*挿話 唯月視点 一月一日*
§
ストーブの熱が、じんわりと食堂全体を暖めている。
うとうとしては顔を上げる。その繰り返し。
普段ならば、こんなことはないのに。
何故なら、五感は日増しに鈍麻していっているからだ。
『宝石病』という呪いは、人間を宝石に造り変えていく。現代の医療では説明できない。呪いと呼ばれる
僕の右足はダイヤモンドになってしまった。足の付け根から先の感覚はない。
それなのに、まだ、元のままのような錯覚を起こすことがある。
そして動かないことを再認識する度、身の内に絶望が降り積もるような気分に陥る。繰り返していくうちに精神を病む者もいる。宝石病が呪いと呼ばれる、もうひとつの理由だ。
(気が緩んでいるのは大晦日だから、だろうか)
――否、それとも。
すぅ、という静かな寝息が聞こえてきた。
向かいの席で、
(朝から大掃除だの料理だの、休む間もなく働いていたからだろうな)
机に手をつきながら、ゆっくりと立ち上がる。そのまま机のふちに沿って歩き、眠るやちよに、そっと毛布をかけた。
「ん……」
よほど深い眠りについているのだろうか。やちよは、少し声を出したものの、起きようともしない。
(せめて夢のなかでは、穏やかに過ごしていてほしいものだ)
さらり。
――気付けば、やちよの髪の毛に触れていた。
桜花院家へ来た頃にはごわついていた彼女の髪の毛は、ここで暮らすにつれて、伸びるにつれて、艶が出てきた。
まだ人間のままの指で、やちよの髪を梳く。滑らかな指通りだというのがはっきり分かる。
(幸子さんがいろいろと気を遣ってくれたから、だろうな)
そもそも、里見やちよという女性は、妻という肩書の生贄だった。
宝石病の引き受け先だと提案されたときは、あまりの愚かさに目眩がしたものだ。
やんわりと拒否し続けていたが、強引な形でやちよが生家を追い出されたと知り、受け入れざるをえなくなってしまった。
幸子さんには、はっきりと拒否しないからだと怒られた。
事前調査で判明していたことだが、やちよは生家で虐待されていたらしい。
当然といえば当然だ。そうでなければ、誰が好き好んで死ぬために嫁いでくるだろうか。しかも後妻には自らの義妹? まともであれば信じられない話だ。
宝石病の身代わりとして死を引き受けようと嫁いでくる妻。
まだ見ぬ彼女に対して、自分にできることは何かを、考えた。
……理不尽な運命から解放すべきだという、結論に至った。
屋敷に来てからは、遠ざけていたのに目の前に現れた。だから告げた。
【僕が君を愛することはない。半年ここで耐えてくれたら、僕の遺産の一部を与えるよ。それで、君は自由になれる。君のことを誰も知らない町へ行くといい】
【不審に思うなら、慈善事業とでも思っておくれ】
【死ぬ前に、困っている人間に手を差し伸べてみたくなった。ただそれだけのことさ】
彼女がこの先も生きてくれるのならば、この身に受けた呪いも、受け入れられると思った。
何故なら――
「……皮肉な話だ。君から言われるなんて思ってもみなかったよ。『生きなければならない』、と……」
じりりり、とベルが鳴った。
壁掛け電話の着信音だ。もう丑三つ時だというのに、電話交換手は二十四時間働いているらしい。
じりりり。
じりりり。
ベルは鳴りやまない。幸か不幸か、やちよは熟睡してくれていた。
杖をつきながら壁際まで歩く。
「はい」
『
電話交換手の淡々とした声に、ふぅ、と溜め息を吐き出す。
「……どうぞ」
『明けましておめでとう、唯月』
雑音の後、くぐもった正の声が聞こえてくる。
後ろでは宴会をしているのだろうか、複数の男性の声が響いていた。
「うん。おめでとう。おかげで、無事に年を越すことができたよ」
『当然だ。お前には生きてもらわないと、困る』
普段の物言いと違う、どこか切実さを感じる声色。
ふっと笑みがこぼれる。それが電話の向こうへ届いているのかどうかは分からない。
『早く抱くなりなんなりしてしまえばいいものを。最悪、接吻だっていいだろうに』
「馬鹿を言っちゃいけない。彼女には触れられないよ」
今度は分かりやすく届くように、大げさに溜め息を吐き出してみせる。
「……正」
『何だ』
「僕は、最後まで偽善者であり続けたい。これが僕の矜持だ」
『矜持じゃ腹は膨れないし、世の中を変えることはできない。また会いに行く。それまでに何とかしろ。いいな?』
がちゃんっ。通話は一方的に切れた。
「……ふぅ」
受話器を壁に戻すと、そのまま、額を壁につけて目をとじた。
最も理想的な死に際とはいつだろう。
天寿を全うしたとき?
それとも、苦痛に耐えられなくなったとき?
今、死を目の前にして思うのは、どちらでもないということだ。
顔を上げる。
すやすやと寝息を立てているやちよを遠目に見る。
「……幸せなうちに終われたら、それに勝る喜びはないよ」
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