*挿話 唯月視点 重要「じゃない」こと*
§
「おめでとう。君は、呪いを克服した」
白衣姿のヘルマンが、緩慢な仕草で両手を叩いた。
来訪早々に僕の部屋を訪れたヘルマンは、大きな鞄から次々と検査道具を取り出した。
僕はベッドに腰かけて、ヘルマンは背もたれつきの椅子に座った。
簡単な診察を終えて、冒頭の言葉に繋がる。
「とても、二年間ディアマントになっていたとは思えない。筋力も落ちていないし、簡易血液検査の結果も良好だ」
「それはよかった」
ほのかに消毒のにおいが漂っている。
使い込まれた道具から、この二年間、彼は彼なりに母国でがんばっていたというのが伺えた。
「なんだい? ユヅキ」
「君はすっかり医者になったみたいだね」
「さぁ、どうだろう」
ヘルマンが肩をすくめてみせた。何か杞憂があるようで、そのまま言葉を続ける。
「異常を何ひとつ見つけられないのが、問題なんだ」
「つまり、僕が何者なのかどうか、決定的な判断ができないということかい」
「
僕は、天井を仰いだ。
取り戻された五感に違和感はない。二年も人間でなかった期間があるとは、自分自身信じられなかった。
ダイヤモンドになっていたときの記憶もない。
呪いとは、そういうものなのかもしれない。
「僕が人間なのか付喪神なのか、そんなことは重要じゃないさ。こうして僕のまま戻ってこられた。それで充分だ」
「ユヅキらしい意見だよ」
立ち上がって、窓際まで歩く。
出窓の外には満開の桜。
今日はこの後、皆で花見をすることになっている。絶好の花見日和だ。
窓を開ければ、穏やかな陽気が室内にも入ってくる。
瞼を閉じる。
(実際、どうなんだろうな)
やちよから提案された、敢えて宝石病を受け入れるという第三の選択肢。
そこから人間の姿を取り戻すという突拍子もない賭け。
百年かかると言われていたが、僕は二年で戻ってこられた。
やちよの想い。ヘルマンの魔法。
様々な要素が組み合わさった結果なのだろう。
右手を心臓の辺りに当てた。鼓動は規則正しく刻まれている。
(生きていることがこんなに尊いことだとは思ってもいなかった)
振り返って、僕は窓台に腰かけた。
髪の毛が風に舞う。
「君はどう思う? ヘルマン」
「……そうだな。ユヅキが戻ってきてくれたことが、今はうれしいよ」
何かを諦めたように、ヘルマンが口角を上げた。
「また定期的に診させてもらう」
「うん。よろしく頼む」
ヘルマンはてきぱきと医療道具を鞄に詰め始めた。
「さて、ワタシはキッチンを見学してくるとしよう」
「見学? つまみ食いの間違いだろう」
「そう言うならユヅキも来ればいい」
そそくさとヘルマンは部屋を出て行った。
さぁっと春の風が室内に吹き込んでくる。
下肢がダイヤモンド化してから入ることのなかった二階の自室は、意外なことに埃っぽくなかった。
幸子さんか、やちよのどちらか。
あるいは両方が、定期的に掃除をしてくれていたのだろう。
(僕が何者なのかは、どうでもいい。今はこの奇跡を受け入れて、誠心誠意、生きていくだけだ)
わずかな不安と、強い決意は胸に秘める。
一生、誰にも話すことは、ない。
§
一階へ降りて行くと、案の定、ガスキッチンからは賑やかな声が聞こえてきた。
主に幸子さんとヘルマンのものだ。
「あまりつまみ食いをしていたら、桜の下で食べる分がなくなってしまうんじゃないかい?」
ガスキッチンの入り口にもたれかかって声をかけると、三人の動きがぴたりと止まった。
おずおずと割烹着姿のやちよが近づいてくる。
その手にはだし巻き卵の切れ端の乗った皿。
「あの……」
「ん?」
「旦那さまも、召し上がりますか?」
二人に巻き込まれているだけのはず。なのに、やちよの表情があまりにしおらしくて、僕は反射的に横を向いた。
「いいね、やちよサン! 共犯作戦ということか!」
「そ、そういう訳では」
キッチンの奥、台の上には空の重箱。どうやら今から詰めるところらしい。
僕はひらひらと右手を振った。
「僕はいいよ。桜の下で食べることに花見の意義がある。そろそろ正も来る頃だ」
「邪魔するぞ!!」
見事なタイミングで玄関ホールから正の声が聞こえてきた。
「あっ、噂をすれば」
「幸子さん。僕が出迎えるから、重箱詰め、がんばって」
出迎えに行こうとする幸子さんを制して、僕は玄関へ向かう。
正は焦げ茶色のスーツ姿で立っていた。
「やぁ。二年ぶりだね?」
「二年ぶりだというのに挨拶が軽すぎる!」
正が帽子を取り去った。不満げに、顔をしかめている。
僕はわざとらしく両手を広げた。
「外国風の挨拶でもするかい?」
「誰がするか、阿呆」
「ちぇっ」
「残念そうにするな!! 中庭に行くぞ」
何故か先導するように正は踵を返す。
「変わらないなぁ」
僕は苦笑いを浮かべつつ、草履を履くと正に続いた。
「これから忙しくなるぞ。呪われていた分、馬車馬のように働け」
「とても人の心があるとは思えない発言だ」
「俺は昇格した。お前とは既に差が開いている」
「はいはい。すぐに埋めてみせるさ」
屋敷内を、明るい声と、食欲のそそる香りが満たしている。
「……ありがとう」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、何も」
二年半前は、こんな日々が来るなんて、夢にも思っていなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます