春 -Frühling-
第十二話
§
年が明けて、大きな変化がありました。
わたしが洋館のガスキッチンで料理をするようになったのです。
年越しを洋館で過ごして以来。
旦那さまから、正式に洋館へ入ることを許されました。
一日おきの朝食で、旦那さまが和館側へ移動する負担を減らすためでもありました。
「違いますって、そうじゃないんですってば! 奥さまは何にも分かっていません」
なぜだか幸子さんはふしぎな否定をしてきました。ふしぎな、というのは、嬉しそうにしていたからです。
「すべては、愛ゆえ、です。旦那さまの右足は
このときの幸子さんの『愛』は、おにぎりではなくて、卵焼きでした。
幸子さんから教わった秘伝のだし巻き卵は、旦那さまも目を細めながら召し上がっていました。
花の絵をクロスステッチで施した台拭きは好評で、
旦那さま、幸子さん、ヘルマンさん、そしてわたしの四人分。
ヘルマンさんの名前の綴りは旦那さまから教えてもらいました。それぞれの名前を刺したマットは、朝食に欠かせない敷布となりました。
底冷えする日が減るにつれて、わたしの書物庫でも活動時間も伸びていきました。
紙のにおいに包まれながら、辞書を片手に、文字を指と目で追っていきます。
かつて、ヘルマンさんが言っていました。
大陸とこの国では神さまの在り方が違うそうです。
【それを受け入れられない人間も大陸には多いが、自分としては面白い概念だと思う】
今まで意識したことはありませんでしたが、この国の神さまは、ありとあらゆるものに宿るのです。
相変わらず、呪いを解く方法は見つけられていません。
溜め息を本に挟みます。
季節というのは、時間というのは。
人間の営みと関係なく移ろいゆくものです。
旦那さまへかけられた
§
ストーブは物置にしまわれ、窓を開ける日が増えてきました。
わたしが食堂のテーブルを拭いていると、着物姿の旦那さまが杖をついてゆっくりと現れました。
歩くたびに、後ろで結ばれた髪が揺れます。
年が明けてからというもの、わたししかいないときは仮面をつけない旦那さま。ダイヤモンドになってしまった皮膚からは、きらきらと光が零れています。
ぽかぽかと暖かくなってきたからでしょうか。近頃、旦那さまは体調がよさそうです。
「緑茶を淹れましょうか」
「ありがとう」
わたしは手を止めてガスキッチンへと向かいます。
旦那さまがお気に入りの緑茶を急須で淹れ、湯のみに注いで食堂へと戻りました。
旦那さまはいつもの席に座っていました。
「どうぞ」
旦那さまは湯呑みを手にして、そっと瞼を閉じます。
「いい香りだ。君は緑茶を淹れるのが上手い」
「……ありがとう、ございます」
わたしは拭き掃除を再開しました。
そよそよと、窓から爽やかでやわらかな風が入ってきます。
時折、小鳥のさえずりも聞こえてきます。
視線に気づいて旦那さまへ顔を向ければ、穏やかな笑みを湛えていました。
「……? どうされましたか?」
「こちらへ来てごらん」
「はい」
わたしは、旦那さまに近寄り、屈みます。すると旦那さまが食堂の窓の外を指差しました。
「ほら、あそこ」
旦那様の指が示す先は、中庭。
淡く、桜のつぼみが綻びはじめていました。
よく見れば既に咲いているものもあります。
「春が来たよ」
こんなに明るくはっきりと聞こえる旦那さまの声は、とても珍しく感じます。
「ヘルマンたちと花見をしよう。満開の桜の下で、弁当を食べよう」
「いいですね。何を作りましょうか?」
「おにぎりとだし巻き卵は入れてほしいな。あとは、君と幸子さんに任せる」
「……」
「……」
(えっ?)
至近距離で目と目が合って。
ダイヤモンドに、わたしの驚いた顔が映り込んで。
わたしは弾かれたように立ち上がりました。
「すっ、すみません……」
無意識に旦那さまの傍に来ていたことにようやく気づき、恥ずかしさで頬が熱くなってきます。
心臓も早鐘を打ち始めます。わたしは両手で顔を覆いました。
「ふふっ、ははは」
旦那さまの笑い声。
わたしは覆った指の隙間から旦那さまを盗み見ます。
旦那さまは、指で目尻を拭っていました。
「ははは……声を出して笑ったのはいつ以来だろうな……あぁ、おかしい。気を悪くさせてしまったなら申し訳ない。おかしく感じているのは、自分自身のことなんだ……」
§
そして、桜が満開となった日に、お花見は実行されました。
淡くも立派な桜の木は、一本とは思えないほど太い幹と長い枝で、中庭を桜色で覆っていました。
風に揺られる様はまるで海のようでもあり、雲のようでもあり。
いつまでも眺めていられる光景です。
これまで外に出る機会がなかったわたしだけでなく、異国出身のヘルマンさんにとっても驚きだったようです。
「……
「代々守り続けてきた桜ですから。桜花院家の象徴でもあるんですよ」
「苗字にも桜の名前が入っているからね」
旦那さまが幸子さんを補足します。
今日は幸子さんもいるので、仮面をつけています。
桜の先は澄み渡る青空。
小鳥が歌い、蝶が舞います。
旦那さまには椅子を用意して腰かけてもらいました。
ヘルマンさん、幸子さん、わたしは大きめの敷布に腰を下ろします。
庭師の草木さんへも声をかけましたが、賑やかな場は苦手だと断られてしまいました。
「Das Betrach
「ヘルマンさまの母国にはないのですか?」
「
ヘルマンさんは桜を見上げたまま。
一方で、幸子さんが敷布の上に漆塗りの重箱を置きました。
「ささ、ヘルマンさま。お花見に大事なのは桜だけではありません。美味しいものも、必要ですよ!」
おせちにも活用した、三段の重箱です。
幸子さんがぱかっと蓋を開けます。
海苔をまいたおにぎり。
だし巻き卵。
それから、初挑戦のクリームコロッケ。
お煮しめはおせちと同じ内容にしました。
「これは豪勢だ」
旦那さまの表情も、桜のように綻んで見えます。
「ヘルマンさんにはお酒も用意しました」
「そんな。ユヅキに悪い」
「僕はかまわないよ」
「ではいただくとしよう」
「即答ですか!」
幸子さんの大声に、皆が笑います。
「乾杯」
旦那さまは空のおちょこを掲げると、こつん。
ヘルマンさんのおちょことぶつけました。
「奥さまとあたしが腕によりをかけたんですから、しっかり召し上がってくださいね!」
「コロッケは家庭で作れるものなんだね。知らなかった」
「そのうちやちよサンは帝国料理のフルコースを覚えてしまいそうだ。ユヅキ、よかったな」
会話と食事と、花見。
のんびりと時間が過ぎていきます。
ふと、旦那さまが桜を見上げました。
「……本当に、美しい」
全員がつられるようにして桜を見上げました。
満開の桜は、風で散ることを知りません。
――――――――――
※補足です※
時間が経ち、やちよも簡単な異国語が分かるようになってきたので、和訳をつけています。
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