第十三話
§
満開となれば、やがて、風に吹かれて舞い散るのが桜というもの。
満月に照らされた桜の木から、はらはらと花びらが流れています。
光を受けてほのかに煌めく花びら。
その一枚が開け放たれた窓から食堂へと入ってきて……
旦那さまの、書類の上に降りました。
「これはこれで風流だね」
旦那さまが花びらをそっと指で掬います。
書類、とは。
宝石病の症例を旦那さまが翻訳したものです。旦那さまは、そこへ自身の症状を書き加えているのです。
わたしは旦那さまに頼まれて、コーヒーを淹れているところでした。
桜の花びらをつまむ旦那さまの指先までダイヤモンドが広がっていることに、ずきんと胸が痛みます。
旦那さまの呪いを解くと豪語しておきながら、何のいとぐちも見つけられていないまま、時間ばかりが過ぎていました。
「明日は雨だというし、すべて散ってしまいそうだ」
「……そうですね」
「少し、外へ出てみようか」
「え?」
旦那さまはテーブルを支えにして立ち上がり、杖をつきました。
固まったままのわたしに向かって、ゆっくりと肩越しに振り返ります。
「おいで」
「は、はい」
旦那さまとわたしは、中庭へと出ました。
桜の木から離れたところに並んで立ちます。杖をついていても、旦那さまの背すじはしゅっと伸びています。わたしの目線は、旦那さまの肩より下。
夜風はぬるくて、暖かいものでした。
もう少し涼しくてもよかったのに、と思います。
旦那さまに近づけば近づくほど、体温が上がってしまうからです。
きらきら……。
月の光を受けて、旦那さまのダイヤモンドが輝きます。
「昼間の桜も明るくてきれいだけど、夜の桜も、雅なものだね」
「そうですね」
わたしたちは夜空を見上げます。
満天の星。
その下に、桜の木。
会話はなくても、いつまでもそこにいられそうな気がしました。
しかし。
この日を境に、旦那さまの病状は悪化の一途を辿り――
旦那さまの両足は、ついにダイヤモンドへと変わってしまいました。
ヘルマンさんが一階の書斎を改造して、ベッドを入れてくれました。
わたしはまだ、呪いを解く方法を見つけられていません。
§
「唯月ッ!」
屋敷に飛び込んできたのは西園寺さまの声でした。旦那さまの症状が悪化したことを知ったのでしょう。
わたしは洋館側から玄関へと走ります。
「さ、西園寺さま。旦那さまは一階の書斎です」
「チッ」
二階へあがろうとする西園寺さまへ声をかけると、睨まれ、舌打ちされました。
乱暴な足取りで西園寺さまは書斎へと向かい、大きな音を立てて扉を開けます。
わたしが追いついたところで、西園寺さまの怒声が轟きました。
「お前は、……馬鹿かッ」
「どうだろう。学校の成績は正より上だったよ」
くるり、と西園寺さまがわたしへ振り返りました。
怒鳴られる予感がして、わたしは背筋を伸ばします。
ですが次に西園寺さまが取った行動は――予想外のものでした。
ばんっ。
西園寺さまは、わたしに向かって、土下座してきたのです。
「頼む。唯月の代わりに死んでくれ」
「正」
旦那さまが、西園寺さまの背中へ向かって声をかけます。
西園寺さまは土下座をやめません。
「お前は黙ってろ、唯月」
西園寺さまは顔を上げました。
切実さは充分すぎるくらい伝わってきます。この人もまた、旦那さまのことが大事なのです。
「この国には唯月が必要なんだ。こんなこと言っても分からないかもしれないが、今、この国は再び海外へ戦争を仕掛けようとしている。唯月の頭脳が、必要なんだ」
「ん? 僕は戦争否定派だよ」
「だから黙ってろ」
……わたしは。
自らの動悸が激しくなっていくのが分かりました。
体は熱いのに、指先がどんどん冷えていきます。
西園寺さまは訴え続けます。
「君が死なないでまだ生きていることは、里見家にとって契約違反だろう。唯月の代わりに宝石病で死ぬために嫁いできたはずだ。君が死んで、後妻に里見家の次女をあてがう。元老院からはそういう話だと聞いている。まだ君が生きていることがそもそもの間違いなんだ」
「正!」
わたしは、旦那さまが声を荒げるのを、初めて見ました。
しかしそれも一瞬のこと。
「言っていいことと悪いことがあるよ」
再び旦那さまは穏やかな口調に戻ります。穏やかですが、ぞっとするような圧がありました。
「……」
わたしは。
自分のなかで。
がらがらと、何かが崩れるような音が聞こえた気がしました。
息が、苦しくて。
言葉が、出てこなくて。
「呪いを解くと豪語しておきながら方法が見つかっていないだろう。君にできることは、その命を唯月へ差し出すことだけだ」
「……申し訳、ありません」
ようやく出た言葉。
生きていて、申し訳ありません。
わたしが旦那さまを救うなど、思い上がりもはなはだしくて、申し訳ありません。
震える体を無理やり押さえつけて、わたしは――屋敷を飛び出しました。
遠くで雷が鳴っています。
これまで、ずっと。
ずっと。
死を望まれても平気だったはずなのに。
あんな風に言われると、何も言えませんでした。
情けない。
消えてしまいたいけれど、それが許されているのは、旦那さまの身代わりになるときだけです。
ぽた、と雨粒が頬をかすめます。
雲が重たく立ち込め、あっという間に大粒の雨が降ってきました。
……そのまま立ち尽くしていると。
「あら?」
びくり。反射的に肩が震えました。
今、最も会いたくない、聞きたくない、声、が。
「お姉さま、どうしてまだ生きているの?」
傘を差した義妹、市佳さん。
続いて、お義母さまが商店から出てきました。
「……い、……」
「話がちがうじゃない。お姉さまが死なないと、あたしが桜花院家へお嫁にいけないのよ?」
鈴の音のように市佳さんが笑います。
曇天は明るく光り。
近くで雷の落ちる、割れるような甲高い音。
「うふふ。さっさと死んでちょうだいね」
市佳さんと、お義母さまは。
わたしがまるで存在しないもののように、脇を通り過ぎて行きました。
「お母様。帰りにもう一軒、寄りたい場所があるんですの」
「我儘言うんじゃありません。こんな雨なんですから、タクシーで帰るわよ」
冷たく重たい雨は、降り続いています……。
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