第十九話
§
三角巾に割烹着。わたしの気合は、十分です。
今日はお花見。
陽が昇る前から、幸子さんとわたしはお弁当作りをはじめました。
炊き立てのご飯からはほかほかと湯気が立ち昇ります。
焼き鮭は皮までこんがりと仕上がりました。
ずっしりふくふくした梅干しは、幸子さんのお手製。
「かまぼこの飾り切り、ぶりの照り焼き、煮しめ、だし巻き卵……」
「奥さま。てきぱきやっていきますよ!」
「は、はいっ」
わたし以上に、やる気に満ち溢れている幸子さんが、しゃもじを掲げたときでした。
「いいにおいがするね!」
キッチンにヘルマンさんが現れました。
「おはようございます、ヘルマンさん」
「
ヘルマンさんが両手を大きく広げて、深呼吸してみせます。
「この国の空気をこんなに美味しいと思ったのは初めてだ」
「それは、食べ物のにおいも混じってるからですよ」
「幸子サンは野暮だねぇ」
それからヘルマンさんの蒼い瞳にやわらかなか光が浮かびました。
「正直なところ五十年はかかると思っていた。まさか二年で叶うとは」
「ヘルマンさんの懐中時計のおかげです。貴重な物を貸してくださって、本当にありがとうございました……」
わたしは懐から懐中時計を取り出して、ヘルマンさんに差し出しました。
しゃらんと長い鎖が、ヘルマンさんの手のひらにきちんと収まります。
「お返しします」
ヘルマンさんは、見たことのない表情になります。喜んでいるような、切なそうな、ふしぎな感情が湧いているようでした。
「……
「執念だなんて、そんな……」
わたしは俯きます。そして、続けました。
「皆さんの願いが届いたんですよ」
「それにしてもこの卵焼きはふわふわで甘みがあって最高だ」
「ちょっとヘルマンさま!? 大事なおかずを!?」
おふたりの賑やかなやり取りも久しぶりです。
わたしはくすっと笑みを零します。
そこへ。
「あまりつまみ食いをしていたら、桜の下で食べる分がなくなってしまうんじゃないかい?」
ガスキッチンの入り口にもたれかかって声をかけてきたのは、旦那さまでした。
わたしは慌てて味見用の卵焼きを皿に乗せます。
「あの……旦那さまも、召し上がりますか?」
「……」
すると旦那さまはそっぽを向かれてしまいました。
「いいね、やちよサン! 共犯作戦ということか!」
「そ、そういう訳では」
「僕はいいよ。桜の下で食べることに花見の意義がある。そろそろ正も来る頃だ」
「邪魔するぞ!!」
びくりと肩が震えます。見事なタイミングで玄関ホールから声が聞こえてきました。西園寺さまです。
旦那さまには予知能力でもあるのでしょうか?
幸子さんが割烹着を脱ごうとします。
「あっ、噂をすれば」
「幸子さん。僕が出迎えるから、重箱詰め、がんばって」
「旦那さま」
幸子さんが引き留めるも、颯爽と旦那さまは去って行かれました。
「やちよサン」
「はい」
「ユヅキ、食欲はあるんだよね?」
「はい。毎日三食、少ないもののきちんと召し上がってますよ」
宝石病にかかっていた頃は、ほぼ食欲のなかった旦那さま。
幸子さん曰く元々小食のようですが、今では味覚や嗅覚も回復して、食事を楽しんでいるようです。
「それならいいんだが」
ヘルマンさんが、ほっとしたような表情になりました。
「さぁ、タダシに怒られる前に、弁当を完成させようか!」
§
満開の桜の木の下で、わたしたちはお花見をしています。
今回は草木さんも一緒。幸子さんの説得の
気まずそうに草木さんは顎の無精ひげを撫でました。
「どうも、こういう場は。偉い人らに囲まれて緊張します」
「大丈夫ですよ。皆、気さくでいい人です」
幸子さんが、草木さんへ笑顔で話しかけます。こういうところを見習いたいと思うのですが、なかなか難しいわたしです。
どばどば、と聞き慣れない音。
「正。ほどほどにしてくれないか? こっちは病み上がりなんだ」
なみなみとお酒を注がれているのは旦那さまでした。
注いでいるのは、もちろん、西園寺さまです。
「病み上がりだと呆けるのも大概にしろ。お前がここ数日で、この一年の議事録すべてに目を通したのは知っているんだ」
「うーん。正には敵わないなぁ」
西園寺さまが推薦状を書かれたので、旦那さまは早々に議員となるようです。
本来あるべき、忙しい日々を送ることになるそうです。
そして、お酒を注ぐ側の西園寺さまが、何故か赤ら顔になっていました。
「ところでヘルマン。唯月の体の状態はどうだった?」
旦那さま以外の視線がヘルマンさんへ一気に集中します。
皆、訊きたくても訊けなかった事柄です。
「経過観察は必要だよ。何せ、宝石病から人間の姿に戻ったなんて実例がない。逆に言えば、今回のユヅキの結果によって、宝石病で苦しむ人々を助ける手掛かりが生まれるかもしれない」
「大金星だな!」
ぐびっ、と西園寺さまがお酒をあおりました。とても上機嫌なことはよくわかります。空いた瓶を旦那さまとわたしに向けてきました。
「で、お前ら。祝言はいつだ?」
「しゅしゅしゅ、祝言?!」
いきなり絡まれたわたしはすっとんきょうな声を上げてしまいました。
西園寺さまはしかめっ面のまま、少しろれつの回らない口調で言います。
「唯月が無事に元の姿に戻れたんだ。晴れて正式な夫婦になったということを、大々的に示してやれ」
「どうしたんだ。なんだか調子がいいな、タダシ」
「ばかか! 祝わない理由がないだろうが!」
支離滅裂です。西園寺さまは相当酔っていらっしゃるのでしょう。
口を尖らせながらも嬉しそうなのは幸子さんです。
「もう。西園寺さまったら」
わたしは恐る恐る旦那さまを盗み見ました。
旦那さまは西園寺さま以上にお酒を飲んでいるはずなのに、ちっとも変化が見えません。
「そうだね。なるべく早い方がいいかな?」
「ひぇっ!?」
この展開は予想外でした。心臓が飛び出るかと思いました。
「何を驚いているんだい。自分の話じゃないか」
「だ、旦那さま……」
わたしは口をぱくぱくさせます。
「そろそろ、君が和館に置いている荷物も洋館へ運ぼうと思っていたんだ。君はもうちょっと、僕の妻である自覚を持った方がいい」
「坊ちゃん。回りくどい言い方は駄目ですよ。だいたいこーんな小さかった頃――」
……あ、これは、幸子さんも酔っていますね?
「それもそうか」
旦那さまは突然わたしの手を取りました。
「改めて。正式に、僕の妻になってくれないか?」
宝石以上に美しい、整ったお顔に見つめられて。
わたしは茹だったように真っ赤になってしまいました。
「……は、はい」
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