第十八話

§



「今日も旦那さまはお変わりありませんね」


 書斎の掃除をしにきた幸子さんが、ぽつりと零しました。

 ダイヤモンドになった旦那さまに、少しも変化はありません。


「懐中時計の魔法で、少しでも時間が進んだことになればいいんですが。このままでは奥さまも不憫すぎます」

「いえ……。わたしは……」

「ということで!」


 突然、幸子さんの声色が明るくなりました。


「えっ?」

「来週。ヘルマンさまが、一年ぶりに、日本に来られるそうです! 珍しく西園寺さまにも声をかけたそうなので、皆でお花見をしましょう。今度は、草木さんも一緒に」


 わたしは瞬きで返します。


「お花見、ですか」

「旦那さまはあの桜の木が好きなんですよ。あたしたちでどんちゃん騒ぎをしていたら、楽しそうだなって思って人間に戻るかもしれません」

「考案者は、ヘルマンさんですか?」

「ふふ。当たりです」


 幸子さんが、優しいまなざしで、旦那さまを見つめます。

 きらきらと光り輝くダイヤモンド。


 最近、宝石のことも調べるようになりました。

 ダイヤモンドというのは、その美しさから市場価値の高い宝石だそうですが、宝石のなかで最も硬いのだそうです。

 決して砕けない宝石。そして、何よりも光り輝く、宝石。

 旦那さまの心が、そのまま輝きに変わったようにも思えます。

 

「せっかくなら、旦那さまがうらやましがるような立派なお弁当を作りましょうか!」

「そうですね」


 わたしはしばらく出し巻き卵を作っていないことに気づきました。

 新しいおかずに挑戦しても、いいかもしれません。


「お酒もとびきりのを買ってきます。お花見の日は思い切りはしゃぎましょう! 旦那さまだって、奥さまが楽しそうにしていた方がいいはずです。きっと」


 にこにこしながら幸子さんは部屋を出て行きました。

 わたしは懐中時計を両手でぎゅっと握りしめます。


「楽しそうに、……」


 旦那さまがいてくださったら、どんなことでも、楽しいと思える気がします。

 わたしは必死に祈ります。

 異国の神さま。どうか、わたしたちに、旦那さまを返してください……と。 


 いつしか、窓から差し込む光の色が、やわらかなものに変わっていました。

 書斎の窓を開けます。黄昏時の風が、カーテンを、髪の毛を揺らしました。


 淡い黄金に包まれた中庭の桜は五分咲き。

 たしかに、来週であれば満開になっていそうです。

 桜を眺めながら、わたしはひとりごちます。


「旦那さまに話したいことが、たくさんあるんですよ」


 宝石病の新たな文献の、翻訳を進めていること。 

 クロスステッチで模様を入れたテーブルクロスを作ったこと。

 緊張してうまく話せないかもしれません。

 だけど、旦那さまに聞いてほしい、そう思います。


 夕暮れの眩しさに、わたしは目を細めます。

 ゆっくりと、窓の外から旦那さまへ視線を向けました。


 かつてヘルマンさんに訊かれたことがあります。


【好きになってしまったのかい? ユヅキのことを】


 そのときは、分からない、と答えました。

 自分の気持ちにどんな名前をつければいいか、分からなかったからです。

 死なせたくない。

 そのためにできることなら、何でもしたい。

 その一心でした。


 今なら分かります。

 わたしは、旦那さまのことを、――


「お慕いしています。……Sie müssen leben」


 ヘルマンさんから最初に教わった異国の言葉を、口にします。


【あなたは、生きなければなりません】


 当然ながらダイヤモンドとなった旦那さまから、返事はありません。

 わたしが幸子さんの手伝いをしようと書斎から出て行こうとした、まさにそのときでした。




「あれから何年経ったんだい?」




 柔らかで懐かしい声が背中に届きました。


「えっ?」


 わたしは勢いよく振り返ります。

 透明に透き通りながらも虹色の光を反射していた旦那さまの体が――


 みるみるうちに、見慣れた姿へと変化していき――


「……」


 声が掠れて、思うように出せません。

 頭が真っ白です。ぺたん、とわたしはその場にへたり込みました。

 

「どうやら成功したみたいだね」


 旦那さまと視線が合います。

 どこもダイヤモンド化していないかんばせを、わたしは初めて目にしました。


 切れ長の瞳は、濃灰色だと思っていましたが、もっと複雑に色がまじりあっているようです。

 極限まで研ぎ澄まされた美貌。

 一瞬女性のように見えても、やはり男性なのだと思わされる喉仏。


 男の人に、美しいという形容詞を用いてもいいのでしょうか?

 恥ずかしくてわたしは目を逸らします。


「君の見た目がさほど変わっていないということは、百年も経っていないのか」


 聞きたかった声。

 落ち着いていて、やわらかくて、どこか深い海のような声。


「……二年、です……」

「ははは。それは、すごい。思った以上に短かった」


 未だに信じられません。

 わたしは何も言えず、ぼたぼたと涙を零します。乱暴に袖で拭います。


「うん。体も、軽い」


 旦那さまがいとも簡単に起き上がり、布団から抜け出ました。

 それから。

 座り込んだままのわたしの目の前にしゃがみました。


「顔を上げて」

「だ……旦那、さま……」


 わたしが泣きじゃくっている声が聞こえたのでしょうか。

 ばたばたと幸子さんが戻ってきます。


「奥さま? どうされましたか? えええええ! !? えええええ! お帰りなさい、旦那さま! さ、西園寺さまへ連絡を入れてまいります! 今日は予定を変更してお赤飯ですねーっ!!」


 そして嵐のように、一瞬で去って行きました。

 ふっ、と旦那さまが吹き出します。


「相変わらず賑やかだね」

「幸子さんも、ずっと、旦那さまを案じて……。西園寺さまも毎月……。ヘルマンさんは、時間を進める懐中時計を……」

「落ち着いて。これまでのことは、後でたっぷり聞かせておくれ。幸子さんが戻ってくる前にしたいことがある」

「え?」


 わたしは顔を上げました。

 橙色の光に満たされて。

 旦那さまは微笑むと、わたしのことを抱きしめました。


「ありがとう、やちよ。……ただいま」

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