かされた。異国語を翻訳できるようになるまで上達したとは」

「とんでもないです。まだまだ辞書は必要ですし、つじつまが合わなくて悩むこともたくさんあります」


 旦那さまがいかに聡明か。勉強すればするほど、よくわかります。

 翻訳の単語選びひとつにとっても、わたしでは思いつかないようなものばかり。


 そして。


 わたしたちが何故、帝都ホテルに来たかといえば。

 旦那さまのお仕事が終わる時間に合わせて外食しようと誘われたから、です。

 幸子さんからは楽しんできてくださいと全力で言われました。全力で。


「洋食屋を予約してあるんだけど、少し時間があるから街を歩こうか。いいかな?」

「はい。もちろんです」


 帝都ホテルを後にしたわたしたち。

 街はとても賑わっています。

 わたしのような和装に混じって、ハイカラな装いの方もいます。近頃では、四輪自動車も増えてきました。


「何か、心配事があるんじゃないかい?」

「……え?」


 旦那さまが立ち止まったので、わたしもまた、立ち止まります。

 そして旦那さまを見上げました。

 すべてを見透かすような薄灰色の双眸に、心臓が大きく跳ねます。


「お気づき、でしたか」

「僕は君の夫だからね」


 旦那さまの後ろには、力強い晴れ空が広がっています。


「……実家から、手紙が届きました」

「どんな内容だったんだい」

、と」


 わたしは言葉を濁します。


「『役目は果たされた。最初の契約通り、離縁されて里見家へ戻って来い』、と」


 つまりのわたしに代わって、市佳さんを嫁がせたいのだと。

 ただ、筆跡はお父さまのものではありませんでした。恐らく、お義母さまが、お父さまの筆跡に似せて書いたのでしょう。

 お父さまは西園寺家を敵に回してまで、立ち回りたいと思っていないはず、……ですから。


「君はそれでいいのかい?」


 わたしは、静かに首を横に振りました。


桜花院おうかいん家に嫁いできた当初は、他に選択肢があるということを教わっていなかったので、それでいいと思っていました。……今は、違います」


 死ぬことでしか己の価値を見出せないと思っていました。

 それを救ってくれたのは、まぎれもなく、桜花院家で過ごした日々でした。


「僕がいない間に、君は、どんどん強くなったね。喜ばしいことだ」

「……いいえ」


 夏の、目が冴えるような晴天も。

 秋の美しい黄昏時も。

 冬の凍えそうな寒い夜も。


「旦那さまは、ずっと、わたしの傍にいてくださいました」


 ――旦那さまが戻ってくるように祈り続けたことが、わたしの力となったのです。

 すると旦那さまは、ふわりと微笑みを浮かべました。


「そうだね。その通りだ」


 そんな旦那さまの言葉に被せるようにして。




「あんたが異国の呪いから復活した、桜花院家の当主サマかい?」




 ざらりとした男性の声が、わたしたちを呼び止めました。

 くたびれたジャケットを羽織った四十代くらいの男性です。よれよれのズボンはずり落ちないためにサスペンダーで留めていました。

 猫背かつ大股で近づいてきて、旦那さまへずいっと名刺を突き出しました。


「おれはこういう者だ」


 わたしはちらりと名刺を盗み見ます。

 名刺には【日々にちにち新聞 記者 村田敏】と書いてありました。


「記者さんが、何のご用でしょうか?」


 旦那さまはやわらかな笑みを浮かべました。

 そろそろわたしも分かってきたのですが、こういうときの旦那さまは、本当に微笑んでいる訳ではありません。

 わたしは一歩後ろに引きました。


「異国の呪いってやつは、未だかつて誰も克服できたことがなかったそうじゃないか。あんたの論文を読ませていただいたが、非常に興味深い内容だった」

「ご丁寧にどうも」

「しかし、胡散臭い」


 じとっとした陰気な眼差しで、村田さんは旦那さまを見上げました。


「本当は本物の桜花院唯月は呪いで死んでいて、あんたは、替え玉なんじゃないか?」

「なっ……」


 わたしは思わず声を上げてしまいました。


「旦那さまは本物の桜花院唯月さまです。わたしはこの目で、旦那さまが呪いから解かれる様子を見ました」

「やちよ」


 旦那さまがやんわりとわたしを制します。

 

「あぁ、あんたが奥方サマか。そうだよな。白昼堂々、愛人と歩きはしないわな」

「村田さんとやら」


 夏だというのに、急に周囲の空気が冷えたような気がしました。


「妻を愚弄するのはやめておくれ。僕が最も愛する人だ」


 背中を向けられているので旦那さまの表情は見えません。

 ですが、村田さんの表情が一瞬こわばったのを、わたしは見逃しませんでした。


「……今日は挨拶だけのつもりだったが、庶民とも気さくに会話してくれる華族サマで安心したよ。また今度、酒でも飲もう」

「遠慮しておくよ。できれば、二度とあなたの顔を見ないでおきたい」

「ふん」


 村田さんはまだ何か言いたげでしたが、すごすごと去って行きました。


「大丈夫かい?」


 旦那さまがわたしに振り向きました。


「わたしは平気です。旦那さまにあんな疑いが向けられていることの方が、はらわたが煮えくり返りそうです」


 旦那さまが。

 わたしたちが。

 どんな思いでいたか、知りもしない人々の。

 好奇と負に満ちた感情。

 それがあんなに不愉快なものだとは、知りませんでした。


 だからこそ、わたしが旦那さまをお守りせねば、と思います。


「ありがとう」


 旦那さまが、わたしの髪にそっと触れます。


「僕は誰に何と言われようと傷つかないよ。君が傷つけられそうになること以外ではね」

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