祈り -Gebet-

第十七話

§



 季節はさらに進み、強い陽射しが降り注ぐ日が増えてきました。

 すっかり髪が伸びたわたしは、最近では髪の毛をひとつにまとめるようになりました。


 先日、ヘルマンさんは母国へと帰りました。


【ちょっとやりたいことができてね。また、そのうち遊びに来るよ】


 何かは教えてくれませんでしたが、きっと、旦那さまに関わることなのでしょう。

 ヘルマンさんも、西園寺さまも、幸子さんも。

 皆、旦那さまのことが、大切なのです。


 ヘルマンさんが帰国する前、書斎へ蓄音機を運んでくれたので、レコードを聴けるようになりました。

 音楽を流しながら、わたしは洋館の書斎で。

 旦那さまの傍らで、宝石病に関する文献の翻訳をはじめました。


 粛々と桜花院家で過ごす日々。

 物言わぬダイヤモンドとなった旦那さまは、晴れた日でも雨の日でも、静かに内側から光を放っています。

 まるで、旦那さまの本質を表しているようにも、感じました。



§



 旦那さまがダイヤモンドと化したことは公にしてはいませんでしたが、里見家には伝わってしまったようでした。


 乱暴な馬の足音が止まったかと思えば、怒声が室内まで響いてきました。


「出てこい! いるんだろう、やちよ!」


 聞き間違うはずがありません。わたしのお父さまの声でした。


「追い返してきましょうか?」


 幸子さんが書斎へ飛び込んできます。


「それにしても本当にあれが父親ですか。自分の実の娘の命を売ろうだなんて人間の所業じゃありませんよ。それで後妻に、別の娘をあてがおうだなんて。あぁ、気持ち悪い。……ってすみません。奥さまのご家族に」

「いえ、いいんですよ」


 苦笑いで答えます。初対面のときから、幸子さんはいつでも、わたしのことを案じてくれているのですから。


父親なのは事実なので。……わたしが出ます」

「だったらお化粧をしていきましょう。身なりを整えて、びびらせてやりましょう!」


 わたしは幸子さんの提案に乗ることにしました。

 化粧をして、着物を整えて、外に出ます。


 門前には、お父さまと市佳さん、お義母さまが立っていました。

 お父さまは分かりやすいくらい顔を真っ赤にして怒っています。

 市佳さんとお義母さまは、わたしの顔を見て、一瞬ぎょっとした表情になりました。


 わたしは居住まいを正して、深くお辞儀をします。


「ご無沙汰しております」

「この出来損ないめ。死ぬために嫁がせたというのに、何故お前が生き延びて、桜花院唯月が金剛石ダイヤモンドになったのか聞かせてもらおうか」

「そうよ! それに、何? いい服着て、化粧までしちゃって! 唯月さまを宝石として売り飛ばして、女主人として桜花院家の乗っ取りでもした訳? 犯罪者として通報するわよ!!」


 すぅ、とわたしは息を吸い込みました。


「おふたりとも、こんな場所で声を荒げるのはおやめください」


 わたしが反論すると思っていなかったのでしょう。ふたりは、口をぽかんと開けました。


「おふたりへ説明しても理解していただけないでしょうから、理由と内容はこの場では割愛いたします。ただ、これは、桜花院家当主である旦那さまが望んだことです。さらに、旧華族である西園寺家、また帝国貴族のリヒター伯爵家からも支持をいただいています。異論がございましたら、まずはそちらへの申し立てをお願いいたします」


 権威に弱いお父さまへ、敢えて分かりやすく伝わるよう、わたしは告げました。

 これは、なんと西園寺さまからの提案でもありました。


【実家の輩が訪ねてきたら俺の名を出せ。それで大体なんとかなる】

【では、ワタシの名前もどうぞお使いください】


 西園寺さまは桜花院家へ顔こそ見せに現れませんが、裏で色々と動いてくれているようでした。ヘルマンさんも同じく。

 だからこそ、帝国教会へ持っていかれることなく、旦那さまはこの国に留まっていられるのです。


「ぐっ……」


 予想通り、お父さまは言葉に詰まりました。

 一方で市佳さんの逆鱗には触れてしまったようです。


「このっ、……泥棒猫がっ!」


 ぱんっ!


 乾いた音が響き、わたしの頬が熱を持ちます。

 市佳さんがわたしの頬を叩いたのでした。

 わたしはよろめくことなく、背筋を伸ばします。


「お引き取りください」


 三人をしっかりと見据えます。そして腰を曲げて、もう一度、頭を下げます。


「お引き取り、くださいませ」


 三人はまだ不満げでしたが、ぶつぶつ言いながら去って行きました。馬車を拾えたらしく、音が響いてきます。


「……はぁ」


 わたしは顔を上げました。

 青い空に、入道雲が浮かんでいます。


 ぶたれた左頬がじんじんと痛みを訴えています。

 ですが、こんな痛みくらい。

 旦那さまがいつ目覚めるかどうかの不安に比べたら、たいしたことはありません。


「わたしが不安になってどうするの……」


 首を振り、わたしは桜花院家へ戻ります。



§



 蝉の声が聞こえなくなり、とんぼが辺りを飛び交うようになった頃。

 空の色は一段と淡く、高く見えるようになりました。


 わたしが桜花院家へ嫁いできて、一年が経とうとしています。

 今日も、わたしは書斎で一日を過ごしています。


 ――ダイヤモンドとなった、旦那さまの隣で。


 翻訳の傍ら、最近は、クロスステッチも再開しました。

 レコードは静かに流れ続けています。

 穏やかな、穏やかな日々です。


 こんこん、と扉がノックされました。


Guten Tagやぁ

「ヘルマンさん!? お久しぶりです」


 慌てて立ち上がり、お辞儀をします。


 前触れなく書斎に現れたのはヘルマンさんでした。

 金髪はきれいに後ろへ撫でつけ、整髪料で固めています。

 数か月ぶりに見た蒼い瞳は、明るい光を湛えていました。

 ぱりっとしたスーツがお似合いのヘルマンさんは、帽子を取ると、チェストの上に置きました。


Krassすごい! ユヅキは今日も立派に光り輝いているね!」


 ヘルマンさんらしい言い回しです。

 ふっと瞳を細めて、ヘルマンさんは続けました。


「ワタシにも祈らせておくれ、やちよサン」

「もちろんです」


 わたしは席を譲り、書斎の壁際に立ちます。

 ヘルマンさんはロザリオを取り出しました。そして、ヘルマンさん流の祈りを捧げます。


 十分ほど瞼を閉じていたヘルマンさん。


「やちよサン。長時間の外出はしていないんだろう? ここはワタシが見ておくから、たまには気分転換でもしてきたらどうだい」


 いいえ、とわたしは首を左に振ります。


「少しでも長く、旦那さまの傍にいたくて」

「そう言うと思った。では、そんなやちよサンにいいものをあげよう」

「……?」


 ヘルマンさんが差し出したのは、懐中時計でした。

 ずしりと重たく、しゃら、と鎖部分が手のひらから零れます。

 開くと、秒針がかちこちと時を刻んでいました。


「これは、魔法道具では……」




 あれは皆でレコードを聴いたときのことでした。


【まるで魔法みたいですね!】





 蓄音機から音が出ることに感激したわたしに対して、ヘルマンさんが懐中時計を見せてくれたのです。

 たしか、ちょっとだけ時間を進めることのできる時計、だと説明してくれた記憶があります。


Jaその通り.ワタシの魔力ではちょっとしか時間を進めることができない。だから、当主――父に頼んで、魔力を注いでもらってきた」


 わたしは懐中時計から顔を上げます。


「……それって、どういう、意味ですか」

「すぐに百年経つというのは流石に難しいけれど、ユヅキの時間を進めてくれるような魔法をかける」


 かち、こち、と。

 小さなレコードの音に混じって、懐中時計の音が、規則的に響きます。


「ユヅキを取り戻したいのは、やちよサンだけじゃないからね」


 想像の域は出ませんが。

 ヘルマンさんにとって、お父さまへ頭を下げるということは、かなりの決断が必要だったことではないのでしょうか。

 魔術師の家系であるということに嫌気がさした、と言っていたはずです。

 そして旦那さまの言葉をきっかけに、大学へ復学したと。


 ヘルマンさんは、立ち上がると、わたしに向かって頭を下げました。


「お、おやめくださいっ」

Besten Dankありがとう.やちよサンがいなければ、ワタシの希望は潰えていた。礼を言う」

「いえ……。まだ、成し遂げてはいないですから……」


 鼻の奥がなんだか熱くなってきて、ずずっとすすります。


「それから、もうひとつ。君の名前が、きっとコトダマになる」

「言霊?」

「八千代。長い間、という意味だ。言葉とは呪文。君が、ユヅキへ魔法をかけるんだ」


 ヘルマンさんは片目を瞑ってみせました。


「やちよサンがおばあちゃんになる前に、ユヅキには目覚めてもらわないとね。ワタシも元気なうちに、君たちの結婚式に出たいから」


 わたしは懐中時計を握りしめました。

 ひんやりと冷たい金属の感触。手の中で、かちこちと音がします。




 ――そこからさらに、時間は流れて――




 わたしが桜花院家へ来て、三回目の春を迎えようとしていました。

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