第十話
§
旦那さまの呪いを解くと決めてから、数日が経ちました。
静かな日々は、突然破られました。
「おい、
突然、野太い男性の声がお屋敷いっぱいに轟いたのです。
わたしはちょうど土間に降りたところでした。
慌てて割烹着のまま玄関へ走って行くと、帽子をかぶり、焦げ茶色のスーツを着た男性が立っていました。
ひとつの可能性に思い当たり、わたしは口を開きました。
「……もしかして、
西園寺さま。
たしか、旦那さまの学友、だったはずです。
応じるように男性が勢いよく帽子を取りました。
年頃は旦那さまと同じくらいに見えます。
短い髪。太い眉毛。そして、吊り目。
声の調子と同じくきつい雰囲気の顔立ちで、彼はわたしを睨んできました。
「あなたが、
刺すような視線に、わたしは、俯き答えます。
「……はい。やちよ、と申します」
「名乗りはいい。唯月は二階か?」
確実に西園寺さまだと思われる男性は、わたしには名乗ってくれません。
革靴を脱ぐと、ずかずかと中へ入ってきました。
「お、お待ちくだ……」
「
わたしの声を遮り、西園寺さまを止める、穏やかでよく通る声。
階段の上に現れたのは旦那さまです。
わたしは内心、安堵しました。
すると西園寺さまがわたしを一瞥します。
「お前がいつまでも呪いをこの女に移さないから、様子を見に来てやったんだよ」
「そんなことを言うものじゃないよ」
旦那さまは柔らかな口調で応じます。
……どこか怒りが滲んでいるように感じたのは、わたしだけでしょうか。
「言っていいこととよくないことがある。彼女は宝石病のことを詳しく知らず嫁いできた可哀想な人だ。僕は彼女へ迷惑料として、遺産の一部を与えるつもりだよ」
「ハッ」
蔑むように西園寺さまは鼻で笑います。
「毎度のことだが、お前の偽善には反吐が出る。そんなことを言っていると、俺だけじゃなく、教授や、議会のじいさんたちがこの家に押しかけてくるぞ」
「うーん。それは困ったな」
ちっとも困っていない口調の旦那さま。
わたしは安堵したのも束の間、ひりひりした雰囲気に、どんな顔をしたらいいのか分かりません。
そんなわたしに気づいたのか、旦那さまがわたしに話しかけました。
「話が長くなりそうだから、和館へ戻っていいよ」
「……は、はい」
それから旦那さまは、西園寺さまへも声をかけます。
「正。外は冷えるだろう。とりあえず上がっておくれ」
「そのつもりだ。今日は寝かせないぞ! お前のすべてを論破してやる!」
西園寺さまはわたしをないものとして通り過ぎ、二階へと上がっていきました。
心臓がばくばくいっています。
……胸がしめつけられるように、苦しくて。
改めて思い知らされました。
呪いを、宝石病を移してもらえないわたしには、価値がない。
ここにいる意味が、ないのだと……。
初めから分かっていたはず、なのに。
鼻の奥がつんとしてきました。思い切り、鼻をすすります。
「奥さま!」
ぱたぱたと幸子さんが走ってきます。
「西園寺さまのお声が聞こえたような気がするのですが」
「いらっしゃってます。今、旦那さまと二階へ」
「徹夜になりそうですね、それは困りました」
「……幸子さん」
「はい?」
――わたしはここにいてもいいのでしょうか?
そんな問いかけを、ぐっと飲み込みます。
旦那さまの死を引き受けられないわたしに、居場所はないのです。
分かっています。
「いえ、何でもないです。部屋に戻りますね」
わたしは冷えきった、静かな廊下を進みます。
和館の、わたしにあてがわれた畳の間。
最初は、最低限の家具だけだったのに。
今は。
服と刺繍道具、それから外国の絵本が置いてあります。
刺繍缶の蓋へ指先を伸ばします。
旦那さまの贈り物。
……旦那さまの心。
「呪いを……」
呪いを引き受けさせてくれないのであれば、呪いを解く方法を見つけなければ。
「解かなきゃ……」
諦める訳にはいきません。
暗中模索だとしても。
先日の、旦那さまの言葉を思い出します。
【僕は思うんだ。皆に等しく勉強の機会を与えられた世の中は、もっと、住みやすくなるのではないかと】
旦那さまには、まだやるべきことがあるはずなのです。
呪いなんかで、宝石病なんかで。
死なせる訳にはいかないのです。
§
西園寺さまが桜花院家へやって来た、翌朝。
旦那さまは朝ごはんを食べに来るはずの日でしたが、姿を現しませんでした。
「明け方まで西園寺さまと語らっていたようですよ」
しみじみと幸子さんが言います。
「途中で飲み物を運びに行きましたが、あんな旦那さまは久しぶりに見ました。やっぱり政治に参加したいんですよねぇ」
「……」
「奥さま。もしかして、落ち込んでます?」
「えっ?」
幸子さんに言われて、わたしは顔を上げました。
「奥さまが桜花院家に来てから、旦那さまは少しずつ、生気が戻ってきているんですよ。もしかしたら、奇跡が起きて、このまま宝石病に打ち勝てるかもしれませんよ。ふふ」
「そう、でしょうか……」
「そうですとも。私はすごく感謝しているんです、奥さまに」
――しかしそんな淡い期待は見事に打ち砕かれます。
数日後。
旦那さまの右足が、完全にダイヤモンドとなってしまいました。
移動には杖が欠かせなくなり、二階へ上がるのが難しくなったため、拠点を一階の書斎へと移されました。
§
「久しぶりに出番が来て、竹ぼうきも喜んでると思いませんか?」
幸子さんはにこにこしていますが、空元気というのは見て分かります。
今日は大晦日。
わたしと幸子さんは、早朝から大掃除の続きに励んでいました。
「そうです、ね」
「先々代の頃から、修理しつつ使われているそうですよ。それこそ付喪神になるかもしれませんね」
わたしは手にした竹ぼうきへ視線を向けます。
ヘルマンさんの言う魔法道具のようになることがあるのでしょうか。付喪神なら、空を飛ぶ道具というよりは、喋り出しそうですが。
そんな的外れなことをぼーっと考えていたら、幸子さんに背中を叩かれました。
「きゃっ」
「もう。奥さまが辛気臭い顔してどうするんですか。笑顔で新年を迎えられるように、笑っていきましょう!」
大掃除が終わり。
おせちの仕上げを済ませ。
年越しのためのすべての作業が、完了しました。
「それでは、奥さま。よいお年をお迎えください」
幸子さんも三が日はご家族と過ごされるということで、玄関でしばしのお別れです。
「はい。今年はほんとうにお世話になりました。幸子さんがいてくれたから……」
言いかけて涙をこらえます。
いちばん大きな問題はまだ解決していないのです。
ここで感極まってはいけません。
わたしは無理やり口角を上げます。
「幸子さんも、よいお年をお迎えください」
わたしは玄関で深く頭を下げます。
いつまでも手を振ってくれる幸子さん。その姿が見えなくなるまで、ずっと立っていました。
門松、しめ縄、鏡餅。
新年を迎える準備は、万端です。
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