第十一話
§
はらはらと雪の舞いはじめた道を、幸子さんは帰って行かれました。
幸子さんは旦那さまと二人暮らしですが、昨日から息子さんが帰省されているそうです。
息子さんは他県で働いているとのこと。お嫁さんとお子さん……つまり幸子さんのお孫さんと一緒に、三人で泊まりに来られているのだとか。
さぞ、賑やかな年末年始になることでしょう。
「さて」
わたしは小さく気合を入れます。
玄関まで戻ってきたところで、やるべきことを頭のなかに巡らせます。
「大掃除は幸子さんと済ませたし、少なめだけどおせちも作ったし……」
初めてひとりで過ごす大晦日。
桜花院家へ来たばかりの頃は持て余していたひとりの時間も、今では本を読んだり刺繍をしたり、自分で何をするか考えて過ごせるようになりました。
最初の頃はそわそわしていたことを思い出すと、ふしぎなものです。
「ありったけの毛布を持ち込めば、書物庫も寒くないかしら……」
「何をぶつぶつ言ってるんだい?」
「きゃ!」
旦那さまが洋館側から杖をつきながら現れました。
仮面をつけていないどころか、髪の毛も結んでいません。鎖骨くらいまで伸びた黒髪がさらさらと揺れます。
顔のあちらこちらや、着物から覗く右足はきらきらと眩しい光を放っていました。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
くすくす、と旦那さまが笑みを零しました。
どこか機嫌がよさそうに見えます。
あまり感情を表に出す印象がないので、今日の旦那さまは、なんだか珍しい気がします。
「す、すみません」
「幸子さんは無事に帰ったかい?」
「はい」
「じゃあ、洋館側の食堂へ行こうか」
わたしは目を丸くしました。
洋館側へは足を踏み入れてならないと常々言われていたのです。
「……よいのですか……?」
おずおずとわたしは尋ねます。
旦那さまが、さらりと答えます。
「うん。和館と違って暖房があるから、暖かいよ。年越しの暇つぶしを持って、食堂へおいで」
暖かい、という言葉は、とても魅力的でした。
わたしは本と刺繍道具を風呂敷に包んで、洋館側へと向かいます。
「お邪魔します……」
ついにわたしは洋館の食堂へと足を踏み入れました。
唾を飲み込み、空間を見渡します。ヘルマンさんに連れられていった帝都ホテルになんとなく似ている気がします。
天井にはシャンデリア。
部屋の奥には黒い枠の装置。恐らく、あれが暖炉に違いありません。
中央にはとんでもなく大きなテーブルと、立派な装飾の椅子がありました。
テーブルの傍には、変わった意匠の黒い箱。
旦那さまは黒い箱の近くの椅子に腰かけます。
「サロンストーブだよ。暖炉に火を起こすのはもうしんどいから、ガスストーブを導入したんだ」
薪を燃やすよりもずっと早く楽に、ガスストーブによって空気が暖まります。
くさい、まではいかないものの変わったにおいがほのかに漂います。恐らくこれが、ガスのにおいなのでしょう。
「一時間に一回、換気をして空気を入れ替える。そのときは少し寒くなるけれど、我慢しておくれ」
「はい。大丈夫です」
わたしは、テーブルの向かい側、旦那さまから離れて椅子に腰かけました。
ごつごつとした装飾は意外と体に当たらず、むしろ、背もたれや椅子の部分は程よい弾力があって体を包み込んでくれるようです。
「……」
なにやら旦那さまは分厚い本を読みはじめました。
伏し目がちにしていると、睫毛の影が肌に落ちます。
はっとわたしは我に返ります。
見惚れていてはいけません。
わたしはわたしで、クロスステッチの続きをします。
幸子さんから、刺繍糸を交差させるクロスステッチというものを教えてもらってから、刺し子とはまったく違う面白さを知りました。
厚い平織りの麻布へ、一針ずつ、丁寧に色を刺していきます。完成したら台拭きになる予定。
お屋敷へ少しでも色を取り入れよう、と幸子さんと相談した結果です。
「……」
「……」
ぱら。ぱら。
旦那さまは時々眉をひそめたり、わずかに口を尖らせたりしながら、本を読み進めています。
炎が燃える音と、旦那さまが紙をめくる音。
ただそれだけ。
書物庫での時間と同じように、わたしたちの間に会話らしい会話は、ありません。
それでもどこか居心地よく感じてしまう自分がいます。
いつの間にか刺繍に没頭していました。
壁時計を見て、わたしは手を止めます。
「旦那さま。台所を使わせていただけませんでしょうか」
「もちろん。何を作ってくれるんだい?」
「せっかくなので、年越しそばを食べませんか」
「いいね。お願いするよ」
わたしは和館から運んできた大鍋を持って台所へと入りました。
和館の炊事場とはまったくちがう、近代的な台所です。自力で火を起こすのではなく、すべてスイッチひとつで火がつくようになっていました。
思わず口をぽかんと開けてしまいます。
「ガスキッチンって、すごい……」
§
「お待たせしました」
お盆に乗せた二人前の年越しそば。
両手でしっかりと持って食堂へ戻ると、旦那さまは本を閉じて、離れたところに置きました。
「なんだかいい香りがする」
「朝、気合を入れて、一番だしを取りましたから」
わたしははにかみながら答えます。
幸子さんの計らいで、一番だし用の昆布と鰹節は、いつも以上に高級な品でした。失敗する訳にはいかないと緊張感を持ってだし取りに挑んだのです。
黄金に澄みわたる一番だしへ、醤油や、わずかに本みりんを加えたそばのつゆ。
主役の蕎麦は、十割ではなく二八を選びました。これは、旦那さまが二八を好んでいたから、という幸子さん情報からです。
旦那さまの食欲を考えて、上には刻みねぎを乗せただけの簡素な仕上がりです。
「どうぞ、お召し上がりください」
「いただきます」
旦那さまはそっと両手を合わせました。
ずずっ、と音を立ててそばをすすります。
「……美味しい」
ほぅと旦那さまが息を吐きました。
まだダイヤモンド化していない鼻のあたまが、わずかにあかく染まります。
「ほんとうに美味しい。今日は久しぶりに食べ物の味がよく分かる」
「……よかった、です」
わたしも続いて両手を合わせます。
「いただきます」
ずずっ。
わたしも勢いよくそばをすすります。
食べながら、わたしは旦那さまへ言いました。
「幸子さんと、おせちも作ったんですよ。和館の方に置いてあるので、朝に持ってきますね」
「いいね。楽しみだ」
ところで、と旦那さまが話題を変えます。
「調査は順調かい?」
調査。つまり、呪いを解くための方法は見つかったか、という問いかけでした。
わたしは俯きました。
ぬるくなったそばつゆの表面に、わたしのしょんぼりとした表情が映ります。
「いえ……。呪術の本はいくつか見つかったのですが」
わたしは書物庫で見つけた本の内容を思い浮かべます。
「呪いをかける方法はたくさんあっても、呪いを解く方法というのはどこにも載っていなくて」
「そうだろうね」
旦那さまは静かに答えました。
そもそもヘルマンさんや旦那さまが、ありとあらゆる方法を調べつくした後なのです。
学のないわたしでは追いつくことすらできません。
「繰り返しになるけれど、君が落ち込んだり背負う必要はない。人間は、
「でも……」
「もうとっくに動けなくなる頃だったんだ」
旦那さまは静かに言いました。
それから、そばの器に両手を添えます。
「それなのに、こんなに美味しいそばを食べることができた。
「……」
ごーん、ごーん、……。
外から除夜の鐘が聞こえてきました。
わたしたちは窓の外へ顔を向けます。
「こんなに穏やかな気持ちで新しい年を迎えることができる。君のおかげだ。……ありがとう」
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